教養・歴史 松本零士さん死去
「まだへたばるわけにはいきません」漫画家・松本零士さん/2018年1月2・9日合併号より
「銀河鉄道999(スリーナイン)」「宇宙戦艦ヤマト」などで知られる漫画家の松本零士さんが13日、急性心不全のため亡くなりました。85歳でした。本誌2018年1月2・9日合併号掲載「ワイドインタビュー問答有用」に掲載した生前の松本さんの言葉を公開します。
漫画「銀河鉄道999(スリーナイン)」の続編の開始に向けて準備を進めるなど、創作意欲は衰えない。(聞き手=池田正史・編集部)
「なぜそれを描くのか。信念や目的意識を示せなければ読者の共感を得ることはできない」
―― 1月25日(2018年)に80歳の誕生日を迎えます。
松本 少女漫画の連載が決まり、出版社に求められて1957年に上京してから60年もたってしまいました。これまでいろいろな人や映画や本との出会いに恵まれました。
―― 現在はどんなことに取り組んでいますか。
松本 機械の体を求めて宇宙を旅する少年を描いたSF漫画「銀河鉄道999」の連載再開に向けて、編集者から2017年中にネーム(コマ割りやセリフなど漫画のストーリーを大まかに示す下書き)を書くようにせかされています。32ページぶんですので、結構な量です。
劇場版アニメ「宇宙海賊キャプテンハーロック」も、18年に公開予定で、その準備を進めています。
また、デザインを手がけた東京都観光汽船の水上バス「ヒミコ」「ホタルナ」に続く3号機「エメラルダス号」が3月にも就航する予定です。
漫画については、最終的に、これまで手がけたすべての作品のストーリーが一つに収れんしていくような全作品を合わせたものが描ければ、と構想を練っています。
―― どんなイメージですか。
松本 例えば、ハーロックや、宇宙を旅する女性の物語「クイーン・エメラルダス」の主人公は、銀河鉄道999など他の作品にも相互に登場します。エメラルダスの彼氏であるトチローは、銀河鉄道999の主人公、星野鉄郎の先祖といった具合です。一つの大きな物語に仕上げることができないかと考えています。
やりたいことがたくさんあって、まだへたばるわけにはいきません。
活発な自然児
―― とても忙しそうですね。
松本 体が丈夫なのは、幼い頃から元気に外を飛び回っていたからだと思います。大きな蜂に刺されて顔がぱんぱんに膨れ上がったり、友人に「それでも男か」と挑発されて関門海峡を渡る貨物船の腹くぐりをしたりしたこともあります。
大人になってからも、アマゾン川でつかまえた体長2メートル前後のワニを焼いて食べたり、ケニアの野生動物公園内をクルマで走り回ったり、いろいろな経験をさせてもらいました。当時はあまり厳しいことを言われず、のどかだった面もあります。今では危ないからといって立ち入り禁止になってしまった場所も多いですが、山や海で暴れ回ったことが元気な体を作ってくれました。
こうした記憶や体験は、遺伝子にも作用するのでしょうね。自分の漫画にも思いがけず反映されていることがあります。
―― 漫画家になったのはどうしてですか。
松本 5歳の頃、映画館で見たミュージカルアニメ「くもとちゅうりっぷ」に大きな影響を受けて、映画や漫画にのめり込むようになりました。てんとう虫とクモの追いかけっこを描いた童話が原作です。僕が高校1年生の時に描いたデビュー作の長編漫画「蜜蜂の冒険」も、この映画の影響を受けています。
漫画家を志すようになったのは、小学3、4年生の頃、学級文庫にあった漫画を読んだことが大きいですね。手塚治虫氏の「新宝島」や「キングコング」「火星博士」などが置いてありました。憧れの手塚氏の作品を一生懸命まねしながら漫画を描いたものです。
―― 当時は第二次世界大戦前後ですね。
松本 大戦が終わったのは、7歳の頃です。僕は早生まれですから、小学2年生。
終戦を知ったのは、疎開先である愛媛県新谷村(現大洲市)です。母親の実家近くの川で友人と泳いでいたら、近所のおじさんが「戦争が終わったぞー」と触れ回っていました。そこで川から上がり、着替えて家に駆け付けると、祖母が昼間なのに雨戸を閉め切り、先祖代々の刀を磨いていました。自宅に敵兵が迫ってきたら、家族同士で刺し違えるつもりだったようです。
松本家が疎開したのは、松本氏の父・強氏が旧帝国陸軍のパイロットとして戦地に赴いたためだ。松本氏の父は、陸軍士官学校を卒業後、テストパイロットや航空部隊の教官などを務めた。愛媛県に疎開するまでは、兵庫県明石市にあった川崎航空機の社宅に住んでいたという。
―― お父さんの印象は。
松本 僕が乗り物やメカが好きなのは、父の影響があると思います。もし漫画家になっていなかったら、大学の工学部に進みたいと思っていました。宇宙に対する憧れが強かったので、技術者としてロケットを作れるようになって、火星に行ってみたいと考えたこともあります。その思いの一端は、九州大学工学部に進学し、三菱重工業に入った弟が実現してくれました。
―― お父さんは出陣もしたのですか。
松本 愛媛県に疎開したのは、父がフィリピン中部ネグロス島に出陣することになったためです。大戦末期に「戦艦武蔵」が沈められた激戦では、部下の3分の2を失ったと聞きました。終戦の日も、マレー半島で英軍と空中戦を繰り広げていたようです。
終戦後は約2年も現地に抑留され、その間、家族も父が無事かどうか分かりませんでした。
―― 不安だったでしょうね。
松本 それでも、無事に帰ってきてくれました。父の帰還後は疎開先を離れ、福岡県小倉市(現北九州市)に移りました。
戦後は元軍人パイロットが自衛隊入りすることが多かったのですが、父は「敵国が作った戦闘機なんかに乗れるか」などと、パイロットとして復職することをかたくなに拒みました。その結果、今にも崩れ落ちそうな五軒長屋に住み、街中で野菜の立ち売りや行商をして生計を立てる貧しい生活を強いられました。
それでも、当時はみな貧しかったこともあって苦にはなりませんでした。小倉からは、原爆を投下された直後に親が長崎や広島に救援部隊として入り、被ばくして亡くなったり、戦地から親が帰らなかったりした友人も多くいましたから。
―― 小倉の思い出は。
松本 小倉には高校を卒業し、上京するまですごしました。文化的にもとても恵まれた街でした。当時は自宅の近くに朝日新聞社や毎日新聞社の西部本社があり、市内には映画館や書店も多かった。作家の松本清張氏や女優の中尾ミエさんの実家も近所でした。中尾さんの実家は大きな書店です。
隣に住んでいた友人の父親が朝日新聞社に勤めていたので勤務先を訪ね、同紙に連載していた「サザエさん」のジンク版(亜鉛製の印刷板)をもらったり、印刷フィルムの切り合わせ方を教えてもらったりするなど製版技術を学びました。
後に漫画家仲間に「こう描くと印刷した時にグラデーションがきれいに出るよ」と言うと、「なんでそんなことまで知っているんだ」と驚かれたことがあります。当時教えてもらった知識です。
こんなこともありました。書店で見つけた子供向けの天文学の入門書『大宇宙の旅』がどうしてもほしくなって姉にねだったら、「有名な新聞や雑誌にお前の漫画が載るようなことがあればごほうびに買ってあげる」と言われました。その頃、たまたま昭和天皇の九州行幸を目にしたので、その様子をイラストにして朝日新聞に投稿したら、見事に載せてもらうことができた。
受け取った掲載料300円と姉の出してくれたお金で購入したこの本は、主人公の少年が宇宙を探検する物語仕立ての構成です。わくわくしながら読み進めました。「銀河鉄道999」など宇宙をテーマにした僕の作品の原点にもなっています。
星野鉄郎に重ねた青春
―― 上京するきっかけは。
松本 光文社の少女向け月刊誌『少女』の連載が決まり、担当編集者から東京に来るよう求められたためです。「片道分の切符を買うお金もありません。原稿料の前借りは可能でしょうか」と聞くと、編集者が「東京に来るのだったら貸してあげる」と言うので覚悟を決めました。
この時抱いた気持ちは、後に描いた「銀河鉄道999」の星野鉄郎少年に、宇宙空間を走る特別列車に乗って地球を出発する時のセリフとして言わせました。関門海峡を渡り、本州という九州とは異郷の地に入っていく点で当時の自分の状況と重なる面があったためです。
東京に着くまでには、同じ車両に乗り合わせたお客さんからおにぎりをもらったり、お酒をすすめられたり、親切にしてもらいました。新婚旅行中のお客さんとも出会いました。いろいろな思いを抱えたお客さんがいるのだな、と感じました。
銀河鉄道999は、僕がずっと抱いていた宇宙への憧れとともに、旅立つ少年の気持ちを描いた青春の物語でもあるのです。「999」という数字には、1000という区切りの一つ手前、一人前の大人になるちょっと前という意味を込めています。
―― 少女雑誌では少女漫画を手がけていたのですか。
松本 そうです。少年誌は当時、重鎮の漫画家ばかりが押さえてしまっていて、僕ら若手の出番がありませんでした。同世代の石ノ森章太郎氏や藤子不二雄氏らも同様に、初めは少女漫画の連載が中心でした。
石ノ森氏や藤子不二雄氏のほか、横山光輝氏、ちばてつや氏ら、出会いには恵まれました。上京直後には藤子不二雄氏が初台にあった手塚治虫氏の自宅に案内してくれ、下宿先が決まるまで三日三晩、手塚氏の家にお世話になりました。
―― 上京後の住まいは。
松本 東京都文京区本郷にあった山越館と呼ぶ下宿の四畳半の部屋です。光文社や講談社など出版社には下宿先から歩いて通ったものです。ある時、通り道にあった東京大学のロケット研究者、糸川英夫氏に会いたくて、約束も入れず研究室を訪ねたことがあります。その時は叱られましたが、後年、科学関係のイベントでご一緒した時に「僕は本当は工学部に入りたかった」と打ち明けたら、糸川先生は「工学部に入らなかったからこそ、今の松本さんがある」と励ましてくれました。
その後、東京都練馬区に引っ越してからも、梶原一騎氏やモンキー・パンチ氏らの近所で、住む街に恵まれたように思います。
―― 宝塚大学や京都産業大学で教鞭を執っていますが、若い世代に向けて言いたいことはありますか。
松本 漫画を描くのは、読者に読んでもらうためです。自分が何を描きたいか。信念や目的意識をはっきりさせなければ、読者には伝わりません。伝わらないということは、読者の共感を得ることができず、読んでもらえないということになります。長く続けるには、信念を持って描くことが大事です。
僕がそう痛感したのは、山越館に下宿していた頃の経験があるからです。お恥ずかしい話ですが、いんきんたむし(股部白癬(はくせん))にかかり、苦しんでいました。とてもかゆいため、股をかきむしりながら交番の前を通り過ぎると、警官に呼び止められ、「外を歩きながらマスをかくヤツがあるか」と叱られました。事情を説明すると、警官がよく効く薬を教えてくれましたので、早速薬局で購入し、患部に塗ったら完治したのです。
あんなに苦しめられていたのに、すっかり治ったことに感激しました。同じ症状に悩む下宿仲間に教えてあげると同時に、当時連載していた四畳半部屋の下宿の青春群像漫画「男おいどん」に、このエピソードを描きました。薬の名前もそのまま載せたのです。すると読者から、感謝の手紙がたくさん寄せられました。
それまで、おもしろいものを描くにはどうすればよいか、右往左往していましたが、この時の読者の反響の大きさを見て、信念や目的意識を明確にすることの重要性を痛感しました。
若い方たちも、何を伝えたいかがはっきり定まるまで、いろいろなものを見たり聞いたりして見聞を広げてほしいと思います。
●プロフィール●
まつもと・れいじ
本名は松本晟(あきら)。1938年1月、福岡県生まれ。福岡県立小倉南高校在学中の54年に雑誌『漫画少年』に投稿した「蜜蜂の冒険」で漫画家デビュー。代表作に「銀河鉄道999」や「宇宙海賊キャプテンハーロック」「男おいどん」など。「宇宙戦艦ヤマト」などテレビや劇場アニメの製作にも携わる。宝塚大学教授、京都産業大学客員教授。漫画古書や古式銃の収集家としても知られる。