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ピアニスト フジコ・ヘミング「演奏後は、満足するときもあるし、死にたくなるほど落ち込むこともある」(2004年11月)

週刊エコノミストは、各界の第一人者にロングインタビューを試みてきました。2004年から「ワイドインタビュー問答有用」、2021年10月からは「情熱人」にバトンタッチして、息長く続けています。過去の記事を読み返してみると、今なお現役で活躍する人も、そして、今は亡き懐かしい人たちも。当時のインタビュー記事から、その名言を振り返ります。


「魂のピアニスト」と呼ばれ、年齢を重ねたいまも現役で活躍し続けるフジコ・ヘミング氏。週刊エコノミストでは2004年11月に「ワイドインタビュー問答有用」に登場し、苦労の歴史や、変わらぬ演奏への思いについて語っている。当時のインタビューを再掲する。※記事中の事実関係、肩書、年齢等は全て当時のまま

ピアニスト

奇跡の復活を遂げた フジ子・へミング

ワイドインタビュー問答有用

2004年11月09日

「いつか認められる日が来る、と自分を信じていた」

 幼少時からさまざまな不運に見舞われながら、ピアニストとしての才能を開花させたフジ子・へミングさんは、今なお演奏家としての情熱を保ち続けている。聞き手=村上麻里子(編集部)

―― いつもリサイタル前はとても緊張するそうですね。

へミング 「地獄に足を突っ込んだような」気持ちで、とにかく「怖い」の一言です。本番前はいくつか決まりごとがあって、20分ぐらい外を散歩したり、ジャガイモ入りの味噌汁を飲んだりします。でも、才能のある人、特に演奏家は繊細でなければならないと信じています。植物でも、バラの花は美しいけれど、次の日にはしおれることもある。人間もそれと同じで、才能のある優秀な人ほど繊細で、いい状態を保つことが難しいのではないでしょうか。世の中はうまくいかないようにできているんだと思います。

「世の中はうまくいかないようにできている」――この言葉は、まさにへミングさんの人生に当てはまるといっても過言ではない。今でこそリサイタルのチケットは数時間で完売、発売されるCDは常にトップセールスを記録するが、才能あるピアニストとして脚光を浴びるまで、さまざまな苦難に襲われてきた。

「天才少女」と呼ばれた子供時代

―― 子供のころからピアニストになろうと思っていたのですか。

へミング 一人前の演奏家になるためにはお金がかかりますが、我が家は貧しかったので、母は私をピアニストにしようとは思っていませんでした。ただ、結婚に失敗して苦労したので、私が同じような状況になったとき生活に困らないようにピアノ教師にするつもりだったようです。厳しい指導で当時は嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、それが今につながっているので、とても感謝しています。

 へミングさんは日本人ピアニストを母に、ロシア系スウェーデン人建築家を父に生まれ、5歳で両親と帰国した。太平洋戦争開戦前で、しだいに戦時色が濃くなるなか、父は家族を置いて日本を離れる。母はピアノを教えながら女手一つでへミングさんと弟を育てた。へミングさんには6歳のころからピアノの手ほどきを始めたが、1回2時間のレッスンを毎日2~3回繰り返す「スパルタ教育」だったという。

―― 小学生のときには「天才少女」と呼ばれていたとか。

へミング 10歳から指導を受けるようになったロシア人音楽家のクロイッツアーに、「この子は今に世界を震え上がらせる」と言われたりしました。母は、「演奏が上手なら、いい先生になることができる」と喜んでいたようです。

 母方の実家が裕福で援助してくれたので、小学校から私立の青山学院に通い、東京芸術大学に進みました。当時は家にいるのが嫌で、早く結婚したかったけれどうまくいかず、その代わりヨーロッパ留学を決意しました。

―― 留学時には無国籍だったそうですね。

へミング 父がスウェーデン国籍だったのですが、私は一度もスウェーデンに行ったことがなく、18歳のときに国籍を失っていました。結局、日本のドイツ大使館が助けてくれて、赤十字の避難民として、29歳でドイツに留学しました。

 ベルリン音楽学校を卒業後、指揮者の故バーン・スタインの後ろ盾を得て、作曲家・指揮者の故ブルーノ・マデルナのソリストとして契約。ヨーロッパ各地でリサイタルを開き、ドイツやオーストリアのテレビで放送されるなど、ピアニストとして順調な一歩を踏み出したかのように見えた。35歳で国際的なデビューへの足がかりとなる重要なリサイタルが開かれることになったが、その直前、風邪を引いて聴力を失うという不運に見舞われてしまう。すでに16歳のときに中耳炎をこじらせて右耳が聞こえなくなっていたものの、それまで演奏に支障はなかった。しかし、左耳も聞こえなくなったことで、予定されていたリサイタルはすべてキャンセルを余儀なくされた。幸い、2年後に左耳の聴力が40%回復したが、ピアニストとしてのキャリアは中断し、次第に音楽界から存在を忘れられていった。

「聞こえないほうがいいこともある」

―― 演奏家にとって聴力はとても重要です。全く聞こえなくなったときはショックだったのでは。

へミング 当時の気持ちはもう忘れました。聖書に「1日の苦労は1日で足れり」という1節があります。「1日の苦労はその日だけで十分で、次の日は生まれ変わって、新しく生きなさい」という意味です。青山学院初等部を卒業するとき、校長先生がサイン帳に書いてくれたのですが、そのとき以来、私の座右の銘になっています。

 例えばどんなにいじめられても、仕返しなどせずに、きれいさっぱり忘れてしまいなさいということですが、今の世の中には恨みと仕返ししかないように見えます。

 耳が聞こえないと、他人の悪口なども入ってこないので、悪いことばかりではありません。夜は、少しだけ聞こえる左耳を枕に押しつけ、静寂のなかで眠りにつきます。

―― 耳が不自由になって、ピアノからは完全に遠ざかっていたのですか。

へミング スウェーデンのストックホルムに移り、その後、ドイツで10年以上、老後に年金をもらうためにピアノ教師として生計を立てていました。ピアノの腕前を試したくて、教会で演奏したこともありましたが、「3流扱い」されるのがつらくてやめてしまいました。

 私は音楽を演奏するだけでなく、聴くのも好きなので、ヨーロッパでは多くのピアニストのリサイタルに行きました。お金がなくて、裏口からこっそり忍び込んだこともあります。性格的にやきもちは焼けないけれど、ほかのピアニストが脚光を浴びる姿を見るのは悲しかったですね。ところが、年をとってから、彼らと共演する機会がめぐって来ました。「いつかは認められる日が来る」と自分を信じていたとはいえ、世の中はわからないものだと思います。

予想外だった反響

 1996年、母の死をきっかけに日本に帰国したへミングさんは、ピアノ教師の生活にあきたらず、演奏家としての再起を賭けて、98年4月、母校・東京芸術大学の旧ホール(上野奏樂堂)を皮切りに、各地でリサイタルを開いた。1度聞きに来た人が、その後、何度も足を運ぶようになり、やがて「知る人ぞ知る」ピアニストとなっていった。

 そして99年2月、人生に転機が訪れる。へミングさんの日常を追った、NHKのドキュメント番組(ETV特集)「フジコ~あるピアニストの軌跡~」が大きな反響を呼んだのだ。放送後、NHKには2000通以上の投書が寄せられ、番組は5回にわたって再放送された。同年8月に発売されたデビューCD「奇蹟のカンパネラ」は、3カ月で30万枚(現在100万枚)を突破。10月に東京オペラシティ(東京・新宿区)で開かれたリサイタルは大成功を収め、本格的な演奏活動を再開した。

―― NHKの番組は予想外の反響だったそうですね。

へミング 「人生をもう一度、取り戻したい」と、演奏家として再スタートを切ったものの、内心では「このまま終わるんだろう」とあきらめていました。NHKが取材に来たときも、せいぜい教養のある人が見るぐらいだろう、と期待していませんでした。

―― クラシックに興味のない人もへミングさんのリサイタルに足を運んだりCDを購入し、その演奏に感動しています。

へミング それは、私が純粋な気持ちを持っているからではないでしょうか。人間とは罪深い存在で、何かあるとすぐにねたみや恨みを抱きがちです。しかし、そうした心では、いい演奏をすることはできないと思います。私は、汚い気持ちを払いのけるよう神様に祈りながら演奏しています。

―― とはいえ、自らの才能を信じながら、世の中に認められない日々のなかで、他人をねたんだりしたこともあったのでは。

へミング 誰かを「好き」とか「嫌い」と言うのは簡単ですが、「あの人はだめ」とか「3流だ」と他人をおとしめるようなことは言いたくありません。何より、芸術家は人と同じだったら有名になれない。違いがあるからこそ芸術なんです。例えば、一口に赤といっても、濃い赤が好きな人もいれば、薄い桃色が好きな人もいるのだから、他人と比べるなんてばかげています。

 それに、本当に素晴らしければ、必ずどこかで認められるはず。私は自分の演奏が素晴らしいという自信があったし、クリスチャンなので、もし認められなくても神様が救ってくださると信じていました。もちろん、そうやって自分を信じながら、世間に認められることなく死んでいった芸術家は大勢います。そういう意味では、私は幸運だと思います。

 へミングさんは2001年6月の米ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタル以降、世界各地で公演する機会が増えている。海外のオーケストラとの共演も多く、10月に共演したハンガリー人指揮者のタマーシュ・ヴァシャーリ氏が「フジ子の演奏は型にはまらず、幻想的で素晴らしい」と賞賛するなど、海外でも評価が高まりつつある。

―― 今年はヨーロッパとアメリカで公演し、来年はベルギー国立管弦楽団やモスクワフィルといった海外のオーケストラからソリストとして招かれるなど、最近では海外での活躍も目立ちます。

へミング 各国で演奏したり、海外の有名なオーケストラと共演して実力を上げていけば、世界で認められるようになるので、うれしいですね。

―― 若いころと現在では、演奏は違っているのですか。

へミング 年齢とともに体力は衰えるけれども、技術的には成長するので、若いころより今の方が演奏はよくなっています。「他人のふり見てわがふり直せ」という言葉通り、いろんな人の演奏を聴きに行き、参考にしたのが段々、実ってきてもいるのでしょう。若いころの演奏を振り返ると、「天才」と呼ばれたのがばかばかしくなってしまう。

 それでも、いまだに不安で夜眠れなかったり、急に怖くなるし、本番中にはよく間違えます。演奏後は、満足するときもあるし、死にたくなるほど落ち込むこともあります。

―― へミングさんにとって、ピアノとは。

へミング 最も素晴らしい楽器の一つです。バイオリンやチェロを演奏するためには伴奏が必要になることが多いけれど、ピアノは単独で演奏できます。私は一人でいるのが好きなので、ピアノが向いていると思います。

弱者への思い

 へミングさんは日本に帰国後、聖路加病院(東京・中央区)で患者向けに無料コンサートを開いていたことがある。最近では、阪神大震災の被災者や米同時多発テロの被害者にCDの売り上げを寄付したり、コンサートの収益金をユニセフに寄付するなど、ボランティア活動を積極的に行っている。また、東京とパリの自宅では、拾ってきた多くの捨て猫と生活をともにしている。自宅は、避妊手術を受けて、新たな引き取り手を待つ猫の「避難所」になっているという。

―― 演奏を続ける一番の目的は。

へミング 活躍してお金が入ってくれば、飢えた子供や見捨てられた動物を助けることができます。いま着ている服は10年以上前のものだし、寝室のシーツは猫が引っかいてボロボロ。でも、そういうことにお金を使おうとは思わないし、余分なお金があったら、困っている人や動物のために寄付をしたい。

 私は今でこそ成功して幸せに見えるかもしれませんが、決してそうではありません。見捨てられた猫やイラク戦争の犠牲者、飢えた子供たちを助けたくても、私にできることは限られている。そうした光景を目の当たりにし、自分の限界を実感すると、生きているのがつらくなることさえあります。しかし、キリスト教では、「命は人のためにあり、周囲の人や動物に愛を与えるために生きている」とされているので、歯をくいしばってでも生きていかなければならないと思います。

「汚い心では、人を感動させることはできない」


●プロフィール● フジ子・へミング(イングリット・フジ子・フォン・ゲオルギー・へミング)

ベルリンに生まれ、日本に帰国後、ピアノを始める。17歳でコンサートデビュー。東京芸術大学在学中にNHK・毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞などを受賞。ドイツ留学時に風邪で聴力を失い、演奏活動を一時中断する。96年に帰国後、活動を再開。主な作品は「奇蹟のカンパネラ」「永久への響き」「憂愁のノクターン」など。

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