週刊エコノミスト Online 創刊100年特集~Archives
作家 半藤一利「自分が知らないと、ウソを言われてもわからない。だから戦争について勉強し始めた」(2006年1月17日)
週刊エコノミストは、各界の第一人者にロングインタビューを試みてきました。2004年から「ワイドインタビュー問答有用」、2021年10月からは「情熱人」にバトンタッチして、息長く続けています。過去の記事を読み返してみると、今なお現役で活躍する人も、そして、今は亡き懐かしい人たちも。当時のインタビュー記事から、その名言を振り返ります。
自らを「歴史探偵」と呼び、『日本のいちばん長い日』『ノモンハンの夏』など、数多くのノンフィクション作品を残した半藤一利さん(2021年1月に死去)。週刊エコノミストには2006年1月17日号の「ワイドインタビュー問答有用」に登場し、半生を振り返った。昭和初期にもてはやされた「革新」、現代の「改革」という言葉の危うさについても語っている。当時の記事を再掲する。※記事中の事実関係、肩書、年齢等は全て当時のまま
ノンフィクション作家
昭和史の語り部 半藤一利
ワイドインタビュー問答有用
2006年01月17日
「今の『改革』は、戦前の革新ブームと同じです」
戦後60年の節目となった2005年、この人ほど「昭和史の語り部」としてメディアに登場した人もいないのではないか。軍国日本の闇に光を当て、数々のノンフィクションを発表してきた。その原点は1945年3月10日の東京大空襲の体験にあった。聞き手=稲留正英(編集部)
―― お生まれは東京の下町だそうですね。
半藤 東京の向島です。今は墨田区八広といいます。三輪里稲荷神社、通称こんにゃく稲荷で有名ですが、その境内で生まれ育ったようなものです。1945年3月10日未明の大空襲でやられた時は、中学2年生。前年11月頃から勤労動員で、大日本兵器という海軍の軍需工場で働いていたところを襲われたんです。その頃はまだ「こんなもん消せるんだ」と教わっていましたので、一生懸命に消していたんですね。で、逃げ遅れまして、あとは火と煙に追いまくられて、中川という川に結果的には落っこっちゃったんですけれども、死ぬ思いをしました。
―― そのようなリアルな体験を経て、やはり戦争はとんでもないと。
半藤 そう思いました。いちばん感じたのは、焼け跡に戻った時ですね。ほんとにまわり一面焼け野原ですからね、私の家なんてどこにあるんだと。家に近づくと、ポワーッと白い灰に覆われている。歩くとプカプカプカッと鳴るぐらいで、何だろうかと見ると畳なんです。焼けたやつが真っ白になってました。その時、子供心に思ったのは、もうこれからおれは「絶対」っていう言葉を使わないぞと。絶対に日本が正しいとか、絶対におれは生き延びるとか。ですから、私は以来「絶対」という言葉をたぶん100パーセント使っていない。それが中学2年生、3月10日の朝の実感でしたね。
ボート全日本優勝で新聞記者になり損ねる
大空襲を受け茨城県に疎開するが、今度は米戦闘機P51の機銃掃射を受けたため、父親の実家の新潟県長岡市に疎開し、長岡中学校に入学する。そこで、長岡出身の名将、山本五十六海軍大将(死後に元帥)に親近感を覚えた。歴史にも少しは興味を持っていた。しかし、決して文学少年ではなかったという。学生時代はその長身を生かし、むしろ「体育会系」として鳴らした。
半藤 変な話ですが、私は大学の時にボートの選手だったんですよ。全日本選手権の優勝クルーだった。9月の決勝に勝ち日本一になったものだから喜んで。仲間と一緒に東大の谷川寮(群馬県みなかみ町)に遊びに行き、何日もドンチャン騒ぎをやっていたんですね。そうしたら、毎日新聞も朝日新聞も入社試験の締め切りが全部終わってしまった。それで、新聞記者になりたかったのですけれど、雑誌記者になっちゃったんです。
この1953年の文藝春秋新社(現文藝春秋)入社がその後の人生を方向付ける。配属された出版部で、『帝国陸軍の最後』『大海軍を想う』などの戦記物で有名な伊藤正徳氏(時事新報社長を経て、同社を併合した産経新聞の論説主幹を務めた)担当の編集者となる。伊藤氏の紹介で、当時まだ健在だった旧陸海軍幹部の取材に奔走することになった。
半藤 50年代半ば頃は、まだ年輩の元海軍軍人や元陸軍軍人がたくさんいて、記憶も鮮明だったんですよ。そういう方のところへ取材に行って、取材ノートを伊藤さんに出していたのです。そうしたら、伊藤さんが「半藤君、これちょっと違うぞ」と。「は?」と聞き返したら、「この人、ウソついているよ。こんなことを言える立場になかったはずだ」とか言われましてね。「ああ、自分が知らないと、ウソを言われてもわからない」ということで、戦争関係の勉強を始めたんです。54年ぐらいからです。文藝春秋には文学青年が山ほどいて、そういう連中から「何やっているんだよ、おまえ。名前もハンドウだがほんとうに反動分子だな」とからかわれましてね。その頃の日本は平和主義ですから。
その伊藤正徳氏はまもなく、喉頭ガンで死の床に伏す。
半藤 その時に伊藤さんから「せっかくここまで勉強したんだから、君はこのまま続けたほうがいいと思うよ。こういう歴史というのは、敗戦国では振り返るのが嫌な人が多いだろうけれども、必ず必要になってくるから」と言われたんですね。「ああ、それはそうだ」と思いまして、それで今日に至るまで、飽きずにやってきたということです。
出世作となったのが、65年の夏に書き上げた『日本のいちばん長い日』だった。45年8月14日の正午に天皇が戦争終結の聖断を下してから、玉音放送が行われるまでがちょうど24時間。しかも、陸軍はなお徹底抗戦が主流だった。果たして、日本は無事に終戦を迎えることができるのか。昭和史のドラマとしてはこれ以上ない舞台設定であった。事実、岡本喜八監督によって映画化され、67年のヒット作品となった。しかし、今では、そこには描ききれなかった水面下の動きがあったと考えている。
阿南陸軍大臣のクーデター計画
半藤 まだまだ真実が出ていないと思うのは、陸軍省関係なのですよね。陸軍省内部のクーデター計画に、上層部がどの程度までかんでいたのか。ついに皆さん口を閉じたまま死んじゃいましたから。『日本のいちばん長い日』では、終戦の日の朝に自決した阿南惟幾陸軍大臣は、陸軍のクーデターを抑えた側に描かれている。しかし、昭和天皇の崩御後に発表された『昭和天皇独白録』によると、天皇の耳には、陸軍省軍事課長の荒尾興功大佐がクーデター計画の首謀者として入っているんですね。荒尾課長が入っているなら、阿南さんも危ない。荒尾さんは阿南さんの本当に腰巾着みたいな人でしたから。私は、荒尾さんにはなんべんも会いましたが、クーデター計画なんてこれっぽちも認めませんでした。
さらに、自決後の15日朝、阿南さんの遺体を寝かせているところへ米内光政海軍大臣がお参りにくる。そしたら陸軍の若手が、「チャンスだから斬っちまおう」と興奮するのです。これは『日本のいちばん長い日』には出てこない。なぜかというと、その時は確証がなかったからです。実は、阿南大臣の義弟で陸軍中佐だった竹下正彦さんが日記をつけていて、それを私に見せてくれたのですよ。それで、何の気なしにめくろうとしたら、「ああ、前はだめだ。ここだけだ」と言うから、そこだけ写真を撮った。実は、そのめくったいちばん端に「米内を斬れ」と阿南さんが言ったと書いてあったのです。竹下さんはその時はそこを見せてくれなかったからわからなかったが、その後活字になって出てきました。そういうところがちょっと、その当時は微妙なところだったのです。
70年代に入って『週刊文春』『文藝春秋』の編集長を歴任する。文壇の巨人、司馬遼太郎氏との濃密な付き合いが始まったのはその頃だった。司馬氏は、1939年にソ連軍と日本軍が満蒙(当時の満州国=現中国東北部とモンゴル人民共和国=外モンゴル)国境で武力衝突したノモンハン事件を主題とした小説を書こうとしており、半藤氏はその試みを強く支持する。
半藤 司馬さんは、いちばん初めは「参謀本部」という題で書こうとしたのですよ。でも「参謀本部」じゃ膨大になりすぎるからと、のちノモンハンに焦点を当てることにした。私はその時、ノモンハン関係の陸軍の参謀本部とか関東軍の人とかの取材をずいぶんお手伝いしたのです。しかし、そのうち司馬さんが「半藤君、やっぱり無理だ」と言い出した。私は、どうしてもと最後まで粘ったのですが、亡くなる(1996年の)2~3年前に「もうこの話やめた」ってものすごい強い声で言う。「この話はもう言わないでくれ、それでも書けというのなら、おれに死ねと言っているのと同じだ」なんてね。それっきりノモンハンの「ノ」の字も言わなくなりました。
司馬遼太郎の挫折と罪
半藤氏は、司馬氏がある陸軍元参謀へのインタビュー記事をきっかけに、ノモンハン事件の生き残りで小説の主人公と目していた歩兵第26連隊連隊長の須見新一郎元大佐から、絶交状を送りつけられたのが直接の原因と見る。しかし、それ以上に、旧軍指導部の愚劣さに司馬氏が嫌気がさしたとも感じている。
半藤 98年に私が『ノモンハンの夏』を書きましたが、「司馬さんにはこれは書けないや」と思いました。というのは、司馬さんの書く人はみんな爽やかで立派な人ばっかりですよ、坂本龍馬にしろ誰にしろ。しかし、服部卓四郎(関東軍作戦主任参謀)、辻政信(同参謀)などのノモンハンの関係者は、どうにもならない人たちばかりですよ。司馬さん自身も、戦争中は戦車隊長として満州にいた。まさに当事者なのですね。こういう連中が上で働き、指揮をしていた。そういう思いも嫌だったのじゃないですか。
司馬遼太郎氏の一連の小説は、旧弊を改めて新しい国づくりに邁進する日本の姿が、戦後の高度成長期と重なり、国民の圧倒的な支持を集めた。しかし、結局、日露戦争後、すなわち『坂の上の雲』の後に何が起こったのかは、描かれなかった。そこに司馬氏の罪深さがあると半藤氏は指摘する。
半藤 司馬さんがいちばんいけないのは、昭和元年(1926年)からの20年は、日本の歴史につながっていない断絶した20年だと書いたことです。ぼくは司馬さんとその議論はよくやったんですがね。歴史はつながっているのですから、ここだけ切っちゃったらどうにもなりませんよと。しかし、司馬さんは、昭和は統帥権の「魔法の森」の中に入り、特別な時代を作ったんだといって、頑として認めないんですね。
だけど、晩年は、統帥権が国を滅ぼした最大の原因というのは、間違いじゃないかと思ったみたいです。亡くなる前の年、95年にオウム真理教事件が起きましたよね。あれがかなりショックだったみたいですよ。やっぱり人間というのはこういうものなのかと。だから昭和初期だけがそうじゃなくて、戦後だってやっぱり同じ人間が出てくるのじゃないかと思ったのではないでしょうか。
「改革」が国を滅ぼす
そして、今、再び、日本は大きな歴史の転換点にあるとの認識を半藤氏はもつ。それが、2004年発売の『昭和史 1926―1945』が硬派な内容にもかかわらず20万部も売れた背景にあったと分析する。
半藤 漠然とではあっても、今、大きな転換点にあるのではないですか。戦後日本が完全に終わりを遂げて、新しい日本が始まっている。人間というのは、同時代に生きていると正確にはわからないけれども、感じることはできる。その時に、こういう時代が過去にもあったのじゃないかというようなことは、誰しも思うことですね。昭和の時代には、同じような転換点が山ほどあったのですから、その時人間はどのような判断、生き方をしたのかということを、ちょっと見てみようという気が起きているのじゃないかと思うのです。
―― 司馬氏は「統帥権」を昭和史を読み解くキーワードとして用いましたが、今なら何がそれに相当するのでしょう。
半藤 昭和元年から約10年間の日本では、「革新」という言葉が一世を風靡したんですよ。「革新将校」「革新官僚」が、「革新」「革新」と叫びながら、とんでもない方向に日本の国を引っ張っていったんですよね。
―― 「革新」というのは、要するに、今の「改革」ですね。
半藤 まさに、今の「改革」ですよ。1931年の満州事変の時に、日本のマスコミがいっぺんに軍部に同調したのですよね。それから「革新」が盛り上がるんですよ。あれが転換点だったとすると、まさに今、イラク派兵、憲法の埒外で自衛隊が出ていくというのが「戦後の終わり」なのです。だから、そもそも当時と今を等値において見ると、「満州事変」「革新将校、革新官僚」、それが「イラク派兵」「改革、改革」と。
それにもうひとつ、その人たちの年齢ですが、あの頃の革新将校といわれた人たちは、みんな40代、50代なのです。日露戦争の栄光を背負っているだけであって、戦争の悲惨を何も知らないのですね。今、改革を唱えている人たちは、太平洋戦争の悲惨が終わった後の時代だけを生きてきた人たちです。国を滅ぼすようなことに向かわせないために、今いちばん、日本人がきちっと考えて、国のあり方、国家目標を何にするかというようなことを考えなければならない時じゃないですか。そのために歴史をきちっと学ばなければいけないと思うのです。
「司馬さんにとってオウム事件はかなりショックだったようです」
●プロフィール● はんどう かずとし
1930年東京・向島生まれ。53年東京大学文学部国文科卒、文藝春秋新社(現文藝春秋)入社。65年『日本のいちばん長い日』を出版。その後、文藝春秋専務、顧問を歴任し、94年に退社してフリーの作家に。98年『ノモンハンの夏』を発表。2004年発売の『昭和史 1926―1945』は20万部のベストセラーになった。