狙うは“街の本屋の最高峰”――長﨑健一さん
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長崎書店社長 長﨑健一/69
老舗書店の経営を引き継いで十数年。ギャラリーを併設し、つい長居したくなる居心地のよい店内は、出版不況と書店淘汰の逆風をくぐり抜けてきた格闘から生まれた。(聞き手=浜田健太郎・編集部)
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「誰でも入れる本屋の特徴を生かした商売がある」
── 長崎書店は明治期から続く老舗です。初めて来ましたが、暖色系の柔らかい照明に包まれたモダンな雰囲気ですね。一見すると普通の街の書店ですが、棚を見ると相当に工夫を凝らしている印象です。
長﨑 方針として文化度の高い書籍を重視する、九州や熊本に関連した地域性の高い書籍も大事にしており、スタッフとも共有できていると思います。来店客には「ここに来るといい本が見つかる」といった期待感を持ち続けてほしいからです。そのためにも、人文書や文芸、コミックなど各棚の担当者が大中小とさまざまな規模の出版社について幅広く情報を集めています。全国的なベストセラーにはならなくても、当店では多く売れる本もあり、そうした作家や版元の作品をきめ細かく拾っていくことが生命線ですね。
── 店の手前の場所に人文系書籍を多くそろえています。800ページ以上ある大著『負債論 貨幣と暴力の5000年』(デヴィッド・グレーバー著)があります。あのような重厚な書籍を置いてある街の本屋は珍しいなと。
長﨑 店の立ち位置としては、昔からある街の本屋を軸足としており、その構えは大事にしたいと思います。その上で、ジャンルによっては深掘りして、イベントと絡めたりして、他の書店との違いを磨き上げていきたい。目指すは「街の本屋の最高峰」です。
── 水俣病の悲劇と人間の尊厳を描いた『苦海浄土』を著した石牟礼道子さんなど、熊本ゆかりの作家や書籍も多く扱っています。
長﨑 水俣病関連の書籍のコーナーを設けてしっかり販売してきましたし、(石牟礼さんの活動を支えてきた)熊本在住の近代史家の渡辺京二さんなどの著作も多く販売しています。昨年12月に亡くなられた渡辺先生には、時々当店に足を運んでもらいました。
長崎書店の創業は1889(明治22)年。森鷗外や夏目漱石も訪れたという「長崎次郎書店」の支店として営業を始めた。両店は戦後に経営を分離。一人息子の長﨑さんは、長崎書店の経営を将来引き継ぐことを「中学生の頃から意識していた」という。青山学院大学経営学部に進学し、書店でのアルバイトも経験した。大学では軽音楽サークルに所属し、ロックバンドでベースを担当。学生生活を謳歌(おうか)していた頃、熊本の実家から店の経営状況が厳しく、父・長﨑茂昭氏の体調も思わしくないとの連絡が届く。大学3年の終わりの2001年3月に中退し、家業の立て直しに加わる。
── 大学を中退して熊本に戻ったのはやむにやまれずという状況だったのでしょうか。
長﨑 家業を継ぐために大学に来ているという意識でしたから、迷いはありませんでした。当時は、取引先や取引銀行の対応が難しくなってきたことを聞いていました。
── 経営状況が思わしくなかったと。
長﨑 アマゾンが世に出始めた直後ぐらいの当時は、書店を取り巻く環境が激変していました。ネット販売のほかに、ブックオフなど「新古書店」といわれる業態も伸びてきていました。近隣には当店と蔦屋書店熊本三年坂店などがありましたが、00年当時は、紀伊国屋書店熊本店、リブロなど県外資本の大手書店が出店(2店はその後閉店)。大規模小売店舗立地法施行に伴い大規模店舗が出しやすくなり、店頭販売がどんどん厳しくなっていくことに対応が追いつかなかったわけです。
私は、都内の有名書店を巡り、大学近くにあった「青山ブックセンター(東京都渋谷区)」のような、特徴がありお客に支持される店という理想がありましたが、社内でもなかなか理解されませんでした。
── 店舗改革の必要性を訴えて、06年にリニューアル(改装)に着手するわけですね。必要資金は銀行から調達したのですか。
長﨑 取引銀行は当店に対してかなり厳しい対応でした。当時は、金融検査マニュアルが本格化して、銀行に担保を入れても、審査格付けを満たさない事業所への融資は難しいと。そこで、地元の商工会議所に経営相談をして、「経営革新計画承認制度」を紹介してもらいました。既存の商売に新たな付加価値を付けた計画を…
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週刊エコノミスト
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