小説 高橋是清 第215話 相沢事件 板谷敏彦
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(前号まで)是清は5度目の大蔵大臣就任。軍の支持をもつ平沼騏一郎らは美濃部達吉の天皇機関説を倒閣材料に岡田内閣を追及、政友会も美濃部の説を問題視しない政府を責め政局に使用する。
大正10(1921)年10月、ドイツの保養地バーデン・バーデンに結集した欧州派遣の陸軍中堅エリート将校永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次たちは、国家を挙げて戦う総力戦を目の当たりにして、国民と乖離(かいり)している日本陸軍の前途を憂えた(第149話)。
あれから十数年がたち、彼らは二葉会、一夕会と勢力を拡大しつつ陸軍中枢に根を下ろしていた(第192話)。
そうした中で、北で満州と接するソ連への対応を巡り、いつしか永田と小畑は対立していた。
皇道派
ソ連は1928年から始まる第1次5カ年計画によって重工業の建設と農業の集団化など革命後の経済復興が顕著であった。世界が恐慌に陥る状況にあってもソ連経済だけは堅調で、資本主義に対する社会主義の優位性を労働者だけでなく、国家建設を考える政治家や軍人たちにもアピールしていた。
ロシア駐在経験がありソ連が専門の小畑は、やがてソ連が第2次5カ年計画に入り軍事大国となる前の段階でたたいておくべきと主張した。
一方で欧州大戦のような来たるべき総力戦のために、満州支配を固め天然資源など国力の涵養(かんよう)を目指す永田は、ソ連攻略は時期尚早と主張した。
2人の議論はかみ合わず、やがて個人的な確執へと変わっていく。
永田らの一夕会はもともと陸軍を牛耳ってきた長州閥とそれに連なる宇垣一成系派閥に反発、代わって荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎などの将軍を押し立てていくことを申し合わせていた。
昭和6(1931)年12月に荒木貞夫が犬養毅内閣の陸軍大臣に就任すると、参謀総長にお飾りとして宮様の閑院宮載仁親王を据え、それを補佐する参謀次長には盟友の真崎を起用、その後自分の息のかかった人物を重用して派閥を形成した。これが「皇道派」と呼ばれることになる。
荒木は、日本陸軍を「皇軍」と呼んだり、竹槍(たけやり)三百万本あれば日本は大丈夫と発言し、「竹槍将軍」などと揶揄(やゆ)されたりするような精神主義の人物で、理屈でやってくる大蔵大臣の是清にはさんざんやり込められてきた。
また革命を志向する過激思想の青年将校たちとも酒を酌み交わし、理解を示し、第一師団に彼らを集めたのも荒木である。小畑はこの派閥に取り込まれた一方で、永田や東条英機らは荒木から次第に距離を置くようになった。
永田は立憲体制に整合的な方法で陸軍の権力掌握を目指し、陸軍の統制を重んじることから皇道派に対して「統制派」と呼ばれるようになった。
昭和9年1月、帝人事件の少し前、是清にやり込められ、永田ら統制派からも距離を置かれて発言力を喪失し始めた荒木は、インフルエンザを理由に自ら陸軍大臣を辞任した。
荒木は後継に盟友の真崎を起用しようと考えたが、参謀総長閑院宮載仁親王に忌避され、陸軍大臣には永田に近い林銑十郎が就任した。
その結果、真崎は陸軍教育総監に回された。ちなみに教育総監は陸軍大臣、参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれる重職であるが、陸軍大臣のように強力な人事権はない。
林が陸相に就任すると当時歩兵第一旅団長に出ていた永田を陸軍中枢である陸軍省軍務局長に起用した。永田は林大臣の下で陸軍の統制の立て直しを始める。これは要するに皇道派の一掃を意味した。また永田は青年将校の会合を禁ずるなど部隊の統制も強化した。
小冊子『国防の本義と其強化の提唱』を発行したのも永田で、これは陸軍としての統一した見解を世に出し…
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週刊エコノミスト
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