経済・企業

怖いほどの明晰さ 実証なき理論を認めず 前田裕之

 巨星落つ──。戦後の日本の近代経済学をけん引し、産業、貿易、金融政策で論争を挑み続ける一方で、後進指導に全力を尽くした小宮隆太郎氏が10月31日亡くなった。その足跡と功績を振り返る。

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 1959年、3年間の米国留学を終えて東京大学に戻った小宮隆太郎氏は、日本の経済学界の現状に強い疑念を抱いた。

 マルクス経済学の全盛期であり、東大ではカール・マルクスの『資本論』やルドルフ・ヒルファディングの『金融資本論』などを教材にしている教員が多かった。講義の内容は、日本経済が直面する問題や経済政策とはほとんど関係がない。経済理論と現実の経済問題が大きく乖離(かいり)していた。

 東大助教授に就任して間もない小宮氏が留学した米ハーバード大学では、学者同士が日々の経済問題について盛んに議論していた。身近な経済問題をまず標準的な経済理論に基づいて理解しようと努力し、答えが出ない場合は新理論を探求する。

新日鉄誕生に反対

 米国では、個人や企業の行動を分析の対象とし、自由主義の色彩が濃い新古典派経済学(ミクロ経済学)や、不況時には政府の介入を求めるケインズ経済学(マクロ経済学)が標準(日本ではマルクス経済学以外の経済学を「近代経済学」と総称していた)だった。小宮氏は新古典派理論を中心に標準理論を身につけたが、日本ではなお少数派だった。

 日本の経済学を進歩させるためには、現状を打開するしかないとの意を強くした小宮氏は、標準理論に足場を置きながら日本の産業政策や貿易政策などを俎上(そじょう)に載せ、論争を巻き起こす。「通説批判」が口癖となり、「通念の破壊者」「偶像破壊者」と呼ばれるようになった。

 60年代には資本の自由化を支持する論陣を張り、大企業による独占に歯止めをかける狙いから八幡製鉄と富士製鉄の合併(合併後の名称は新日本製鉄、現日本製鉄)に反対する学者グループに名を連ねた。

リフレ派とは距離置く

 金融政策に対する関心も強く、70年代のインフレーションや80年代のバブル経済への対応を巡って日銀を厳しく批判した。2000年代には、日銀の量的緩和政策は「微害微益」にとどまるだろうと指摘。積極的な金融緩和を求めるリフレ派とは距離を置いた。

『経済政策の理論』(64年)、『経済成長と国際収支』(69年)、『企業金融の理論』(73年)、『日本の産業政策』(84年)、『日本の産業・貿易の経済分析』(99年)、『金融政策論議の争点』(02年)など数多くの論文や著作(共著を含む)を手掛けた。

「私は経済理論の作り手ではなく、ほぼ一貫して理論の使い手として仕事をしてきた」と自己分析するが、専門の国際経済学を中心とする理論研究や日本経済に関する実証研究で成果を残した。

理系から文系へ

 1928年、京都市で生まれた。父は工学部出身のエンジニアで、長男の小宮氏にも同じ道を歩むよう望んだ。自分もそのつもりでいたが、「科学技術の振興こそ、日本を救う道だ」と主張する高校の友人に「社会の仕組みを変えないと科学技術が進歩しても日本はよい国にならない」と反論するなど、エンジニアへの思いは、それほど強くはない。数学や物理があまり得意ではないこともあり、高校卒業前の夏に理系から文系へと志望を変えた。

 49年、東大に入学し、経済学部でどの先生についたらよいのか悩んでいたとき、高校時代の友人の父、石坂修一氏が推薦したのが、東大では数少ない近代経済学者、木村健康氏だ。石坂氏は、出版法違反で起訴された河合栄治郎・東大教授の裁判で第1審の裁判長、木村氏は河合氏の特別弁護人の立場だった。

 石坂氏は、最後まで河合氏を擁護し続けた木村氏の姿勢に感銘を受けていた。小宮氏自身は、マルクス経済学と近代経済学の違いをよく理解しておらず、このときの選択が人生の分岐点となる。

 幼少期から体があまり丈夫ではなく、大学に入っても病気がちで講義にはあまり出なかった。それでもゼミには欠かさず出席し、木村ゼミ以外の近代経済学のゼミにも参加した。英国の経済学者ジョン・ヒックスの『価値と資本』や米国の経済学者ポール・サミュエルソンの『経済分析の基礎』などから経済理論の基礎を吸収した。

 父は会社勤めのエンジニアであり、自分も会社員になる予定だったが、木村氏から大学に残るように勧められた。

 特別研究生への応募論文が通って採用が決まり、学者への第一歩を踏み出す。小宮氏は後に自身のゼミ生に、木村ゼミに入った経緯をよく語った。木村氏の系譜を継承した足跡を誇りに思っていたからだ。

500人の教え子

日銀や学者として活躍する教え子は多数(左から白川方明、岩田規久男、中曽宏の各氏)
日銀や学者として活躍する教え子は多数(左から白川方明、岩田規久男、中曽宏の各氏)

 若いころは研究に多くの時間を使ったが、年齢を重ねるうちに教育にも力を注ぐようになった。59年度から東大経済学部、89年度からは青山学院大学の国際政治経済学部でゼミを担当し、75歳で退職するまでの間にゼミ出身者は合計で約500人にのぼった。

 ゼミでは課題図書を輪読し、ゼミ生を交えて徹底的に議論する。小宮ゼミの出身者は議論好きだと評判になった。日銀の白川方明前総裁と中曽宏前副総裁、旧大蔵省(現財務省)の榊原英資元財務官は東大経済学部の小宮ゼミ出身。日銀の岩田規久男元副総裁は大学院で指導を受けた一人である。

 近年のリフレ政策を巡る論争には、小宮氏の教え子たちが深くかかわっている。岩田氏はリフレ派を代表する論客として白川総裁時代の日銀を強く批判し、意見が対立した。

 小宮氏は「あまりにも日銀バッシングがひどい」と白川氏を援護していた。「意見が違うときには、相手が誰であろうと、できるだけ議論し合う」と唱えていた小宮流の論争ともいえる。

理論を実証に合わせる

 岩井克人・東大名誉教授も小宮ゼミの出身だ。ゼミの最初のテキストは『経済政策の理論』。その後、ジョン・ヒックスの『資本と成長』の英語版を読んだ。古典派経済学の資本蓄積論から最先端の最適成長理論まで視野に入れた理論書で、論理的な文章の書き方を学んだ。

「先生の明晰(めいせき)さは、怖いほどだった。実証的な裏付けのない理論、理論的な整合性のない政策には厳しかった」

 岩井氏はこう振り返る。主流派(新古典派)の学説であっても、小宮氏は疑問があれば議論を仕掛ける。

「理論は実証に追随すべきだという信条を持っており、使える道具であるなら使おうという姿勢だった。日本の現実が新古典派のモデルに合わなければ、理論を実証に合わせることに何のちゅうちょもなかった」(岩井氏)

 岩井氏は後に小宮氏から宇沢弘文氏(東大名誉教授)を紹介され、2人を師として仰いだ。

 岩井氏は81年、米国から帰国し、東大経済学部の助教授に就任した。昼食時に大学内の教職員食堂に足を運ぶと、テーブル席に小宮氏や宇沢氏ら経済学部の教員が並んで座り、活発に意見を交換していた。岩井氏が端の方の席に座ると、小宮氏は「岩井君、この政策はおかしいと思わない?」と早速、直球を投げてきた。

(前田裕之、学習院大学客員研究員・文筆家)


週刊エコノミスト2022年12月13日号掲載

追悼 小宮隆太郎 経済論争を巻き起こした「通念の破壊者」 怖いほどの明晰さ 実証なき理論認めず=前田裕之

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