BOØWYはとてつもなくすごいバンドだった――高橋まことさん
ドラマー 高橋まこと/76
かつて伝説のロックバンドBOØWYの最年長メンバーとして、「縁の下の力持ち」的な役割を担った高橋まことさん。東日本大震災の発生以来、ふるさと福島県の支援活動にも力を入れてきた。70歳を目前にしたいまも、現役でドラムをたたき続ける。(聞き手=市川明代・編集部)
── 東日本大震災で被災したふるさと福島の支援活動「CROSS OVER JAPAN」に、今も取り組んでいますね。
高橋 2011年に、地元の福島の子どもたちのために音楽を通じて何かできないか、ってことで、地元のミュージシャンとコラボしてBOØWYの楽曲を演奏するチャリティーライブをやったのが始まりです。BOØWYファンがたくさんいるおかげで、全国に仲間ができて、いまも各地で地道にライブ活動を続けています。
── 原発再稼働反対の意思表明もしていますよね。どのような思いからですか。
高橋 原発の立地自治体に入ると1車線の道路が急に2車線になって、街にはでっかい体育館が建っていて……というのを、福島に住んで肌で感じてきた。でも近隣の自治体は交付金もほとんどもらえなくて、そういうところ、例えば浪江町みたいなところが震災でめちゃめちゃにされた。そういうのを見ていると矛盾を感じるし、黙っているわけにはいかないんだよね。唯々諾々と、上のやつらに従ってはいられない、ってね。原発事故の直後は、デモにも参加してたよ。
── 反骨精神のようなものもあるのでしょうか。
高橋 それはある。60年代、70年代だと、先輩ミュージシャンたちが結構、世の中に対して声を上げていた。「頭脳警察」とか「安全バンド」とかさ。ところがミュージシャンもだんだん気を抜かれちゃって、「愛だ恋だ」って歌ばかりになってしまってるよね。
福島高校卒業後、福島や仙台でのライブ活動を経て上京した。1978年、前年に解散した人気バンド「安全バンド」の長沢ヒロが新たに結成した「長沢ヒロ&HERO」に参画するも間もなく脱退。81年にデビュー前のBOØWYにドラムスとして加わり、氷室京介(ボーカル)、布袋寅泰(ギター・コーラス)、松井常松(ベース)とともに日本の音楽シーンに旋風を巻き起こす。
── 子どもの頃のことを教えてください。
高橋 やんちゃだったね。「あんたは口から先に生まれてきた」とお袋に言われるぐらい、ベラベラしゃべる子だった。これはどうした、あれはどうした、これはなんでこうなんだ、っていうことを、ガンガン大人に聞いて回ってた。
── 名門の福島高校出身です。音楽はその頃から?
高橋 バンドは小学生の頃から組んでた。実は中学を卒業して高校に入る時に、1年浪人してるんだよね。ビートルズにハマりすぎてね。高校浪人っていうのかな、当時はそういうのが1クラスに4人か5人はいた。入学後はガンガン音楽をやったよ。当時はハードロック全盛で、俺もレッドツェッペリンやディープパープルから影響を受けた。授業が終わったら家に帰ってスティックを握り、土日はステージに立ってたよ。
大学に受かれば4年間は東京で遊べる、って思って受験したら、全部落ちてさ。お袋は、浪人してまた受ければいいって思ってたみたいだけど、内装屋をやってる叔父に「お前はどうせ来年も受からねえから、そんなことやめてうちに働きに来い」って言われて、世話になった。
── しばらく福島に?
高橋 福島に音楽仲間もいたから、バンドを組んでしばらくはライブもやってたけど、やっぱり東京に出て音楽で身を立てたいっていうのがあって。そのために何かアクションを起こさなきゃと思ってた時に、東北大に入った高校の同級生が「仙台で一旗揚げて、それから東京行かねえか」って誘ってきたのよ。それで、そいつのアパートに転がり込んで、天ぷら学生になったんだよ。
── 天ぷら学生?
高橋 東北大生でもないのに毎日、大学に行って、学食食って、クラブの部室で練習してさ。要するに「ニセ学生」。たまにそーっと授業出てみたり。楽器がめちゃうまいもんだから、新しく入ってきたやつにいろいろ教えてあげたりすると、俺のこと完全に先輩だと思い込むわけよ。最後まで信じ込んでたやつもいたね(笑)。
仙台には2年ぐらいしかいなかったけど、濃かったなあ。ライブやったりコンテストに出たり、アルバイトも機械部品屋の床掃除とかビラ配りとか、やれることは何でも必死になってやった。食うや食わずで。
── 「一旗」揚げたのでしょうか?
高橋 学生たちと一緒にやってるとさ、結局みんな、就職したり教師になったり家業を継いだりで、バラバラになっていく。それと、東京でバンド結成の話があると、「ギターだけ来い」「ベースだけほしい」とかいって引っこ抜かれていくわけ。
そうこうしているうちに、俺のところにもオファーがき始めた。長沢ヒロから新しいバンドの誘いがあって、東京に乗り込んだんだけど、メンバーとちょっとそりが合わなくて、結局脱退することになる。高校受験失敗に次ぐ2度目の挫折だよ。でも、そのまま福島に帰るのも面白くねえし。音楽雑誌のメンバー募集に電話をかけて単身で乗り込んだり。昔は、ステージのある飲み屋が結構あったわけよ、そこでドラムをたたいたりね。頼まれれば何でもやったよ。
── そして、BOØWYにたどり着いたわけですね。
高橋 ある人に誘われて新宿ロフトにステージを見に行って、楽屋でヒムロック(氷室京介)と電話番号を交換した。1カ月後ぐらいに電話があって、「いまスタジオでリハーサルやってるから、遊びに来ませんか」って。曲の入ったカセットテープ渡されて、何回か聞いて覚えて演奏した。それが「イメージダウン」(ファーストアルバム『MORAL』の収録曲)だったんだよね。
── BOØWYでやっていこうと決めたのは、可能性を感じたからですか?
高橋 いや、そういう色眼鏡みたいなのは全然なかった。パンクだし、とにかく速いなと思ったし、粗削りだったけど、魅力があった。それまで俺がやってきたハードロックは、曲が何かすれてたり、ちょっとした「決め」があったりしたけど、そういう面倒なのがなくて、「ダダダダーン、うおーっ、いけーっ」みたいなノリでね(笑)。ストレートでいいじゃん、そういうの。
BOØWYは1982年、アルバム『MORAL』でデビュー。『BOØWY』『JUST A HERO』と着実に売り上げを伸ばし、5枚目の『BEAT EMOTION』でオリコン初登場1位、6枚目の『PSYCHOPATH』(87年)で初のミリオンセラーを記録する。ライブ会場も新宿ロフトから出発し、渋谷LIVE INN(88年に閉店)、渋谷公会堂(現LINE CUBE SHIBUYA)、中野サンプラザ、日本武道館と次第に大きくなっていく。
── 最初は、客の入りはさっぱりだったんですよね。
高橋 ドラムをたたきながら、客の人数を数えてたからな。ちゃんと手帳に書いてたのよ。「今日どこどこでやったライブは客が14人だった」って。それでもとにかく当時は売れるためにはライブをやるしかないから、月に数本はやってたかな。
── アルバイトで生活費を稼ぎながら。
高橋 そう。俺はマネキンを運ぶ仕事してたよ。デパートの閉店時間が過ぎたら、バックヤードからマネキンを担いできて展示するんだよね。勤務態度もよかったし、正社員にならないかと誘われたぐらいだよ。
── あれよあれよという間にファンが増えていったわけですね。
高橋 原点の新宿ロフト(収容人数500人程度)を卒業して、700~800人入る渋谷LIVE INNが一杯になった時は、めちゃめちゃ盛り上がったね。
── 85年に初の全国ツアーを果たして、そこから一気にスターダムにのし上がります。生活に変化はありましたか。
高橋 ツアーも最初の頃は、みんなでワイワイご飯食べに行ったりしてたけどさ、だんだん外に出られなくなって、部屋で(トランプゲームの)ブラックジャックをやったりね。タクシーに乗ったら追いかけられて、全然関係のないホテルの駐車場に入って巻いてから、頃合い見計らってホテルに戻ったりね。
ライブの後も、着替えてる間に楽屋口に人がたまっちゃうから、アンコールの前に着替えちゃって私服で歌ったり、汗でぐちゃぐちゃの衣装のままタクシーに乗ったりしてたね。
── そして突然、解散してしまうわけです。
高橋 5枚目のアルバム『BEAT EMOTION』が1位になって、そこが転機といえば転機だけど、「バンドとしてトップを取ったら、あとはみんな別々にやりたいことをやればいい」っていうのが、もともと布袋の考え方だったからね。
── メンバーみんな、布袋さんの考えに納得していたんですか?
高橋 ヒムロックなんかは多分、このままやっていってもいいよな、って思ってたんじゃないかな。でもそこは売り言葉に買い言葉で、「本当にそう言うんだったら、じゃあやめて別のことやろうぜ」みたいな話になるよね。
── 若かった、ということでしょうか。
高橋 そうなんだろうね。それと、俺は30歳超えてたけど、布袋とヒムロックはまだ20代半ばだから、「俺たちにはまだまだ先がある」って当然思うよな。
── 最後のアルバム『PSYCHOPATH』は、どんな気持ちで作ったのですか。
高橋 このアルバムで終わりなんだなと思って作ったよ。その後のツアーが最後の最後なんだな、っていうね。でもそれは俺たちもお互い口に出さなかったし、外にも言わなかった。インタビューを受けても、相手も気を使ってるのか、何も聞いてこないしね。でもなぜか、「解散するらしい」ってウワサが独り歩きし始めた。SNS(交流サイト)なんかなくったってさ、ウワサって広がるんだよね。
── 87年12月24日、渋谷公会堂でのツアー最終日、印象に残っていることはありますか。
高橋 解散宣言をアナウンスするとしたら、ヒムロックがやるしかないわけじゃん。いつ言うんだろう、っていうのはあったよね。会場には、ただならぬ雰囲気があってさ。最初から泣いてる人もいたしね。後から知ったけど、渋公の周囲には、中に入ってるよりずっとたくさんの人が集まって、押し合いへし合いしてたわけよ。
後で音を聴いたらさ、テンポがめちゃめちゃ速かった。ドラムの最初のカウントで速さが決まっちゃうからね。緊張してたんだね。
解散発表の翌朝、12月25日の朝刊に「最後のGIGS」を来年必ずプレゼントする、との告知が掲載される。「LAST GIGS」は88年4月4、5日、3月にこけら落としを終えたばかりの東京ドームで開催された。当時はチケットも電話予約が主流で、発売日には一部地域で電話回線がパンクし、世の中の話題をさらった。
「BOØWYはとてつもなくすごいバンドだった。世の中が大きく変わる転換点にいたからこそ、今も人の心に残り続けるんじゃないかな」
── 「LAST GIGS」は、メンバーの知らないうちに決められていたとか。
高橋 あとから連絡が来て、「リハーサルをやるからスケジュールを空けてくれ」って言われて。東京ドームが会場だっていうから正直、大丈夫か、あんなところでやって人集まるのか、って思ったよね。武道館でいいじゃん、って。そしたら2日間分、計10万枚のチケットがあっという間に売れたからね。もうびっくりしたよ。
── 当日は、どんな気持ちで臨んだのですか。
高橋 俺たちにとっては渋公が最後で、「LAST GIGS」っていっても早めの同窓会だったね。俺たちの前にHOUND DOG(ハウンドドッグ)のライブがあったから、事前に俺とヒムロックで、「偵察だ」っていって見に行ったわけよ。イベンターに、ちょっと見せてくれって頼んで。でっかい会場で、音が遅れて伝わるから、お客さんが振り上げるこぶしがウエーブみたいにずれてくるわけ。いまは音響もだいぶ良くなっただろうけどね。
── BOØWYは、突然現れて、あっという間に去って行った伝説のバンドとして、解散後も語り継がれてきました。そのことについてはどう思われますか。
高橋 とてつもなくすごいバンドだと思うよ。いくら売れても、解散したら時代とともに忘れられるわけじゃん。そうならないのが不思議なんだよね。当時、10代とか20代で聴いてたやつらは、バンドをコピーしたりしてたわけで、そういうのってやっぱり気持ちが続くんだろうね。
あと、カセットテープ世代というのも大きいよね。自分で好きな曲を入れたカセットテープを作って、「これ俺の編集だから聴いて」って友達にプレゼントしたりね。今より音楽にかける時間が長かったよね。今は「○○かけて」って機械に向かって話しかけるだけで、好きな音楽が勝手に流れてくる時代だからね。だいぶ違うよね。
── バブル崩壊の直前でした。
高橋 右肩上がりの時代の終わりかけの頃で、世の中が大きく変わる転換点だったね。レコードからCDに、アナログからデジタルに変わる時でもあった。
今は大きなライブ会場だと、照明も何もかも全てコンピューター駆動になってるから、それと同期させるために、バンドメンバーも「クリック」っていうデジタルのテンポ情報を聞きながら演奏する。
── 解散宣言ライブで、緊張でテンポが速くなっちゃったのも……
高橋 あの時代ならでは。すごく人間的だよね。同じ演奏は二度とない、っていうね。
BOØWY解散後に参画したバンドDe-LAXは、行き詰まりから92年に解散を余儀なくされる。失意のどん底からはい上がるきっかけを作ってくれたのは、かつての仲間である氷室だった。ファンクラブのイベントに高橋をゲストとして呼んだり、釣りに誘ったり。当時、氷室は独立後4枚目のアルバムがBOØWY時代をしのぐ売り上げを記録し、多忙な日々を送っていた。「今も第一線で体を張って踏ん張っている、かけがえのない戦友」の姿に刺激を受け、自らを奮い立たせたという。以後、さまざまなバンドに参画し、ソロ活動にも力を入れるようになった。
── 解散後もBOØWYの影がつきまとうことに、複雑さはありませんか。
高橋 前はあったよ。「あんまりBOØWYのことばかり言うなよ、俺はDe-LAXなんだから」って周囲にも言ってた。でも何年もやってると面倒くさくなって、まあいいか、俺は「元BOØWY」なんだから、って(笑)。
── 氷室さんも表舞台から姿を消してしまった今、やはり再結成はないのでしょうか。
高橋 俺はずっと、再結成するんだったらとっととやってくれ、俺がドラムをたたけなくなる前にやってくれ、ってずっと言ってきたんだけどね(笑)。数年前に布袋がアルバム『GUITARHYTHM』シリーズに俺と松井を招いてくれて、3人で久しぶりにレコーディングをやった時は、すごく楽しかったね。
── 来年、70歳ですね。集大成となるライブ「ROCK HISTORY 69」が5月4日、高崎で開催されました。年齢を意識することはありますか。
高橋 さすがにね、今は20代の頃のようにはたたけない。でも年を取った分、たたき方とか体の使い方とか、知恵によって、少しはカバーできるところもある。若い頃みたいに力いっぱいやみくもにたたくんじゃなくて、うまいこと体を使って楽して大きい音を出そう、っていう考え方に変わってくるよね。じゃなきゃ、何時間も持たない。
まだまだしばらくドラムをたたき続けていたい。幕引きするのは自分だしね。体が利くうちに、やりたいことはやっておきたい。頼まれればなんだってやるよ。じじい呼ばわりされねえぞ、みたいな(笑)。
●プロフィール●
たかはし まこと
1954年福島市生まれ。小学生から音楽を始め、高校時代から地元で音楽活動をスタート。78年に上京、81年にBOØWY(当時は「暴威」)にドラムスとして加入。87年の解散後はDe-LAX(デラックス)に加わり、解散、再結成を経て13年に脱退。現在はソロ活動と並行して、さまざまなバンドに参加している。2011年から、東日本大震災で被災した地元福島の復興支援活動を続ける。
週刊エコノミスト2023年5月16日号掲載
ロングインタビュー情熱人 8ビートを刻み続ける 高橋まこと ドラマー