フランス映画に魅了され――山中陽子さん
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セテラ・インターナショナル社長 山中陽子/72
ある一人のフランス人俳優に心を奪われ、彼の作品を集めた映画祭を開催したいと、映画配給会社を興した山中陽子さん。それから30年以上たった今も、あふれる熱意は変わらない。(聞き手=井上志津・ライター)
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── フランス映画の配給を通じてフランス語文化を日本に普及させたことが評価され、今年2月に「ルネサンス・フランセーズ栄誉賞」のフランス語振興賞(メダイユ・ドール=金)の受賞が発表されました(授与式は3月22日、駐日フランス大使公邸で)。
山中 「ルネサンス・フランセーズ」はフランスのポワンカレ大統領が世界平和を目的に1915年に設立した公益社団法人です。フランス文化の普及に尽くしている人は私の他にもたくさんいるので、何だか申し訳ない気がしますが、ありがたかったです。
── 89年に映画配給会社「セテラ・インターナショナル」を設立して34年たちました。映像輸入会社を経て独立したのはどんな経緯ですか。
山中 映像輸入会社には英語を使う仕事をしたくて入ったのですが、ある日、会社で映画雑誌をめくっていたら、ジェラール・フィリップの写真が載っていたんです。この美しい人は誰だろうと、ビデオ店で借りられる作品を全部見ました。顔がきれいなだけでなく、演技も素晴らしく、そして人間としても知的で誠実で家庭人だったことを知り、夢中になりました。
彼が活躍した40~50年代の映画は、映画館の大きなスクリーンで見るためだけに作られたもの。自分で彼の出演作品の権利を買って、映画館で上映するジェラール・フィリップ映画祭を開催したい、そのためには自分が自由に動けるようにしたい、と起業しました。27歳の年でした。
ジェラール・フィリップは22年生まれのフランスの俳優。47年、「肉体の悪魔」が大ヒット。52年の「花咲ける騎士道」で一躍スターダムを駆け上がり、国際的なスターとなった。53年にはフランス映画祭のため来日。「赤と黒」(54年)や、画家モディリアーニを演じた「モンパルナスの灯」(58年)など数多くの作品に出演。円熟期を迎えていたが、59年、肝臓がんのため36歳で急逝した。
アラン・ドロンの来日成功
── 「セテラ」は順調に始まりましたか。
山中 ジェラール・フィリップ映画祭の準備をしつつ、買い付けの仕事をしました。第1作はアメリカ映画「チョコレート・ウォー」(90年)でした。93年公開の「カサノヴァ最後の恋」に出演した(フランスの俳優)アラン・ドロンの来日プロモーションが成功したおかげで、全国の劇場の人たちにセテラの存在を知ってもらうことができ、自信が付きました。
アラン・ドロンは当時57歳で、カリスマとオーラの塊みたいな人でしたね。とても優しくて、いい思い出です。94年にケネス・ブラナー監督の「から騒ぎ」を買い付けることができたのも大きかったです。お客さんもたくさん入って、その年の外国映画輸入配給協会の奨励賞をもらいました。
── そして、ジェラール・フィリップの出演作を集めて各地の映画館で上映する「ジェラール・フィリップ映画祭」が96年についに実現しました。
山中 時間がかかったのは、ラインアップがなかなかそろわなかったからです。コツコツとフィルムを集めてきましたが、「肉体の悪魔」の権利だけがどうしても取れなかったんですね。「肉体の悪魔」はそれまでビデオも出ていませんでしたし、テレビでも放送されていませんでした。映画祭の目玉として絶対欠かせないと思っていました。
ようやく権利者と交渉し、パリで最終契約までこぎ着けて、日本の上映用に新しいプリントを焼いてもらえることになった時には、「自分で持って帰ります」と言って40キログラムもあるプリントを2本、飛行機に乗せて自分で運びました。超過料金を取られましたけどね。普段は送るんですが、何かあったらいけないと心配だったので。
── 映画祭はどうでしたか。
山中 初日が2月で雪が降ったんです。40~50年代、リアルタイムで彼の映画を見ていた人が来てくれることを期待していたのに雪だったので、来られないかもしれないと思っていたら、映画館の周りを取り巻くぐらい列がバーッとできていました。その後も全国で上映し、どこの映画館でも盛況でした。
普段の上映と違ったのは、全…
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