思考停止は“現代の病” 当たり前を疑う“へそ曲がり”の勧め 評者・将基面貴巳
『思考停止という病理(やまい) もはや「お任せ」の姿勢は通用しない』
著者 榎本博明(MP人間科学研究所代表)
平凡社新書 990円
最近、「思考停止」という言葉を盛んに目にするようになった。だがその意味内容は必ずしも明白ではない。本書は、このキーワードをめぐって日本社会に潜む多様な問題点を心理や教育の観点から自在に論じるが、著者のいう「思考停止」とは大別すれば次の四つに分類できよう。
第一は、「お任せ」である。料理店での食事の内容から国の政策に至るまで日本人が全て他人任せにするのは、日本的対人関係が「性善説」に基づくからだと著者は言う。他人を「敵」だとみなすことを嫌うため、権力には自発的に服従する。
第二は、気配りである。相手の期待を裏切りたくないあまり、外出時の服装にまで助言する天気予報のように面倒見の良さが過剰になる。このように他人の視点を意識しすぎる姿勢のために、会議は「空気」が支配し、一人ひとりの合理的な判断を曇らせてしまう。
第三は、思考のパターン化である。海外との相違点を日本の「遅れている」点と短絡するのがその好例である。思考をパターン化すれば考える手間を節約でき、それに呼応して行動もマニュアル通りとなる。インターネット上の情報や数値化されたデータであればうのみにして疑わない傾向も強くなろう。
第四は、理解力の貧しさである。知識偏重教育への反省や図解などによる感覚的把握への依存、さらにスキル重視の傾向などにより、若い世代の言語理解能力が低下している現状を著者は憂える。
知識がなければ理解力が貧しくなるのは当然だ。だが、知識の欠如は「検索力」さえあれば補完できるという主張もあるらしい。その結果「検索することと考えるのと、いったい何が違うのかと尋ねられることがある」と著者は記すが、これにはあぜんとさせられた。
「考えることの基本は、疑問をもつことにある」。しかし、何も知らない事柄については疑問を抱くことはできない。全く無知では何がわからないかもわからないからだ。考える力を体得するには自分の頭の中に知識を蓄えることが絶対不可欠である。
だが、知識の増進や理解力の向上だけでは不十分である。常識や現況について「それはおかしいのではないか」と疑問を抱く人を「なぜそんなことを考えるのか?」とへそ曲がりや変人であるかのようにみなす傾向は根強い。だが、現状や一般通念を「当たり前」として受け入れる限り疑問は生じえない。「当たり前」を疑う態度に寛容でない社会では「思考停止」は避け難い。
(将基面貴巳、ニュージーランド・オタゴ大学教授)
えのもと・ひろあき 1955年生まれ。東京大学教育学部教育心理学科卒業。カリフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授などを経て現職。著書に『〈ほんとうの自分〉のつくり方』など。
週刊エコノミスト2023年8月15・22日合併号掲載
書評 『思考停止という病理(やまい) もはや「お任せ」の姿勢は通用しない』 評者・将基面貴巳