小宮クンと宇沢クン 昭和3年生まれのラディカル 佐々木実
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経済学の屋台骨を支えた二人を「水と油」と見る向きは少なくない。だが、日本の近代経済学の黎明期をともに生きた二人は、たとえ激論しても崩れない信頼で結ばれていた。
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最初の出会いが、その後の関係を決定づけることがある。小宮隆太郎と宇沢弘文──昭和3(1928)年生まれの二人が、まさにそうではないだろうか。
宇沢は東京大学の数学科に入学し、特別研究生として大学院に進んだ。助手の給与並みの奨学金を給付される特別待遇だ。ところが、敗戦後の混乱した社会のなかでマルクス主義に感化され、宇沢は経済学者になることを決意する。大学院は2年で退学してしまった。
古谷弘の研究会
統計数理研究所、朝日生命保険と渡り歩き、行き詰まっていた宇沢を救ったのは、第一高等学校ラグビー部の先輩、稲田献一だった。稲田も東大数学科出身で、独学で経済学を学んで経済学者に転身し、東京都立大学で助手をしていた。小田急線列車内でばったり再会した後輩の近況を聞き、すぐに苦境を察した稲田は後日、東大の近代経済学者の研究会に半ば強引に宇沢を連れていった。1953年11月のことである。
宇沢はこのとき、小宮隆太郎と出会った。大学院生の小宮は経済学部の特別研究生。この日の講師役は小宮で、アメリカの最新論文を解説していた。見事な解説を聞きながら、宇沢は感動というよりむしろ衝撃を受けていた。経済学に高度な数学が使われていたからだ。
研究会の終了後、興奮冷めやらぬ宇沢は稲田に、「東大の経済学部にはできる人がいますね」と声をかけた。稲田はいつもの上州弁なまりで素っ気なく応じた。
「おめえ、あれひとりだよ」
小宮が解説した論文の著者こそ、ケネス・アローだった。宇沢はこの日以降、アローに傾倒して数理経済学の論文を渉猟し、勢い余って論文をアローに送りつける。すると、米スタンフォード大学への招待状がアローから届き、アメリカン・ドリームを地で行く宇沢の大活躍が始まる。小宮との出会いが、出発点となったのである。
研究会の同世代の仲間、小宮、宇沢、稲田(1925年生まれ)はその後、日本の近代経済学の屋台骨を支える存在になる。特筆に値する研究会を主宰していたのは古谷弘(当時は東大助教授)。東大ではマルクス経済学派が近代経済学派を圧倒していたが、劣勢学派の若手のリーダーが古谷だった。
日本における数理経済学の先駆者・安井琢磨は戦争末期に東大から東北大学へ転出した。あとを継いだのが東畑精一の薫陶を受けた古谷で、宇沢が研究会に初めて参加したときは、米ハーバード大学に留学中だった。
ポール・サミュエルソンなどに学んだ古谷…
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週刊エコノミスト
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