米国が主観的に使うJustice “公正”の基準すら政治問題に 鈴木洋之
有料記事
最近、米国での社会問題に関する議論において「Gender Justice」「Environmental Justice」など、「Justice」という言葉を目にする機会が増えている。これらは「ジェンダー正義」「環境正義」と訳されることも多い。間違いではないが、少しニュアンスを取り違えないか、懸念も感じる。
Justiceは、正義・公正・裁判といったさまざまな意味を持つが、もともとは「ちょうど」といった意味のJustに由来する言葉で、筆者は「適正」といったニュアンスが最も近いと捉えている。実際、米国の学校教育の現場で使われる「Social Justice」という言葉も、調べてみると、生徒一人一人を差別なく公平・適正に取り扱うことを強調していることがわかる。社会正義といわれると、やはり違和感が拭えない。
このように、もともとはJusticeに正義というニュアンスはあまり強調されないが、裁判という意味とのつながりから、正義といったニュアンスも含意されると考える。これは、米国においては三権分立の下で司法が立法や行政から独立し、裁判とは公正・公平であるという長年培われた大前提があるためだろう。
民主・共和の分断を象徴
しかし、最近の米国社会では司法の公平性も揺らいでいる。最高裁判所でさえも、民主・共和の党派の分断が深まるシンボルとなっている状況を認識する必要がある。実際、昨年9月に米国の大手調査組織であるピューリサーチセンターが発表したデータによれば、最高裁判所に対する米国民の見方は、今までにないレベルで党派分裂があらわになっているという。トランプ前大統領を巡る司法の動きも、毎日の米紙面をにぎわすホットな話題だ。
批判を恐れずにシンプルに言えば、今の米国社会では、何が公正・適正なのか、その基準すら政治問題化し、揺らいでいるということだ。そして、米国内でJusticeが語られるとき、知…
残り574文字(全文1374文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める