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経済・企業 ファミリービジネス奮闘記

本多プラス・本多孝充さんの場合

本多プラスの本多孝充社長 同社提供
本多プラスの本多孝充社長 同社提供

 愛知県新城市の「本多プラス」の本多孝充(たかみつ)社長(54)は、父親から引き継いだプラスチック成形会社を、「デザイン×ものづくり」の会社へと変貌させた。アートという「自分の好きなこと」を軸に会社を作り替え、コスメペン「ハイテックC リッシュ」や携帯用「アジパンダ」のようなデザイン性の高い製品で、下請けの多いプラスチック業界に新風を巻き起こしてきた本多さん。「きれいなものをつくりたい」。そんな思いに突き動かされるアートな経営者の歩みを追いかける。

 この記事は、毎日新聞グループが運営するファミリービジネス・メディア「リファラバ」編集部が取材したものです。リファラバは、地元に根ざしながら家族的な結びつきで運営されている会社をつなぎ、課題解決などを支援しています。随時掲載します。

 第1章 「でかい仕事を」 響いた伯父の言葉

 本多家は古くから奥三河の名家として知られた。戦前、みそやしょうゆの醸造業を継いだ祖父の正造さんは、田舎のでこぼこ道をT型フォードで走り回る、絵に描いたような御曹司だった。ところが、お家騒動の末、実家を追われて海外移住を決意。台湾に拠点を定めると、紅茶をしけらせずに輸送するため、内側をアルミ箔(はく)、外装はセロハンにした「プライニング包装」を発案し、一大事業に発展させた。

創業間もない頃の「本多セロファン工業所」。中央が本多孝充さんの祖父で創業者の正造さん 本多プラス提供
創業間もない頃の「本多セロファン工業所」。中央が本多孝充さんの祖父で創業者の正造さん 本多プラス提供

 敗戦後の混乱ですべてを失い、焼け野原になった日本に帰ってきた正造さんは、新城で、生涯三つ目の事業となる「本多セロファン工業所」(現在の本多プラス)を立ち上げて再起を遂げた。セロハンを巻き付けて透明な筆のサヤをつくる事業で、息子4人を育て上げた。

 息子たちも多才だった。浜松工業専門学校に進んだ長男の敬介さんは、超音波機器の本多電子(愛知県豊橋市)を創業。次男と三男は日本画家、グラフィックデザイナーになり、孝充さんの父である四男の克弘さんが家業を引き継いだ。

 1960年代に、筆サヤの製造にプラスチック成形技術を導入して機械化を進めると、本多プラスは80年代にナイロン製の修正液ボトルの量産に成功して業容を拡大。次男と三男だけでなく、長男の敬介さんや四男の克弘さんも、事業家でありながら、絵画をたしなむ芸術一家だった。

 そんな祖父母や父母、伯父たちに囲まれて育ったから、孝充さんにとって、事業もアートも身近な存在だったが、幼い頃は野生児そのものだった。

 目の前に広がる田んぼと山と川。泥まみれになってクワガタやザリガニを捕り、谷あいを流れる豊川で泳いだ。河原に隠してある釣りざおで魚を釣っては、その場で焼いて食べた。

 子ども心に思った。自分が今、豊川に投げ込んだ木片は、やがて海に流れ出るのだろう。この山の向こうには、浜松があって、その先には東京がある。広い世界を知りたい。そんな思いが宿っていた。

 アート家系の血が騒いだのかもしれない。高校時代はロックバンドに没頭した。好きだったのは、ロンドンを中心に活躍していた「ハノイ・ロックス」。激しいビートの中に流れる美しく繊細なメロディーに心を奪われた。

 髪の毛を緑やピンクに染め、ブラックジーンズとブーツで身を固めた。来る日も来る日も、朝から晩まで曲を考え、学校に行くふりをして豊橋のスタジオで練習に明け暮れた。いかつい風貌に見えたかもしれないが、自分の感覚が研ぎ澄まされて、一つ一つのメロディー、日々のささいな出来事に感動している自分がいた。今思えば「自分の感性で世界を体験しようとしていた」。その後も「アーティストとしての感性」が自分の軸になった。

 しかし、自分は本多プラスの後継ぎ。「どうせ会社を継ぐんだから、勉強なんてしなくていい」と面白がって見ていた豪快な性格の父克弘さんも、大学受験の時期が近づくと、「東京六大学には行ってくれ」と言い始めた。

 高校は進学校だったから、「ひょっとしたら受かるかもしれない」と思って受験したが、そう甘くはなかった。

「人生は絶対にバラ色」 漂うような青春の日々

 87年、東京の予備校に通うため上京した。予備校にはほとんど行かず、曲や歌詞を書きため、東京の繁華街や下町を歩き回った。自分はまだ何も手にしていないけれど、「人生は絶対にバラ色だ。絶対に成功する」と信じていた。高校の頃からあこがれていた青山や表参道の空気を吸い込むと、多感な19歳はそんな気持ちになれた。

 大きな夢を描きつつも、あてもなく漂うような青春の日々。行き場の見つからないエネルギーに軌道を与えてくれたのは、本多電子を経営する伯父の敬介さんだった。

 産業能率短大でマーケティングや財務経理を学んでいた孝充さんに「うちに来てカバン持ちをしろ。経営を教えてやる」と声をかけたのだ。バンド活動にのめり込み、家族と対立しそうになる孝充さんを「お前は面白い」と言って、いつも勇気づけてくれる存在だった。

「中小企業は一寸法師の針を持て」。それが敬介さんの持論だった。本多電子は超音波機器やソナーといった分野でオンリーワンの技術を持つ企業。超音波技術は今でこそ、医療機器や自動車、半導体、食品工業などで幅広く使われているが、当時は用途拡大を模索している途上で、本多電子はそのパイオニア的な存在だった。

 孝充さんが任されたのは、トヨタ自動車やホンダ、スズキ、デンソーと名だたる自動車産業各社への開拓営業。それまで電子部品や精密機器などの出荷時には、不燃性で使い勝手の良いフロンによる洗浄が一般的だったが、脱フロンの潮流の中、その代替として超音波で水や溶剤を振動させて洗浄する「超音波洗浄」を提案して回った。

 運転手として、敬介さんを講演会の会場に送り届けた時のこと。居並ぶ自動車産業各社の役員たちに、敬介さんが「自動車にもナビゲーションシステムの時代が来る」と言い切った。船舶は、ソナーや魚群探知機から発展して、ナビシステムが装備されるようになっていた。同じことが自動車でも必ず起こる。だから自動車もナビを標準装備とするようなフロントデザイン、ダッシュボードにしないといけないと説いた。

 中小企業であっても、優れた技術と先見性があれば、大企業より先を走っていける。規模が小さくても「世界に冠たる企業」になれる。敬介さんは、まさにそれを体現した経営者だった。そんな「闘い」の現場を垣間見て、素直に格好いいと感じた。

 本多電子で働いて3年。敬介さんの薫陶を受けつつも、英国に留学しようと思い立ったのは、自分には「何かが足りない」と考え始めたからだった。英国留学を経験し、ジュエリーアーティストとして身を立てつつあった姉の存在もあったし、ロンドンでもう一度ロックで勝負してみたい気持ちもあった。そして何より、もっと広い世界を見たかった。24歳だった。

英国で出会った仲間とMBA

 93年、英国の玄関口であるヒースロー空港に降り立ち、ロンドン近郊ケンブリッジに向かった。車窓に流れる緑の平原に緩やかな丘、点在する集落。そこここに馬や牛、羊の姿が見えた。せわしない日本とは全く異なる風景を眺めながら、「ここでなら自分は変われる。ここで何かを成し遂げないといけない」と感じた。まずは英語学校に通いながら、バンドメンバーを探した。

 大学の町であるケンブリッジには、世界中から学問やビジネスで身を立てようとする若者たちが集まっていた。ドイツやフランス、イタリア、ギリシャ、中東、アフリカ……。そんな国々からやって来た仲間たちと、カプチーノを飲みながら、政治や宗教、哲学について議論した。頭の中がぐちゃぐちゃになったが、刺激にあふれた環境にのめり込んだ。聞けば多くの仲間たちは、経営学修士(MBA)になるという。ならば自分も。渡英して1年、MBAを意識し始めた。

「申し込みだけ」と思って学校に行くと、インド人チューターが時間を取ってくれた。ロックバンドをやっていること、父親がプラスチック会社を、母方の実家はうどん店をそれぞれ経営していること、日本に帰国したらどれかを選ばないといけないことを説明した。「面白い。全部やれ」。予想もしない言葉が返ってきた。

 なんだ、この面白い世界は。1年間、英語の勉強に専念し、高難度の試験をクリアしてMBAコースに入学した。バンドでもう一度、自分を試すつもりで来た英国だったが、関心の赴くまま、人生の軌道が変わっていった。

伯父との別れ…… 「会社を継ごう」

本多孝充社長 本多プラス提供
本多孝充社長 本多プラス提供

 在学中に結婚式を挙げるため、一時帰国した時が、自分の良き理解者であり、経営者の格好良さに気づかせてくれた伯父、敬介さんと話した最後になった。隣の仲人席に座った敬介さんは上機嫌で、顔を目の前に寄せて、こう言った。「いいか、孝充、小さな仕事で満足するな。本多家の男だったら、でかい仕事をしろ」。これは一生で一度しか聞けない言葉だ──。そう直感した。

 実家が手掛ける修正液事業についての論文を締めくくりに2年間のMBAコースを終えた頃、敬介さんの訃報が届いた。自分の可能性を信じてくれた伯父。そのことを思って、その晩は星空のもと、酒を飲んだ。

 日本に帰国し、葬儀に参列すると、実家の本多プラスの営業幹部から「会社がまずいことになっている」と耳打ちされた。

 主力事業である修正液ボトル製造を一段と強化するため、さらなる投資を行うという。しかし、パソコンの普及や修正テープの登場で、修正液事業の将来は明るいとは思えなかった。

 MBA取得者としてロンドンで就職する道もあったが、帰国して会社を継ぐと決意した。ロックバンド、伯父の会社での修業、英国留学。遠回りしたかもしれないが、本多プラスのために働く時が来た。97年、本多プラスに入社した。まず目指すは、化粧品市場への参入だった。

 第2章 デザインの世界へ動く

 留学していた英国から帰国した本多孝充さん。1997年、本多プラスに入社して取締役経営企画室長兼営業本部長に就任し、経営全般を取り仕切ることになった。

 孝充さんは幼い頃から、家業がプラスチック会社であることに、ひっかかるものを感じていた。身近にたくさん使われているのに、石油から作られているから、人工的で何となく環境に良くなくて、安っぽくて使い捨てにされるイメージ。それが自分たち家族の生活を支えていることを、子ども心に違和感を覚えていた。

 一方で、プラスチックに可能性も感じていた。留学時代のクリスマス、ロンドンの老舗百貨店ハロッズのショーウインドーで、輝く香水のガラス瓶にくぎ付けになった。きれいな瓶ならば、使い捨てではなく、インテリアとしてずっと取っておきたくなる。

 プラスチックでも同じことができるはずだ。芸術一家に育ち、ロックに打ち込んだこと。伯父の敬介さんが残した「でかい仕事をしろ」という言葉。そして今、自分は家業のプラスチック会社を継ごうとしている。そのすべてが「きれいなものを作りたい」という一点で合流した。「生涯をかけてやるべきこと」を見つけたような気持ちになった。

「文化が違う」? ギャップ埋めるには

 最初のターゲットである化粧品市場に参入するためには、複雑で精度の高い製品を作れないといけない。まず必要なのは高度な金型と成形の技術だ。特に金型は職人技といわれ、外注すると、一つ何百万円もかかるし、月単位で時間を要する。そこで内製化を考えたが、古参社員からは「金型を甘く見るべきではない」と反対論が上がった。今思えば、若いからこそできたのかもしれない。意欲的な若手エンジニアを選抜して、一緒に金型の内製化に取り組んだ。

「オンリーワン」と思えるような技術を身につけ、取引先のツテをたどって、ようやく大手化粧品メーカーにプレゼンするチャンスをつかんだ。自信を持ってサンプルを手渡すと、担当者はけげんな顔をした。プラスチック業界は中小メーカーが大企業と取引する際、問屋を通すのが当たり前で、厳然としたヒエラルキーが存在していた。

 しかも本多プラスは、化粧品市場での実績はゼロ。「私たちとは文化が違う」。予想もしていない言葉が返ってきた。

 業界の構造はさておくとしても、「文化が違う」とはどういうことだろう。どうやら単なるボトルの形状の問題ではなく、持ったときの肌触りや質感、量感、素材感、置いた時のたたずまい、そうしたことを含めたデザインと品質の考え方に大きな隔たりがあるようだった。

 新城にいる限り、この壁はやぶれない──。ハロッズの前で誓った「きれいなものを作りたい」という目標に近づくためには、東京に移転すべきだと思い詰めた。新城にいては、デザインについて深い理解を得ることは難しいし、業界に人脈を築くことも、取引のきっかけをつかむこともできないだろう。

 思い切って社長の父克弘さんに提案すると苦笑いされた。実は、克弘さんも若い頃、東京移転を考えたことがあったが、会社を切り盛りしていた母親から「東京に行って成功しても何も偉くない。男ならここ新城でやらないとダメだ」と一刀両断にされて思い直したのだという。

「お前にも同じことを言う。とにかく他人(ひと)のやらないコトをやれ。まず、それを考えろ」。反発心が湧き起こってもおかしくない場面だったが、この言葉を聞いて孝充さんはむしろ、自分の考えがクリアになっていくのを感じた。

 田舎と東京、中小企業と大企業。それぞれの間にあるギャップを飛び越えるのが、3代目である自分の「仕事」なのではないか。デザイン×ものづくりで「きれいなものを作る」を突き詰めれば、二つのギャップを埋められるはずだ。自然に導かれた答えは、新城に本社と工場を置きながら、ずっとあこがれの場所だった東京の表参道に足がかりを築くことだった。

 グッチ、シャネル、ディオール、プラダ。日本発のヨウジヤマモト、イッセイミヤケ、コムデギャルソン……。学生時代、世界的なブランドが建ち並ぶ表参道の街を歩き、その空気を吸い込むだけでも、自分の感性が磨かれていくような気がしていた。

 プラスチック業界の東京支社といえば、新橋か浜松町が一般的だったが、「きれいなもの」を追求する自分の思いを理解してくれるのは、表参道に集まるデザイナーや大企業の商品開発担当者をおいてほかにいない。「自分のステージは表参道」。腹は決まった。ゼロからのスタートだったが、表参道の一角に小さなオフィスを開設した。

「愛知と表参道」 始まった往復生活

本多プラスの本多孝充社長 同社提供
本多プラスの本多孝充社長 同社提供

「今夜、時間ある? 紹介したい人がいるんだけど」「ぜひ行きます」。本当は新城にいるのに、都内にいるふりをして会食の約束を取り付けては、豊橋まで車を飛ばして新幹線に飛び乗る日々が始まった。デザイン業界にできた知人に友人の紹介を頼んでも、「あの人は東京の人じゃない」と思われてしまっては、次第に声がかからなくなり、出会いのチャンスを失ってしまうからだ。

 午後4時半過ぎの「ひかり」に乗り、品川駅に6時過ぎに到着。何食わぬ顔をして、表参道や西麻布の会場に登場する。名刺には、表参道に開設したオフィスの住所を一番上に書き、本社のある新城は下の方に記した。肩書は「クリエーティブディレクター」。自分は、ただの愛知のプラスチック屋ではない──。「愛知に工場も持っているデザイナー」になりきることで、この世界に入っていこうとした。

「え、プラスチックができるの? 金型も自分でやる人って初めて会った」と歓迎してくれる人もいたが、「田舎のプラスチック屋に何ができる」と見下す人も少なくなかった。オフィスにいるデザイナーの陣容を聞かれ、「僕一人です」と答えると、大手デザイン事務所の幹部から「それでクリエーティブディレクターを名乗るとは、バカにしている」と怒られたこともある。

 地元では、「本多プラスの後継ぎは東京にかぶれてしまった」「デザインだ、化粧品だと現実離れしている」と陰口をたたかれた。「大事にすべきものは、足元にあるのではないか」と、地元の団体や行事に参加しないことを暗に責める声も聞こえてきた。それでも孝充さんは、東京通いをやめなかった。デザインの世界に入り込み、まだ見ぬ理解者と出会うためには、それがどうしても必要だったからだ。

 支えたのは、父克弘さんだった。「地元のことは俺に任せろ。お前はお前のビジョンを突き詰めればいい」と背中を押し続けた。

「この指、止まれ」 新卒者を集めよう!

本多プラスが愛知県新城市で開いた新卒採用説明会(2005年)同社提供
本多プラスが愛知県新城市で開いた新卒採用説明会(2005年)同社提供

「あなたのビジョンは素晴らしい。しかし、それをかなえるためには、あなただけではムリだ。必要なのは新卒採用です」。ある日、業界紙に載った孝充さんの記事を見て、大手就職支援会社から電話がかかってきた。350万円を出せば、東京や大阪で、デザイナーの卵である美大生を新卒採用する催しを開けるという。

 最初はピンとこなかった。デザイナーを採用するなら経験豊富な中途の方がよいと思ったし、それまで設備投資以外で100万円以上の出費をしたことがなかった。出費を抑えるのは、中小メーカーにとって、おきてのようなものだ。それでも担当者の熱意に押されて、やってみることにした。

「デザイナー集まれ!」。全国の美大に広告を出すと、2000人もの応募が寄せられた。とはいえ、全国的には無名の本多プラス。表参道に小さなオフィスを構えてはいたものの、まだ何の実績もない。本当に優秀な新卒を採用できるかはまだ分からなかった。

 2004年5月の説明会当日、表参道の青学会館で、孝充さんはビジョンを熱っぽく語った。「僕は空にそびえ立つ大企業を作りたいわけではありません。自分で考え、自分で作り、自分で売るというモットーで、6畳一間でいいから、この表参道にオリジナルブランドの店を開きたい。そして世界に広げていきたい」。そしてこう続けた。「このビジョンに賛同してくれる人、この指、止まれ!」

 熱気が充満した会場で、デザイナーの卵たちはじっと耳を傾け、誰一人途中で席を立たなかった。参加者のほぼ全員が面接を希望してくれた。大阪と新城でも同様の説明会を開き、悩みながらもデザイナー志望の3人を選抜。2年後にさらに4人を採用した。

 今思えば、中途採用のデザイナーを集めていたら「本多プラスのデザイン」を確立することはできなかった。デザイナーたちが主導権を握り、本多プラスはそのデザインを形にする「下請け」のままだっただろう。

 チームはできた。この最初の7人がその後の躍進を支えていくことになる。

 第3章 「ゼロ」が「イチ」になった!

パイロットと本多プラスの協業で生まれた「ハイテックC リッシュ」。本多プラス提供
パイロットと本多プラスの協業で生まれた「ハイテックC リッシュ」。本多プラス提供

「君はすごく面白いことをやろうとしている」。こう声をかけてくれたのは、長く主力事業だった修正液ボトルで取引がある文具メーカー パイロットコーポレーションのグループ会社であるパイロットインキの事業部長だった。仕事に厳しい人で急に怒り出すこともあったが、商品企画に対する熱意と直感力、人間的な温かさを感じ、「学べることがあるかもしれない」と食らいついていた。

 ある日、パイロットの本社に呼ばれ、「全く新しいボールペンを作りたい。君にそのデザインをやってもらいたい」と提案された。まずは化粧品市場への参入を目指す自分に、なぜボールペンなのだろうと首をひねっていると、部長は「文具と化粧品の商品企画は似通っている。色を作ること、それを塗ることも一緒だ。だから君に任せたい」という。

 新製品「コスメペン」のプロデュースを任せてもらえる。思ってもみないチャンスだったが、一つ条件があった。パイロットと本多プラスでは知名度の点からバランスが取れない。だから、もう1社、どこかブランド力のある化粧品メーカーを加えて、3社のコラボ製品に仕立てたい。その化粧品メーカーを「本多君、君の力で連れてこい」というのだ。

「ムチャ言うなあ」というのが正直なところだったが、せっかくの飛躍の機会を逃すわけにはいかない。とっさに思い浮かんだのは、数年前のプレゼンで「文化が違う」と突き放された大手化粧品メーカーの担当者。何とか掛け合って、打ち合わせの会議を設定してもらった。

 中小メーカーの本多プラスが取り仕切るという異例の形で、異業種の大手2社を引き合わせた。感触は悪くなかったが、開発スケジュールで折り合えなかった。文具メーカーは当時、年間20以上もの新製品を開発するのに対し、化粧品メーカーは厳選して新製品開発を行う。あまりにスピード感が違うというのが理由だった。

「うちと君でやろう」 パイロットインキ部長の言葉

 帰り道、落胆しながら、事業部長と担当者、自分の3人で銀座にあるたばこ臭い喫茶店に入った。「困ったなあ。どうしようかなあ」。しばらくうなっていた部長が突然、「よし、うちと君でやろう。うん、それでいい。これも縁だ。やってみてくれ」と大声で言った。

 雲の上の存在だった大企業から、デザインを任された。ロンドンの老舗百貨店ハロッズの前で誓った「きれいなものを作りたい」という目標に初めて手が届いた。商品のコンセプトを詰めた上で、元大手化粧品メーカーのデザイナー、枩山博之さんに協力を仰いだ。枩山さんは表参道通いで知り合い、師匠と仰ぐ間柄だった。

 2006年、パイロットと本多プラス、枩山氏のコラボによるコスメペン「ハイテックC リッシュ」が発売され、店舗に掲げられたポスターには、パイロットに並んで本多プラスのロゴが入った。「ゼロ」が「イチ」になった。事業部長に「これは門出だ。この実績をもとにどんどん商品開発に励め」と言われて涙が出た。

 当時、プラスチック業界には、中小メーカーが大企業と取引する際、問屋を通すという鉄則があった。大企業と直接取引ができたとしても、厳然たるヒエラルキーの下、多くの場合は発注元である大企業の購買部門と仕入れ単価を10銭、20銭と削る交渉にエネルギーを費やすことになる。それがプラスチック業界の現実だ。

「リッシュ」は違う。大企業の商品企画部門とともに最初から作り上げた製品だ。「世界に通用するブランド」を目指す本多プラスにとって、大きな最初の一歩になった。

「デザインからアートへ」 ガラス工芸作家との出会い

 出会いと人脈を積み重ね、デザインの世界に足がかりを築いた本多プラス。とはいえ、「ボトル製造だけでなくデザインも」とうたう中小メーカーは少なくない。その中から抜け出す契機になったのは、現代ガラス工芸作家、青木美歌さんとの出会いだった。

 始まりは、新卒で採用したデザイナーの教育の一環として、東京・表参道のオフィスに近い複合文化施設「スパイラル」に立ち寄ったときのこと。美大の卒業展示で、青木さんの繊細な作品を見て驚いた。「これは本物のアーティストだ」。会場にあったカードに書かれたメールアドレスにメールを送った。自分もアートにひかれて育ってきたこと、今はプラスチック会社を経営しながら「きれいなもの」を追求していること。思いの丈を書いた。

 半年以上の準備期間を経て、08年、青木さんと本多プラスは、プラスチックで地球の水の循環を表現した作品展「光の雨 Shining Rain」を西麻布で開催した。

 空から降り注ぐ雨をイメージした巨大なシャンデリアは、700以上のパーツから作られ、一つ一つが宝石のようにキラキラと輝き、床には滑らかで透き通った水面が配置された。シャンデリアも水面もすべてプラスチック。ガラスに勝るとも劣らない美しさが表現されていた。家業であるプラスチックの可能性を解き放ち、「きれいなものを作る」という夢を形にできたような気がした。

 デザインの先にあるアートの世界に踏み込んだことは、本多プラスにとって大きな機会になった。アーティストと中小メーカーによる異例のコラボレーションは、さまざまなアーティストやデザイナー、大企業の商品開発担当者を引きつけ、「本多プラスはただのプラスチック会社ではない」「本多さんが実現したいのは、こういう世界なのか」と認知されることになったからだ。

「アジパンダ」誕生 広がった理解者たち

本多プラスがデザインと製造に関わった携帯用「アジパンダ」 同社提供
本多プラスがデザインと製造に関わった携帯用「アジパンダ」 同社提供

 そのうちの一人が大手食品メーカー、味の素の担当者だった。このつながりは、パンダをかたどった携帯用調味料入れ「アジパンダ」の企画として結実。デザイン力と企画力の高さを認められ、化粧品や薬品、日用品メーカーの商品開発部門から次々に声がかかるようになった。

 さらには、ファッションブランドのイッセイミヤケの店舗ディスプレーや、有名ミュージシャンのコンサートのステージディスプレーを次々に任された。

 東京・表参道に打って出て、手に入れた飛躍。もしも、あの時、新城に閉じこもる選択をしていたら。新幹線に飛び乗って東京に通う労を惜しんでいたら。たくさんのデザイナーやアーティスト、商品開発担当者たちと出会っていなかったら。そのどれが欠けても、今の姿はなかっただろう。

 奥三河のプラスチック会社だった本多プラスは、プラスチック業界の常識を打ち破って、「デザイン×ものづくり」の力で大企業から選ばれる存在に脱皮した。

 第4章 プラスチックの逆襲

廃プラで作ったギターを構える本多孝充社長 本多プラス提供
廃プラで作ったギターを構える本多孝充社長 本多プラス提供

 東京・表参道でゼロから始めた人脈作り、その出会いを生かして地道に磨いたデザイン力が、会社を大きく飛躍させた。

「お前たちは影武者なんだから、後ろに下がっていろ」。異色のプラスチック会社として頭角を現し始めた2000年ごろ、業界関係者からこんなふうに言われたことを覚えている。

 プラスチック会社は大半が下請けで、問屋や大企業から言われた通りの品質とコスト、納期で製品を納めていればいい。そんな意味だと受け取った。本多プラスはこうした業界の秩序から抜け出しつつあるものの、業界全体は今も大きくは変わらない。

何度も生まれ変わる プラスチックの「生涯」

 プラスチックは、レジ袋や各種容器だけでなく、家電、化繊の衣類や布団類、ソファやカーペットなどの家具・インテリア、建材、自動車、航空機──と用途が極めて広く、人々の生活と産業に欠かせない存在だ。しかし、使い捨てにされることが多く、海洋ゴミ問題がクローズアップされるのに伴って、「脱プラスチック」という逆風が強まっている。

 プラスチックは悪者──。これは、本多さんが幼い頃、家業に対して感じていた「安っぽくて使い捨て」という違和感に通じる。しかし、問題の一端はプラスチック会社の大半が下請けで、「とにかく安く」を求められる業界の構造に起因するのではないか。「とにかく安く」だからプラスチック製品の回収やリサイクルも進まない。

 本多さんが提唱するのは、プラスチックの「生涯設計」だ。プラスチックは数回のリサイクルが可能で、そのたびに新たな製品になる。その後、焼却される時にはコークスと同等の熱量を出すとされる。現在のように石油や灯油を直接燃やすエネルギーの利用法を改め、プラスチックをとことん再生利用した上で燃料にすれば資源の有効活用になる。

 何度も生まれ変わりながら、最期を迎える時にはエネルギー源として完全燃焼するプラスチック。こうした特性をきちんと生かせば、環境負荷を減らせるという考え方だ。

 生涯設計の確立には、レジ袋など使い捨てが前提の用途を大きく見直した上で、リサイクルの徹底が必須だ。再生品の使用とリサイクルコストを受け入れるためには、「とにかく安く」の業界の構造と意識を変えないといけない。

 もう一つ、使い捨てを減らすために、本多さんが考えているのは、ずっと手元に取っておきたくなるようなデザインの重要性だ。「デザインの力で壁を越える」。これこそが本多さんの描く「プラスチックの逆襲」だ。

自分の手で作る 「世界に冠たるブランド」

ameのティッシュケース 本多プラス提供
ameのティッシュケース 本多プラス提供

 本多プラスは、プラスチックの端材や再生品を使った小物ブランド「ame(アメ)」の本格展開を始めた。キラキラと輝くアクセサリーやコースター、器、箸置き……。

 ブランド名には、プラスチック原料を熱してドロドロの状態にした「アメ」と、地球の水循環を象徴する「雨」の意味を込めた。

 これまで培ってきたアートの蓄積を駆使して、プラスチックの美しさを前面に出し、ずっと脇役だったプラスチックを主役にする。逆風に見える脱プラスチックの潮流だが、本多さんにとっては「チャンスでしかない」。

 なぜなら、あまりに身近すぎて日の当たらない存在だったプラスチックに、ようやくスポットライトの当たるステージができたからだ。愛知・新城から東京・表参道に打って出て、「デザイン×ものづくり」という自分のステージをゼロから作ってきた本多さんは、向かい風が追い風に変わる瞬間を何度も目の当たりにしてきた。

「ame」は、ロックバンド、アート、プラスチックという自分が打ち込んできたものの合流点であるのと同時に、本多プラスが「世界に冠たるブランド企業」になるための第一歩でもある。世界中に人脈を作り、個展やプロモーションを展開して、自らの手でブランドに育てていく。

 30代の頃、新卒説明会で語りかけた「6畳一間でもいいから、自分たちで考え、作ったブランドショップを立ち上げる」という目標は、14年5月、「表参道ameショップ」として実現した。次の夢はロンドンの老舗百貨店ハロッズやリバティーのクリスマスショーウインドーを飾ることだ。

 仮に自分の代で実を結ばなくても、祖父母と両親がつないできた家業のバトンとして、「世界に冠たるブランド企業になる」という思いを次世代に引き継げればいい。

 もともとルイ・ヴィトンはトランクの製造職人だったし、バーバリーは布地の開発から始まった。笑われたっていい。恥ずかしがらずに高い目標を掲げ、地道に自分たちの「ならでは」を磨いていけば、プラスチック屋だって世界的なブランドになれないはずがない。

後継者はもっと「自分のやりたいこと」を

 売上高はこの20年間で5倍以上になり、経営者や後継者向けの講演会に呼ばれることも増えてきた。そこで気づいたのは、先代経営者の敷いたレールの延長線で会社を経営しようとして八方塞がりになる後継者、献身的なゆえに「自分のやりたいこと」を封印した結果、自らの可能性を狭めてしまう後継者が多いことだ。

 自分にとってはロックバンドであり、アートやデザインだったが、後継者はもっと「自分のやりたいこと」を追求してもいいはずだ。先代から引き継いだ本業の売り上げが「これしかない」ではなく、「こんなにある」と考えるようにすれば、最初はこじつけでもいいから、自分が本当に好きなことと家業を結びつける発想が生まれてくるのではないだろうか。

 本多プラスの「プラス」は、プラスチックの「プラス」ではない。プラス思考の「プラス」だ。ロゴマークには太陽と月をあしらい、日進月歩の意味を込めた。少しずつでもいいから、歩みを止めることなく自分の実現したい世界に近づいていく。諦めなければ道は開ける。そう信じている。


週刊エコノミスト2023年10月10・17日合併号掲載

ファミリービジネス奮闘記 本多孝充さんの場合

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