教養・歴史ロングインタビュー情熱人

『真珠とダイヤモンド』刊行――桐野夏生さん

「バブル時代は、格差社会と言われる今の日本につながっている」 撮影=中村琢磨
「バブル時代は、格差社会と言われる今の日本につながっている」 撮影=中村琢磨

作家 桐野夏生/78

 作家デビュー30年。桐野夏生さんは小説の多くで、追い詰められ社会から逸脱していく女性の姿を描いてきた。最新作は、さまざまな矛盾を内包しながら狂乱していた、あの時代の物語だ。(聞き手=北條一浩・編集部)

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「バブルと今の格差社会はつながっているのでは」

今年2月に刊行した『真珠とダイヤモンド』(毎日新聞出版)の上下巻
今年2月に刊行した『真珠とダイヤモンド』(毎日新聞出版)の上下巻

── 今年2月に発売された『真珠とダイヤモンド』(毎日新聞出版)は、バブル時代を背景に、証券会社に勤める2人の女性の生涯を描いた作品です。小説のテーマとして、今なぜバブルなのでしょう。

桐野 日本は今、経済的にも社会情勢においても、厳しい環境にあります。そのことを考える中で、ふと思ったんです。あのバブル時代とは何だったのか。そこで日本人のどんな性質が明らかになったのか。そのことを検証しないままズルズル来てしまい、格差社会といわれる今の日本につながっているのではないか。現在の日本を理解するために、一時的な狂乱の過去にしてしまうことなく、バブルと向き合うことが今、必要だと思いました。

── 執筆にあたってどんな取材をされたのですか。

桐野 株についてはさまざまな本を読んで勉強し、また証券会社の人からデータをもらったりしました。印象的だったのはいわゆる「バブル紳士」と呼ばれる弁護士に当時のことを聞きに行った時のこと。私が自著を差し出し、「こういう者です」とあいさつしたら、「へえ、偉いんだね」と一瞥(いちべつ)しただけで何を聞いてもロクな答えが返ってこない。作家という人種には縁がなさそうだし、女なんか、と明らかになめている。たいそう立派なオフィスで、明らかにバブルの勝ち組。ああ、こういう人が生き残ったんだと実感しました。

── バブルの当時、桐野さん自身の仕事や生活は?

桐野 当時は子どもがまだ小さくて、保育園に預けて赤ちゃん雑誌のライターをしていました。取材で駆け回っている割にはたいしたギャラももらえず、ひたすら疲弊する日々。それに対して近所に住む羽振りのいい夫婦は、金融関係に勤めていましたね。後で聞きましたが、ある編集者は、自分たちが日本で初めてワインの「ボジョレー・ヌーボー」を飲んだ世代だと言っていました。

── そんな言動に対して桐野さんは怒りを?

桐野 いや、うらやましいと思ってました(笑)。みんななぜそんなにお金があるのか、不思議でしたね。とにかく私とは無縁の世界。ただ彼らに共通して感じたのは、その時代の富を上手に享受できない人間もいるんだ、ということに対して、圧倒的に想像力が欠如していることです。そして、このころから「貧乏は恥だ」という風潮が生まれたと記憶しています。

 1984年に渡辺和博さんが『金魂巻(きんこんかん)』という本を出してベストセラーになりましたが、あの本が風潮のきっかけになったかもしれません。あの本は、さまざまな職業別に成功している人を「マル金」、何をやってもダメな人を「マルビ」と対比して描きました。渡辺さんがやったのはある種のパロディで、優れて批評的な営みだったのですが、世間のほうが真に受けてそのまま風潮になってしまった。

2人の女性を主人公に

 桐野夏生さんが東京の新宿・歌舞伎町を舞台に、私立探偵・村野ミロが活躍する『顔に降りかかる雨』で第39回江戸川乱歩賞を受賞したのが1993年。これをデビュー作として、ほぼ途切れることなく毎年小説を発表し、今年2月に上梓(じょうし)した最新長編が今回の『真珠とダイヤモンド』だ。デビュー30周年となるのを機に、デビュー前の時代を描くことに取り組んだ。
 物語の大半はNTT株上場の際の騒乱をはじめ、86年から始まるマネーゲームの進行とともにある。福岡の証券会社で出会った小島佳那と伊東水矢子という20代の2人の女性が、バブルとその後の崩壊という時代に翻弄(ほんろう)されながら数奇な運命をたどっていく。『サンデー毎日』(毎日新聞出版)で21年4月〜22年7月に連載した小説を単行本化した。

── 桐野さんのこれまでの作品の多くが女性を主人公としていますが、今作でも小島佳那と伊東水矢子が中心です。

桐野 あの狂乱の中で、ずる賢い大人たちに食い物にされた悲惨な若い人を描きたい気持ちがまずありました。そして当時の証券会社は完全に体育会系の男社会で、女性社員なんてお茶くみとコピー取りくらいにしか認識されていない。そんな環境で、対照的な面もあるけど育った家庭が貧しく、上京を夢見る点で共通点も多い2人の女性を主人公にしたいと考えました。

 また、バブルは女性には良かった点もあって、86年は男女雇用機会均等法が施行された年だから、女性の雇用に前向きになりました。企業も今より余裕があり、「メセナ」と称して文化事業もやるようになりました。そんな時代の変化も、女性で書きたい理由の背後にはあると思います。

「書き続けた」30年間

── 90年代の作品では、95年の『ファイアボール・ブルース』が女子プロレス界を描いた作品で、『OUT』(97年)はDV(ドメスティックバイオレンス)に耐えかねたあげくの夫の殺害から平凡な主婦たちが日常から逸脱する内容でした。そして昨年の『燕は戻ってこない』は生殖医療がテーマで、主人公が非正規雇用に苦しみ、かつ上京にあこがれる20代の女性という点で『真珠とダイヤモンド』と共通点を感じます。

桐野 私はずっと女性を書いてきました。女性は男性に比べて社会で依然として低い地位にあり、差別もさまざまあります。苦しいし、恵まれてもいない。でも、だからこそ女性を小説に書くのが面白いんです。悩める女をいつも書いていたい、という気持ちがブレたことはありません。

── 桐野さん自身、デビュー後に女性であるがゆえの苦しみは?

桐野 『顔に降りかかる雨』でデビューして間もないころは、いじめがあったし、いわれなき誹謗(ひぼう)中傷もありました。私に確認することもなく、誹謗中傷をそのまま掲載したメディアがあって、その出版社とはケンカしました。文壇も一つの社会ですから、私に限らず、特に若手の女性作家は必ず何かしらの差別や嫌がらせを経験していると思います。

── 『顔に降りかかる雨』以降、小説の出版されていない年がほとんどありません。しかも大半が長編で、非常にタフな印象を受けます。

桐野 この30年間、我ながらよく書き続けることができたと思います。とはいえ、実は30年のうち半年だけ何もしない時期があったんです。これは計ったわけではなく、たまたまそういうタイミングだったんです。でも、そういう時は気が緩んでいるのでしょうか。犬の散歩中に手首を折ってしまいました。締切がたくさんあって忙しい時は風邪も引かないのに、不思議です。

 最近だとかなり危なかったのが昨年の冬。野良猫に引っかかれた手からばい菌が入り、腕がどんどん腫れて焦って病院へ。医師から「腕を切断することになりますよ」と言われ、あわてて入院し、3日間抗生剤を続けてどうにか治りました。あの3日間も例外的に全く書かない日々で、ホッとした後はずっと韓流ドラマを見ていました(笑)。

日本文藝家協会の林真理子理事長(左)、日本推理作家協会の京極夏彦代表理事(右)とともに、ロシアのウクライナ侵攻について共同声明を発表する日本ペンクラブ会長の桐野夏生さん(中央、2022年3月)
日本文藝家協会の林真理子理事長(左)、日本推理作家協会の京極夏彦代表理事(右)とともに、ロシアのウクライナ侵攻について共同声明を発表する日本ペンクラブ会長の桐野夏生さん(中央、2022年3月)

女性初のペンクラブ会長に

 桐野さんは21年5月、日本ペンクラブの第18代会長に選出された。日本ペンクラブは文学や文化にかかわる人々の国際組織、国際ペンクラブの日本センター。島崎藤村を初代会長として1935年に発足し、桐野さんが初の女性会長となる。会長就任後、ロシアによるウクライナ侵攻や侮辱罪を厳罰化する刑法改正、安倍晋三・元首相の国葬、音楽・映画界でのセクハラ・パワハラ問題など、世の中を揺るがすさまざまな出来事について、精力的に声明を発表している。

── 日本ペンクラブ会長を引き受けたのはなぜですか。

桐野 近年はさまざまな場面で女性が登用され、私の選出もある種ブームの感もあるかもしれません。でも、ここで私が受けなければこの先まだ何年も女性が選ばれなくなるかもしれず、これはやらなくてはと思いました。女性作家委員会では性暴力についてイベントをしたり、ホームページをリニューアルしたりするなど、いくつか試みています。ウクライナ戦争をはじめ声明もかなり頻繁に出しています。もちろん、さまざまな会員の方の協力があってこそできることですが、私の名前で出すわけですから責任は大きいです。

「これから出版規制や作家の自己規制の波が来る予感がする。表現者としてはこれにあらがわなければならない」

── それだけの多忙さの中で、今後の構想について聞かせてください。

桐野 苦しい状況にある女性をずっと書いていきたいし、「これは一線を越えてしまったな」という瞬間のある人物を描いていきたい気持ちに変わりはありません。自己責任論が幅を利かせるようになった時代だからこそ、やむにやまれず苦しい状況に追い込まれる人物のことをますます考え、書き続けます。これは闘いです。

 加えて最近特に考えるのは、コンプライアンスと表現のこと。性暴力を告発し、助け合う「#MeToo運動」をはじめ、このところフェミニズムがめざましい成果を上げていて、歓迎すべき状況になっています。それと同時に、それを小説のような表現の場で表す場合、「正しさ」しか許されないとなると、表現が萎縮してしまいます。

 これから出版規制や作家の自己規制の波が来る予感もあります。それはつまり、表現全体を見ずに、部分だけが切り取られてひとり歩きし、増殖していく状況です。表現者としてはこれにあらがわなければならない。この新たな闘いに、立ち向かっていきます。


 ●プロフィール●

きりの・なつお

 1951年生まれ。98年『OUT』日本推理作家協会賞、99年『柔らかな頰』直木賞、2003年『グロテスク』泉鏡花文学賞、04年『残虐記』柴田錬三郎賞、05年『魂萌え!』婦人公論文芸賞、08年『東京島』谷崎潤一郎賞、09年『女神記』紫式部文学賞、10年『ナニカアル』島清恋愛文学賞、11年同作で読売文学賞、21年に早稲田大学坪内逍遙大賞、23年『燕は戻ってこない』毎日芸術賞、同作で吉川英治文学賞を受賞。21年に日本ペンクラブ会長に就任。


週刊エコノミスト2023年6月6日号掲載

『真珠とダイヤモンド』刊行 桐野夏生 作家/78

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