20世紀前半の巨大危機と闘った経済学者の本格的伝記 評者・田代秀敏
『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946 経済学者、思想家、ステーツマン(上・下)』
著者 ロバート・スキデルスキー(英ウォーリック大学政治経済学名誉教授) 訳者 村井章子
日経BP 上下巻、各4950円
第一次世界大戦、インフルエンザの世界同時流行(パンデミック)、世界大恐慌、第二次世界大戦と巨大な危機が相次いだ時代に、ジョン・メイナード・ケインズがマクロ経済学を創始し、危機への対処と新たな世界秩序の構築とに積極的に貢献したプロセスを、本書は膨大な史料と聞き取りとに基づいて精緻に描き出す。
ケインズより17歳年下の経済学者ロイ・ハロッドは、ケインズの死から5年後に著した公式伝記で、ケインズを感傷的な筆致で美化した。
ケインズ全集を編集した経済学者ドナルド・モグリッジは、私生活に深入りせず、経済理論とその応用に集中した簡潔な伝記を著した。
対照的に、ケインズの死の7年前に生まれた歴史学者である本書の著者は、巨人の生涯を克明に描く。せっかちな読者は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』の執筆が始まる第28章第Ⅳ節から読み始め、その後から前半を読むとよいだろう。
哲学者バートランド・ラッセルから1905年に「私が知る限りで最も鋭くて明晰(めいせき)な頭脳の持ち主だ」と絶賛されたケインズは、06年から14年にかけて余暇の大半を使って確率論に取り組んだが、04年から21年にかけて数人の男性と恋愛関係になり、ケインズ自身が「非生産的な性交」と呼んだ行為を続けた。
また05年に当時最高権威の経済学者であったアルフレッド・マーシャルから週1回の個人指導を受け始めたケインズは、「一般投資家から財産を巻き上げることぐらいはやってみたい。そういうことをどうやるのか修得するのは簡単だし、ひどくおもしろい」と男性の恋人への私信で吐露した(この箇所をハロッドは引用の際に削除した)。
『雇用・利子および貨幣の一般理論』を出版した36年、小麦相場が下落すると「悪知恵にかけては天才的なケインズ」は巧妙に立ち回り損を免れ、「悪魔のような投機師」が市場を手玉に取ったと怨嗟(えんさ)の声が上がった。
第二次世界大戦が勃発した39年、既に病魔に侵されていたケインズに、アインシュタインやローマ教皇も診察した高名な医師は「アヘンの錠剤を処方した」。
こうしたエピソードをふんだんにちりばめながら、「イギリスを、いや世界の大半を、高みから見下ろしていなかった時期は生涯にほとんどない」ケインズが、「およそ望みうることを最高の形でやり遂げた」のを鮮やかに描き出し、読み飽きない。
20世紀前半の危機と闘ったケインズの本格的伝記は、21世紀前半の危機と闘うための智慧(ちえ)の宝庫である。
(田代秀敏・infinityチーフエコノミスト)
Robert Skidelsky 英歴史学、経済学アカデミー・フェロー。ケインズ研究の第一人者。他の著書に『何がケインズを復活させたのか』『経済学のどこが問題なのか』など。
週刊エコノミスト2023年8月15・22日合併号掲載
書評 『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946 経済学者、思想家、ステーツマン(上・下)』 評者・田代秀敏