キャッチボールの輪を世界に広げたい――宇津木妙子さん
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元女子ソフトボール日本代表監督 宇津木妙子/75
3大会ぶり2回目の金メダルを東京五輪で獲得した女子ソフトボール日本代表。日本のソフトボール界を長年引っ張り、エース・上野由岐子投手を20年以上指導してきたレジェンドの今後の夢は、世界へのソフトボールの浸透だ。(聞き手=荒木涼子・編集部)
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「ソフトボールの原点から魅力を見直す」
── 女子ソフトボール日本代表が金メダルを獲得した東京五輪の翌年となる2022年春、これまでの社会人チームによるリーグ戦を再編して「JDリーグ(Japan Diamond Softball League)」が開幕。そして11月、初めてのワンシーズンを無事終えました。
宇津木 もう一度、ソフトボールの原点に返りたいという思いが、私の中にあります。
中学生でソフトを始めた時から、どうにかして五輪の正式種目にしたいとの思いで続けてきました。1996年のアトランタ五輪で初めて正式種目となって以降、北京までの4大会があり、その後に(正式種目から)除外された13年間を経て、東京五輪では追加種目として1大会限りでの復活。私の場合、多くの人に支えられ、5大会全てでコーチや監督、解説者などの形で関われ、良いソフトボール人生だったと感謝しています。
でもふと、五輪って何なんだろう、って最近思うんです。正式種目にしたいのは、ソフトというスポーツを、もっとメジャーにしたい、との思いからです。でも五輪って、その瞬間だけに世間からの注目が集まりがちです。ソフトの場合、(種目になるか)行ったり来たりの繰り返しでもあり、私自身が振り回されているのかなって思うんです。
皆でわいわいやる
── それでも、90年代に比べ、ソフトボールの認知度は高まったと思います。
宇津木 多くの人に知ってもらえ、もちろん達成感もあります。そして、これからの子どもたちの中には、「オリンピック選手になりたい」との思いを持つ子もいると思います。子どもたちのためにも、継続して五輪を目指せる環境にしたいとも思っています。
ただしそれだけでなく、ソフトというスポーツの魅力そのものを、もっと広く伝えたいですね。五輪だけが全てでも、また、ないなと。ソフトって、真っ平らな場所に、手作りでグラウンドを作って、皆でわいわいやるのが本来の姿だとも思うんです。競技スポーツでも、巨大な球場でやる野球と違い、観客と選手の距離がもっと近いなあと。
宇津木さんは中学でソフトボールに出会い、埼玉県のソフトボールの名門・星野女子高校(現星野高校)を卒業、72年にユニチカ垂井に入社し、14年間現役選手としてプレーする。日本代表選手では内野手。86年に日立高崎(当時)の監督に就任し90年に日本リーグを制覇、女性初の日本代表監督となる。日本ソフトボール界初のメダル獲得となった2000年シドニー五輪で銀、04年アテネ五輪で銅に導いた。金メダルを獲得した08年北京五輪(試合解説を務める)後、企業チームの現場監督を引退してからは、11年にNPO法人ソフトボール・ドリームを設立するなどして、指導や普及活動の舞台を、世界や国内の草の根に移す。
── 欧州からアフリカ、アジアと、ソフトの普及活動で世界を飛び回っています。
宇津木 ボール1個ではソフトはできません。多くの道具がいるので、ある程度恵まれた環境が必要ですが、それでも国や年齢に限らず誰もが楽しめる、素晴らしいスポーツだと伝えたいと活動しています。そして、1人でもできないスポーツです。キャッチボールができる相手がいて初めて成り立ちます。チームのメンバーや、相手チームも必要です。協調性や思いやりも育める、教育的な、考える力を付けさせられるスポーツであることも魅力だと感じていて、それを世界の多くの人に伝えることで、裾野が広がると思います。
09年、アフリカのガンビアを訪れたのですが、当時グラウンドは草がぼうぼうで、皆で草刈りから始めました。10年後に再び訪れると、アスファルトが広がり、観光地化も進み、国自体が変わっていました。何より、当時10歳だった子どもたちがソフトの指導者になっていました。出会いがあった際に、こつこつと種をまくって大事だなと痛感しました。
園児が「あそボール」
── 国内では、スポンジ製のボールやバットを使って、ベースボール…
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