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教養・歴史 大学

大学教授は文系の学部学生の教育に向いていない 塚崎公義

大学には学生の教育と研究の二つの役割がある
大学には学生の教育と研究の二つの役割がある

 大学の役割とは何か。研究者を育てるのにはいいが、広く社会に通用する人材を育てる組織にはなっていない。

研究者と教育者に分ける改革を

 大学の講義はつまらない、という印象を持つ人は多いだろう。仮にそうだとすれば、大きな理由は研究者が教育を担っているからだ。

 研究者は、狭い分野を深く研究し、論文を書くのが仕事だ。たとえば経済学部に、室町時代の貨幣制度について研究している教授がいるとしよう。彼(彼女)は学部の学生に室町時代の授業だけをすればいい、ということはまずない。金融分野の担当として、現代の金融政策や株価変動について講義する必要がある。そうした内容は専門ではなく、得意でもないにもかかわらず、である。

 語学でも、ドイツ語入門でABCの読み方を教えているのが、中世ドイツ文学の研究者だったりする。それより語学学校の先生を招いた方がはるかに学生の役に立つというのはかなり自明だろう。

 もう一つの問題は、研究者は研究者を養成することは得意でも、ビジネスパーソンを養成するのは得意ではない、ということである。ビジネス文書は経験と常識とある程度の勘を駆使して書くものだが、論文は真理を探究するものであり、発想も文体も全く異なる。研究論文とビジネスで取り扱う文書は全く異なるので、卒業論文の指導を受けると就職してから面食らうことにもなりかねない。

 歴史的には、研究者の研究内容を学生が学ぶのが大学だったのだろう。それが故に研究者が教育も担当している。しかし、現代において、大学が果たしている役割はかなり違う。もちろん、理系の学部では今でも研究室で教授と学生が一緒に研究していることが多いし、文系でも大学院は研究者を養成するための組織なので、ここで論じていることは当てはまらない。しかし、多くの文系の学部の学生は広く浅く学ぶので、必ずしも研究者が教える必要はない。

論文重視の価値観

 このように、研究者が教育をすることは望ましくない、と筆者は考えており、それに賛同する人も少なからずいるのだが、なぜ変わらないのだろうか。それは、変える動機付けが、大学(教授)にも、学生にも、就職先の企業にもないからだ。

 教授のなかには、「自分は研究に専念したいから、講義をしなくてよいならば助かる」と思っている人もいる。しかし、私の経験では、「論文を書いたことのない人に講義を担当させるのはマズいだろう」と多くの研究者が考えている。それは彼らが心の中で「人間の価値は論文を書いたか否かで決まる」と(無意識であっても)考えていることが大きい。自分たちは研究によって真理を追究し、それを論文に書くことに強い使命感を持っていて、それが最も尊い仕事だ、と思っている教授が多いのである。

 ちなみに筆者の勤務先大学でドイツ語入門の非常勤講師を依頼することになった際、「語学学校の先生に来てもらおう」と提案したのだが、「論文を書いたことのない人に、学生の教育を任せるわけにいかない」というのが教授会の雰囲気で却下された。

 筆者は大学教授になる前、銀行に勤めていて、景気予測のリポートを多数執筆したが、それは教授たちには評価されなかった。「長年の経験と勘では景気は……」などという書き物は、真理を探究する研究とは全く異なるものだからである。

 学内で准教授を教授に昇格させる教授会においても、審議される資料の大半を研究内容が占めていて、講義が分かりやすいとか、教え方が上手とか、学生を成長させる能力とか、教育者としての力量を問うことはほとんどなかった。やはり大学においては「論文で人間の価値を測るべき」だということなのであろう。

 一方、学生や保護者にとって重要なのは、単位と卒業証書をもらうことである。教育熱心な教授が一生懸命教えたとしても、単位を落としては元も子もない。むしろ退屈な講義でも、我慢して聞いて単位がもらえるならありがたい。少なくとも「講義がつまらないから大学を改革しよう」とまでは思わないだろう。

 学生を採用する企業も就活の際に求めるのは、どれくらい熱心に勉強したかではなく、「学生時代に力を入れたサークル活動など」である。大学の成績は当てにならないことを知っているため、勉強以外に何をしたかを重視する。

少子化で剛腕改革に期待

 では、どうすればいいのか。筆者の理想としては、まず研究者と教育者を分けることである。そのうえで、全国に数カ所の国立研究所を作り、研究者はそこに集める。教育をしない研究者であれば、各大学に所属する必要はないので、大規模な研究所に集約した方が効率的であろう。

 一方で、大学では教育の専門家が教育を担う。その主な役割は何か。大学を企業人やビジネスパーソンを育てるところと考えれば、理論を教えるより思考させることが大切になる。数学の定理を覚えさせるのではなく、定理の導き方を教えることで考える訓練をさせる、というイメージである。さらに、考えるだけでなく、考えたことを他人に説明する訓練も必要だ。自分の考えたことを答案や論文に理路整然とまとめるのではなく、分かっていない相手に過不足なく伝える能力がビジネスの現場では求められる。

 とはいえ、こうした大規模な改革が実現する可能性は極めて低い。それでも筆者は希望を持っている。少子化によって受験生が減少し、危機感を覚えている大学は多い。そのなかで、剛腕の理事長が改革を試みるかもしれないからである。

 たとえば語学学校の教員を招いて語学の講義を担当してもらい、「本学の卒業生は語学ができます」という売り込みを企業に対して行う。受験生、保護者、就職指導の高校教員などに対しても、「語学に強い我が大学を卒業すれば、国際的な企業に就職する可能性が高まるはずだ」と宣伝すればよい。

 中世ドイツ文学の研究者には、大学付属の研究所に移籍してもらう。そうなれば、研究者たちも教育の手間が省けて研究に専念できるようになり、満足するはずだ。

 資金面でもスッキリさせる必要がある。学生が払った授業料は教育する教員の給料に使い、研究所の研究員の給料は文部科学省から受け取った補助金で賄えばよいわけだ。今は、学生の払った授業料が教授の給料となり、研究の対価になっている部分があるだろうが、それを改めるということだ。

 ちなみに、東京大学の2021事業年度の決算を見ると、「経常収益は、運営費交付金、補助金等の国費が約36.9%、自己収入約29.7%、外部資金約29.2%、資産見返負債戻入約4.2%という構成比率」とある。イメージとして、大学の教授の3分の1が授業料など(自己収入)から給料を得る教育者、3分の2が研究所所属の研究者、ということになれば、収入と支出のバランスがよいということになろう。私立大学は、国費等の比率がもう少し低いだろうから、教育者の比率はもう少し高くなるだろう。

 実際には、語学学校から教育者を招くことで、教授数が増えてしまうが、それは高齢の教授が定年退職して教授数が自然減するまでの一時的なことなので、改革のためのコストだと考えればよかろう。

 語学で改革が成功すれば、政治や経済も予備校や高校の先生に来てもらえばよい。一気に全面的に移行するというよりは、少しずつ時間をかけて改革する。研究者は研究に専念し、教育者は教育が上手な人に任せれば、大学も教育機関としての役割をより果たせるようになるだろう。

(塚崎公義・経済評論家、元久留米大学教授)


週刊エコノミスト2022年11月15日号掲載

大学教授は教育に向いていない 研究者と教育者に分ける改革を=塚崎公義

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