ダイヤ精機社長・諏訪貴子さんの場合
ファミリービジネス(家業)をどう次世代に引き継ぐか。社長である父、夫が突然亡くなった場合など、事業を引き継ぐ準備をしていなければ、なおさら難題になる。東京・大田区の精密金属加工メーカー、ダイヤ精機社長の諏訪貴子さん(52)も先代である父保雄さんを病気で失い、主婦から突然、社長を引き継ぐことになった。事業売却を勧める取引先銀行との衝突、リストラを乗り越え、職人や社員をまとめあげて、わずか3年で事業を立て直した諏訪さん。ドラマのモデルにもなった「後継ぎ娘」の奮闘記を紹介する。
この記事は、毎日新聞グループが運営するファミリービジネス・メディア「リファラバ」編集部が取材したものです。リファラバは、地元に根ざしながら家族的な結びつきで運営されている会社をつなぎ、課題解決などを支援しています。随時掲載します。
第1章 父の余命は「あと4日」
「急性骨髄性白血病です。お父様の体は、あと4日ももちません」。2004年4月。東京都内の病院で医師にこう告げられた。突然の宣告に頭が真っ白になり、しばらくは理解できないでいたが、保雄さんの命があとわずかであることがわかると、足が震えた。
保雄さんに早期の肺がんが見つかったのは03年9月。すぐに手術で患部を取り除き、術後の回復も順調。医師の説明から「5年生きられる可能性は80%」と思っていた。当時、主婦だった貴子さんには、夫の米国転勤話が持ち上がっていたが、「早期がんならば大丈夫」と、夫と小学校入学を控えた長男の3人で渡米する準備を進めていた。
夫の赴任の準備、長男の米国での入学準備で忙しかったが、「米国に行ったら経営の勉強をしてもいいかも」と経営学を学ぶことができるアメリカの大学の資料を取り寄せるなど、米国での新たな暮らしに思いを巡らせる日々が続いた。
そんな希望に満ちた日々に暗雲が垂れこめたのは、04年3月のことだった。当時、神奈川県厚木市に住んでいた貴子さんが、たまたま実家に顔を出すと、それを聞いた保雄さんが「タカちゃんに話がある」と、急いで外出先から帰宅した。
保雄さんの顔を見てびっくりした。「顔色が青白くて。貧血気味とは聞いていたのですが、まさかここまでとは。無理して働いていたのだろうなと思いました」と振り返る。そんな姿を見て貴子さんは数十年ぶりに保雄さんの肩をもんだ。
保雄さんは「米国に行かないでほしい。日本に残って会社を手伝ってくれないか」と切り出した。始まろうとしていた米国での生活、チャレンジしたいこともあった。「すぐに戻ってくるから、会社を手伝うのはちょっとだけ待ってほしい」。保雄さんは「わかった。あと1年は頑張るよ」と返した。
高度成長期を支えたダイヤ精機の「ゲージ」
会社勤めだった保雄さんがダイヤ精機を創業したのは1964年。アジア初のオリンピック、東京五輪が開かれ、高度経済成長の真っただ中だった。
部品の形状や精度を測定するゲージが主力商品。ゲージのおかげで精密部品の大量生産が可能になり、「ものづくり大国」としての戦後日本を支え続けてきた。特に1マイクロメートル(1000分の1ミリ)単位まで計測できるダイヤ精機のゲージは、高い安全水準が求められる自動車産業にとって、なくてはならないものだ。
創業のきっかけは、貴子さんの兄が3歳で発症した白血病だった。モノを作れば売れた高度経済成長期には、サラリーマンでいるよりも起業した方が高額な治療費を捻出しやすいと考えたためだ。しかし、兄は6歳で短すぎる一生を終えた。その4年後に生まれたのが貴子さんだった。
「あなたはお兄ちゃんの生まれ変わり」。幼い頃からそう言われて育った貴子さん。特段、反発を感じることもなく育った。意識的なものもあったのかもしれないが、子供の頃から男の子が好むおもちゃで遊んだ。
友達も男の子が多くなり、自分でも「私は男の子として生まれるはずだった」と思うようになった。そんな娘の成長を見て、保雄さんは取引先に連れ回し、会社に連れて行っては社員との接点をもたせるようになった。
「今、振り返ると、父は私に後継者になってほしいと思っていたようだ」と感じるが、保雄さんが直接「後継者になれ」と言ったこともなければ、貴子さんに「自分が継ぐ」という思いがあったわけでもなかった。
残された日々…「会社は私が何とかする」
保雄さんの余命宣告とともに、貴子さんはもう一つの選択を医師から迫られていた。保雄さんに病状を伝えるかどうか。「社長という立場もある。生きている間にやっておかなければならないこともあるでしょう」と告知を勧める医師に「そんな残酷なことはできない。会社のことは私がなんとかするので、告知はしないでほしい」と答えた。
医師から説明を受け、保雄さんと面会した貴子さんは気丈に笑顔でこう伝えた。「お父さん、肺炎になっちゃったみたい。治療をすれば治るから頑張ろう」。保雄さんから「会社を手伝ってほしい」と頼まれてから1カ月もたっていなかった。
「会社は私がなんとかする」と医師に伝えたものの、ダイヤ精機を継ぐ確信的な気持ちがあったわけではなかった。「とにかく父が可哀そうで余命宣告したくなくて、半ば口からでまかせで出た言葉だった」
入院2日目、看病は姉に任せ、ダイヤ精機に向かった。幹部社員を呼び、保雄さんの余命がわずかだと伝えた。動揺はあったが、「大丈夫です。俺たちは今まで通りやるだけですから」という言葉に胸をなで下ろした。
次いで、権利書や預金通帳、会社印といった事業承継に必要な書類をかき集めた。大切な書類がどこにあるのか。保雄さんしか知らないことも多かった。保雄さんが突然倒れるとは、誰も想定していなかったからだ。
分からないことや見つからないものがあると病院に行き、父に聞く。そして再び会社に向かう。時間の経過とともに体力を失っていく保雄さんを前に必死だった。
入院3日目には、リンパ節が腫れて声が出なくなった。金庫の暗証番号が分からなかったので、筆談で教えてもらった。それが保雄さんとの最後のやり取りになった。それから、間もなく保雄さんは意識混濁に陥った。
04年4月27日、病室からうなり声が聞こえた。もうほとんど力も残っていないはずの保雄さんが最期に何かを伝えたいのだと思い、家族全員がベッドの周りに集まった。保雄さんはじっと鋭いまなざしをベッド脇に立った貴子さんに向けた。「後は頼んだぞ」。そんな思いが伝わってくるようだった。
「会社は大丈夫だから!」。貴子さんも保雄さんから目をそらさず、大きな声で叫んだ。その言葉に安心した保雄さんは静かに息を引き取った。64歳だった。人生を全力疾走し、やりたいことをやりきった。貴子さんには、そんな顔に見えた。
第2章 「継ぐ」「継がない」… 父と娘の物語
ダイヤ精機社長だった父保雄さんを2004年4月に亡くした貴子さんだったが、悲しみに暮れている余裕はなかった。保雄さんからの「宿題」がたくさん残されていたためだ。
保雄さんが亡くなった翌日、メインバンクの支店長が会社に駆けつけた。一通りのお悔やみの言葉を述べた後、支店長は「後継者はどうされるのでしょうか」と切り出した。後継候補は、貴子さんと貴子さんの夫、そして、その他の親族、幹部社員だ。貴子さんは「会社は私がなんとかする」と、生前の保雄さんに約束したものの、自身が会社を継ぐつもりはなかった。保雄さんも、貴子さんをはっきり後継指名していたわけではなかった。
早世した兄の「生まれ変わり」
貴子さんは「跡継ぎ娘」として、どのように育てられたのだろうか。
わずか6歳で亡くなった長兄。保雄さんは、貴子さんを「兄の生まれ変わり」と言って育てた。貴子さんも自然と「私は男の子として生まれるはずだった」と思うようになり、男の子に交ざって遊ぶことが多かった。
保雄さんが口に出すことはなかったが、そんな貴子さんを後継者と考えていたようだ。貴子さんが小学生の頃、たびたび会社に呼ばれ、時には取引先に連れて行かれた。貴子さんも工場に遊びに行き、職人さんたちとおしゃべりすることが増えていった。
大学は成蹊大学工学部を選んだ。保雄さんが「大学は工学部にしか行かせない」と宣言していたためだ。もちろん「父が願う人生を歩んでいいのか」と葛藤を感じたこともある。それでも心のどこかに亡くなった兄の存在があり、「兄ならばどうしたか」は、自分が進むべき「道しるべ」になっていた。
大学入学以降は「女性らしい仕事」に憧れる気持ちも芽生えた。そんな変化に気づいたのか、保雄さんは取引先の自動車部品メーカー、ユニシアジェックス(現日立アステモ)が「役員秘書を募集している」と応募を持ちかけてきた。
「役員秘書のはずが」父が描いたシナリオ
就職試験と面接を経て、入社が決まった。1995年4月、役員秘書としての社会人生活が始まると思って入社式に臨んだが、人事担当者から手渡されたのは作業服。「諏訪さんは工機部。女性初のエンジニアです」
すべては保雄さんが描いたシナリオだった。エンジニアとしての採用を保雄さんが頼み込んでいたのだ。「だまされた」と思った時には、社会人生活が始まっていた。
女性初の工機部エンジニアとして、さらには取引先の「跡継ぎ娘」として苦労もあったが、ユニシアジェックスで夫と出会い、職場結婚して退職した。「2年間だけだったが、生産管理や機械加工といった製造業の基礎を学んだ」と振り返る。
結婚後は専業主婦となり、翌年に男の子が生まれた。孫の誕生を誰よりも喜んだのは保雄さんだった。「あと20年ぐらい頑張ったら、ダイヤ精機は孫に継がせる」。父の笑顔を見ながら、兄の生まれ変わりとして生きてきた貴子さんは、役割を果たした気持ちになった。家事や育児の傍ら、時間を見つけてはパソコンを学び、アナウンスの専門学校に通った。専門学校卒業後は結婚式の披露宴の司会も始めた。
バブル崩壊「会社を手伝ってくれ」
しかし、貴子さんが自分の道を模索し始めた頃、ダイヤ精機は厳しい経営環境に追い込まれていた。日本経済はバブル崩壊後の長期低迷で危機にひんし、97年には北海道拓殖銀行や山一証券が破綻。金融機関の経営が行き詰まりを見せ、「貸し渋り」「貸しはがし」も横行した。
円高も重なって、ダイヤ精機の主要取引先だった自動車業界も青息吐息の状態に。時代の荒波にもまれ、ダイヤ精機の売り上げは最盛期の半分以下に落ち込んでいた。98年、事態を打開すべく、保雄さんが頼ったのは貴子さんだった。「会社の状況が大変だから手伝ってほしい」
保雄さんの頼みを断るわけにはいかなかった。配属先は総務部。大手部品メーカーでの経験も生かして、営業、設計、製造の各部門に聞き取り調査を行い、経営状態を徹底的に調べた。
売り上げが半減したのに、約30人という社員数は多すぎる。不採算な設計部門を部門ごとリストラするしかないと思った。保雄さんにデータを示しながら、「一度、会社を小さくしてコストを抑えて、再び力をつけた後に設計部門を復活させればよい」と訴えた。
娘の提案に保雄さんは「よし、わかった」とうなずいた。設計部門の社員は3人。貴子さんも断腸の思いだった。リストラ対象の社員には、貴子さんを子供の頃からよく知る社員も含まれていた。それでも「会社を残すにはリストラしかない」と決意を固めた。
リストラされたのは「自分」
社員にリストラを告げる朝、貴子さんは社長室に呼ばれた。「私も立ち会うのかな」と思っていたが、保雄さんからリストラを告げられたのは貴子さん自身だった。「明日から、お前は会社に来なくていいから」と宣告された。リストラを提案した社員は全員、会社に残ることになった。保雄さんはリストラを提案した貴子さんだけをリストラしたのだ。
心配した社員が「戻ってきなよ」と連絡をくれた。しかし、貴子さんにそんな気持ちはなかった。自分は社長である保雄さんを手助けしたいだけ。その保雄さんの決定だから受け入れた。
会社では社長と社員だったが、一歩外に出れば普通の父と娘に戻っていた。「父は会社の中と外で全く違う人。子煩悩だし、パンツ一丁で踊り出すような陽気な人だった」。実際、ダイヤ精機に入社して初めて出席した会議で、怒りをあらわにする保雄さんを見たが、それは初めて見る父の姿だった。
「今なら分かる」父の気持ち
その後も日本経済は好転せず、厳しい経営が続いた。2年もしないうちに「会社を手伝ってほしい」と保雄さんから頼まれた。貴子さんは「自分が役に立つならば」と再度、入社することを決めた。
前回と同じく経営状態を分析したが、結果は同じだった。もう一度、不採算部門のリストラを提案した。そして、対象者にリストラを告げる日、保雄さんに呼ばれた貴子さんは2度目のリストラを宣告された。「明日から、お前は会社に来なくていいから」。告げられた言葉も同じだった。
当時はリストラを決断しない父が不思議で仕方がなかった。会社を残すならばリストラしかないと思っていたからだ。
だが、経営者となった今、当時の保雄さんの気持ちがよく分かる。「社員にも生活や家族がある。雇用を守ることも経営者の務め」だからだ。「あの時、父が私と一緒に頑張りたかったのは、コスト削減ではなく、売り上げを伸ばして雇用を守ることではなかったか」
第3章 継がなかったら「一生後悔する」
2004年4月に父保雄さんを突然の病気で亡くした貴子さん。病床で言葉にならない声で、何かを必死に訴える保雄さんに「会社は大丈夫だから」と伝えたものの、自身がその後にダイヤ精機を継ぐことになるとは夢にも思っていなかった。
貴子さんの夫も後継候補の一人だった。勤務先はダイヤ精機の取引先である大手自動車部品メーカー。業界事情には精通しているものの、ダイヤ精機の社内事情には詳しくない。貴子さんが頼めば引き受ける可能性もあったが、希望していた米国転勤が間近に迫り、夫から言い出さない限り、ダイヤ精機を引き継いでもらおうとは考えなかった。
貴子さんはすぐに幹部社員3人を集めた。「社員みんなで話し合って、社員の中から新たな社長を出してほしい」と頼んだ。「恐らく、幹部社員の誰かが継ぐことになるのだろう」。そう考えていた貴子さんだったが、数日後に幹部社員が出した結論は予想外のものだった。
社員の懇願「俺たちが支える」
「貴子さん、社長になってください」。頭を下げる社員を前に「私?」とたじろいだ。「俺たちが全力で支えるから」
貴子さんには、ダイヤ精機で勤務経験があり、社内事情もある程度は把握していた。大手自動車部品メーカーでの勤務経験もあったが、経営は素人。周囲で町工場の女性経営者など聞いたこともない。「32歳の女性社長がどうやってベテランの職人と渡り合うのか。イメージが湧かなかった」と振り返る。
私生活では夫、息子と米国行きの準備を進めていた。苦労することが明らかな社長就任と米国での新生活、全く異なる選択を突きつけられた。それでも、保雄さんを支え続けてきた社員たちが頭を下げる姿を目の前にしては、即座に断れなかった。「少し考えさせてほしい」
社長になれば、社員を引っ張って業績を回復させ、社員とその家族の生活を守らなければならない。会社が抱える銀行からの借入金の連帯保証人にもなる。経営状況が悪化すれば、夫や息子にも迷惑をかけることになる。
社員たちの思いに応えるか、別の人を新社長として推薦するか。「いっそのこと会社をたたんでしまおうか」と思ったことさえあった。
以前から付き合いがあり、保雄さんの相続手続きを行っていた女性弁護士に「社長になるのが怖い」と本音をぶつけた。
背中を押した弁護士の言葉
女性弁護士の答えは明確だった。「すでに資産があるのならば話は別だけれど、恐れることなんて何もないじゃない。失敗しても命まで取られるわけではないし、自己破産しちゃえばいいのだから」。背中をポンと押された気がした。「米国で暮らし、経営を学ぶチャンスは再び訪れるかもしれない。でも、もし自分が継がずに『ダイヤ精機』という会社がなくなったら一生後悔する」
ダイヤ精機は日本でトップクラスの精密加工技術を持つ会社だ。職人はダイヤ精機で働くことに誇りを持ち、創業者が突然亡くなるという逆風下でも、誰一人として辞めることはなかった。「会社がなくなることだけは嫌です」と涙を流す社員もいた。
貴子さんは腹をくくった。大好きな会社から貴子さんを社長に望む声があがり、会社の存続を求めて涙する社員がいる。そう考えれば結論は一つだった。「私が会社を継ごう」。04年5月、ダイヤ精機2代目社長となることを決意した。
始まった銀行との駆け引き
会社を継ぐと決断してすぐ、取引先や取引銀行へのあいさつ回りが始まった。バブル崩壊後の景気低迷が長引き、ダイヤ精機の売り上げは最盛期の約半分に落ち込んでいた。当時、銀行も政府の号令の下、不良債権処理と経営立て直しに必死だった。銀行が貴子さんを後継者として認めなければ取引は続かないし、一括で融資返済を求めてくる恐れもあった。貴子さんは早速、銀行との駆け引きに直面した。
取引先の銀行に姉と訪れた時のことだった。支店長室で「諏訪保雄の娘の貴子です。私がダイヤ精機を継ぐことになりました。よろしくお願いします」とあいさつすると男性支店長は「大丈夫なの?お前がちゃんと頑張らないとダメなんだぞ」と応じた。
いきなり「お前」呼ばわりされたことに貴子さんは「は? 今、誰に『お前』と言いました? 私は客としてあいさつに来たんですよね? 客である社長を『お前』呼ばわりする銀行とは良い関係なんてつくれない。無理です」とまくし立てた。
「やってられない。お姉ちゃん、帰るよ」と席を立とうとする貴子さんを姉が必死になだめた。この日、銀行には社葬の手伝いをお願いしにきたはずだった。姉の取りなしでなんとか引き受けてもらったが、支店長室には重苦しい雰囲気が流れていた。
実は、支店長に対して怒りをあらわにしたのは、貴子さんの戦略だった。銀行とは対等なパートナーであるべきだ、と考えていた貴子さんは銀行側の言葉尻を捉えるチャンスを狙っていた。「社長の娘というだけで経験も浅く、32歳という若さも銀行にとってはマイナス要因。社長として認めてもらうためには、存在感や覚悟を示す必要があった」と語る。
そこには父保雄さんの教えがあった。生前、銀行との交渉に同行した時のこと。保雄さんが「てめえ、ふざけんなよ!」とものすごい剣幕でまくし立てたことがあった。「客観的にみて、どう考えても銀行の言っていることの方が正しかった。でも、次の瞬間、銀行側が『分かりました』と矛を収めていました」
その後、銀行の助けも借りて社葬は滞りなく済ませた。その場で社長就任を宣言した貴子さんだったが、花に囲まれた保雄さんの遺影を前に涙がこぼれた。事業承継のために無我夢中で走り続けた1カ月間、社葬で父の死を初めて実感として受け止めた。
「合併せよ」銀行が放った矢
それもつかの間。数日後、銀行の支店長と担当者がダイヤ精機を訪れた。持ちかけてきたのは、合併話だった。
合併相手は同じ精密加工メーカー。規模は変わらなかったが、大手自動車メーカーを取引先とするダイヤ精機に対して、相手の取引先は中小メーカーが中心。銀行は「合併で売り上げは増えるし、コストも減る。合併後は、諏訪さんには辞めていただき、先方の社長に合併会社の社長に就任してもらう予定です」と説得にかかった。
「冗談じゃない。この合併は私たちにメリットがない」と貴子さんは一蹴した。ダイヤ精機の「技術力」が狙いであることは明らかだった。合併を受け入れれば、コスト削減の名のもとに多くの従業員がリストラされる恐れもあった。
それでも銀行は「売り上げが減り続けることは目に見えている」「単独での生き残りは難しい」と迫った。貴子さんは「考えは分かった。半年待ってほしい。結果が出なかったら、銀行の思うようにしていい。でも、うまくいったら単独でやらせてほしい」。そう伝えて、なんとか銀行を追い返した。
「業績を回復しないとダイヤ精機はなくなる」。主婦から社長に転身したばかりの貴子さんに残された時間はあまりにも少なかった。
第4章 「半年で結果を」苦渋のリストラ
2004年5月、父保雄さんの突然の死を受けて、貴子さんが社長に就任した頃、ダイヤ精機はバブル崩壊後の長引く景気低迷の影響で、売り上げが最盛期の約半分に落ち込んでいた。
保雄さんの生前、経営立て直しを目指し、2度にわたりリストラを提案したことがあった。保雄さんはそのたびに貴子さんだけをリストラし、全社員の雇用を守り続けていた。
2度目のリストラ提案から4年。ダイヤ精機の状況は変わっていなかった。売り上げに比して人員が多すぎたのだ。貴子さんは「まず、やるべきは経営の悪化を食い止めること。そのためにはコスト削減を避けては通れない」と社長就任から1週間で「リストラやむなし」との結論に達した。
当時、社内は設計、製造、営業の3部門に分かれていた。その中でも設計部門は売り上げ規模が小さく、受注も伸びていなかった。そこで働くエンジニア3人の人件費を賄えているとは到底言えない状況だった。
意識したのは「個人のリストラはしない」ということ。年齢、性別、能力を理由にしては、辞めていく人も納得できないだろう。部門のリストラであれば、社員に説明はできると考えた。
貴子さんは、設計部門ごとリストラすると決めた。だが、過去のリストラ提案と思いは全く違った。社員たちの人生を大きく変えることになる。罵声を浴びるかもしれない。「もしかしたら、命の危険もあるかもしれない」。夜も眠れぬほど悩んだ。
「会社を守り抜く」 社長としての決意
設計部門には、保雄さんの死後、「俺たちが支えるから」と貴子さんに社長就任を懇願した社員もいた。まさに断腸の思いだった。「こんなにつらいのなら、いっそのこと、全部やめた方が楽かもしれない」とさえ思った。
だが、経営者という道を選んだ以上、ダイヤ精機を守り抜くことが一番の優先事項となった。設計部門の3人を1人ずつ社長室に呼び、会社の経営状況が悪く、設計部門を支えられなくなっていることを説明し、「大変申し訳ないけれど、お辞めいただきたい」と伝えた。
3人は一様に「ダイヤ精機には本当にお世話になりました。これまでありがとうございました」と承諾してくれた。もっと自分自身が痛めつけられるような思いをするのではないかと思っていたが、3人は恨み言を言うこともなく、会社を去っていった。
貴子さんは「私の状況を察しての判断だとは思うけれど、リストラを受け入れてくれたのは、父への感謝もあったのかもしれない。何よりもダイヤ精機を守るために、自分たちが身をひく決断をしてくれた。今でも感謝している」と振り返る。経営規模に対して「不相応」と考え、社長秘書と運転手もリストラすることにした。
残った社員たちの反発…「私のやり方でやる」
しかし、先代社長の保雄さんが避け続けたリストラを断行したことに、会社に残った社員たちは一斉に反発した。貴子さんを「支える」と言ってくれていた幹部社員も「てめえ、この野郎! 何てことをするんだ!」と怒鳴り、大げんかになった。貴子さんは保雄さんの娘であり、ダイヤ精機で勤務経験もあるとはいえ、主婦から社長に転身したばかり。古参の社員たちが反発するのも無理はなかった。
リストラ後、経費削減を進める中で、強烈な追い風も吹き始めた。主要取引先である日産自動車を率いていたカルロス・ゴーン氏が、同社の再建計画である「日産リバイバルプラン」を完了させ、新車投入など攻勢に転じたからだ。
ダイヤ精機の業績はV字回復した。貴子さんは就任2カ月で黒字化を達成。銀行に約束した「半年間での立て直し」を前倒しで成し遂げ、銀行が持ち込んだ他社との合併話も吹き飛ばした。
だが、収益基盤をより強固なものに変えていくには、さらなる社員の反発を招いてでも、会社を抜本的に変える必要があった。貴子さんが打ち出したのは「3年間の改革」。
1年目は「経営基盤の強化」、2年目は「チャレンジ」、3年目は「維持、継続、発展」に注力していく計画だった。
「私は私のやり方で経営していく」。それは貴子さんの決意表明でもあった。
第5章 失いたくない「町工場の活気」
「3年間の改革」と銘打った貴子さんは、1年目を「経営基盤の強化」にあて、2年目は「チャレンジ」、3年目には「維持・継続・発展」へと進む計画を描いた。「3年」にこだわったのは、経営改革にスピード感を持たせるため。加えて大学卒業後に入社したユニシアジェックス(現日立アステモ)時代の上司から、「『3』という数字は相手に印象として残りやすい」と教わっていたからだ。
1年目の2004年。その頃、主要取引先である日産自動車は、カルロス・ゴーン氏が再建計画「日産リバイバルプラン」を完了させ、新車投入など攻勢に転じ、受注は大幅に増えていた。
「受注急増は『神風』と言ってよかった。でも、そこに頼っていては何も変わらない。抜本的な改革で自分たちが変わる必要があった」。好不況の波に負けない会社に変えていく。そのためには、社員の意識改革が不可欠だった。
大手企業には、新人や管理職への研修制度が整備されているが、町工場はそうではない。このため、貴子さんが講師役となって社員研修を始めた。まずは「あいさつの徹底」。職人の多い町工場は、口数が少なく、あいさつのできない社員も多かった。
会議室に社員を集めて、「あいさつは人間関係の基本」と訴えたが、反応は鈍かった。「なんで、こんなことをさせられなければならないのだ」とあからさまに不満げな態度を取る社員もいた。
経営の悪化を食い止めるため、設計部門を部門ごとリストラしたばかりだった。父保雄さんが避け続けたリストラを断行したことで、社員の反感が研修への反発となって表れていた。「10分でいいから私の話を聞いて!」。社員が少しでも話を聞いてくれるよう、研修はできるだけ短く、要点だけをかいつまんで教えることを心がけた。
「製造業の5S」…変わり始めた社員
次に貴子さんが取り上げたのは、製造業の基本ともいえる整理、整頓、清掃、清潔、しつけの「5S」だ。なかでも整理・整頓の「2S」は、その根幹をなすものだ。
「整理、整頓の本当の意味を答えられる人はいますか」と問いかけるも、答えられる社員は皆無だった。「整理とは、要るものと要らないものを分けて、要らないものを捨てること。整頓は、要るものを使いやすく並べること。分かったらすぐに実行しましょう」
工場内で不要なものに貼るテープを社員に渡し、それを運び出す4トントラックも1台用意した。瞬く間に、トラックの荷台がいっぱいになった。雑然としていた廊下は通りやすくなり、工場も工具類がきちんと並ぶようになった。作業効率は大幅に上がり、材料や製品の運搬もしやすい。目に見える形で研修の成果が表れ始めると、「社長の話を聞いてみるか」と社員も変わり始めた。
こうした研修は、かつて勤務していたユニシアジェックスで教えられたものだった。「大手企業は研修だけでいいのかもしれないけれど、中小企業はそこに実践を加えないと浸透していかない」。大手企業のノウハウを、町工場流にアレンジして現場に落とし込む。研修と実践を繰り返した。
同時に組織改革にも着手した。父保雄さんの時代は、カリスマ的な魅力を持った創業者、保雄さんが会社を引っ張り、すべてがトップダウンだった。一方、2代目の貴子さんには、エンジニアとしての知識はあるものの、若く、経験も少ない。結婚後は主婦をしていたこともあって、大きなブランクがある。
「父と同じ経営はできない」と判断した貴子さんは、社員の意見を吸い上げるボトムアップ型の経営に力を注いだ。作業着を着て工場に入り、職人と一緒に時間を過ごす。トイレ掃除も行い、社員の変化を見つけては「髪を切ったんだね」と声をかける。とにかく社員とのコミュニケーションを心がけた。
分からないことがあれば聞いてまわり、社員であろうが取引先であろうが教えを請う。「若かったからできたことかもしれない」と話すが、会社を知るため、社員を知るためだった。
聞いておきたかった「父の経営理念」
経営方針も策定することにした。創業者の場合、自身の理念や作り出したい製品があって、それに共感した人たちが集まる。しかし、2代目となると、社員と経営者が進むべき方向を一致させる必要が出てくる。
中小企業で代替わりをした後、大手企業にいた2代目が事業を引き継いで、新規事業を立ち上げたものの、社員の反発を招いて頓挫するケースはよくある。2代目は、創業者についてきてくれた人を納得させる経営方針を掲げて、社員をまとめあげなければならない。
しかし、ここで貴子さんは途方に暮れる。ダイヤ精機で勤務していた時期はあったが、経営理念や経営方針について、生前の保雄さんと突っ込んだ話をしてこなかったのだ。それを探るために、社員から話を聞き、父が書き残したものからヒントを探った。社長1年目はあっという間に過ぎていったが、「社員から『社長の経営、だんだんと先代に似てきましたよ』と言われた時は心の底からうれしかった」
「チャレンジ」を掲げた2年目は、自社の強みを知るために「なぜ発注してくれるのか」を取引先に聞いて回った。そのやり取りの中から、高い技術力に加えて、取引先の要望にすばやく応える対応力の高さが評価されていることが見えてきた。それをきっかけに、IT化を他社に先駆けて推進し、先進的な生産管理システムも導入した。
3年目には、会社の「維持・継続・発展」のために、それまでバラバラだった仕事の仕方や流れを整理することにした。効率的な業務の進め方を「基準書」として文書にまとめて、社員の誰にでも伝わりやすくした。
その後、リーマン・ショックなどで資金繰りが一気に苦しくなった時期もあったが、経営の足腰が鍛えられたダイヤ精機は、貴子さんと社員の知恵と工夫で荒波を乗り越えてきた。
日本中につなげたい
貴子さんには原風景がある。子供の頃、ダイヤ精機の周辺には、たくさんの町工場があった。機械の音が聞こえ、そこで働く人たちは活気に満ちあふれ、未来への希望を持っていた。もちろんダイヤ精機の従業員もそんな「町工場の街」の住人だった。
貴子さんは今、時間があれば日本全国どこにでも赴いて、自身の体験を惜しみもなく披露している。父から渡されたバトンを今度は日本中のものづくり企業につなげることで、「自社だけでなく、日本のものづくりがもっともっと元気になって、かつての輝きを取り戻してほしい」と考えているからだ。
週刊エコノミスト2023年9月19・26日合併号掲載
諏訪貴子さんの場合