週刊エコノミスト Online ファミリービジネス奮闘記

ビューティアトリエグループ代表・郡司成江さんの場合

郡司成江さん
郡司成江さん

 人材は会社の宝。しかし何をどうすれば、より良い人材育成ができるのか。会社のミッションとビジョンを掲げれば「できあがり」ではなく、それを社内に浸透させ、社員一人一人の幸せと方向を合わせていく。宇都宮市を中心に美容室やエステサロンなど約20店を展開するビューティアトリエグループ代表の郡司成江さん(59)は、そんなファミリービジネスを実践している。「強くて温かい組織」ができるまでの郡司さんの歩みを追いかける。【清水憲司・毎日新聞経済部】

 第1章 実家へ戻るまでの回り道

 母親の田中千鶴さんが宇都宮市でビューティアトリエを創業したのは、「鉄腕アトム」のテレビ放送が始まった1963年。美容室を切り盛りする千鶴さんの帰宅は、高校の教員だった父親の操さんよりも遅かった。

 友達の家に行くと、お母さんが手作りしたお菓子が出てくるのに、うちは違う。たまに、もらい物のお菓子や果物があっても、美容室で働く「お姉さん」たちにあげてしまう。社員寮に遊びに行くと、美容師のお姉さんたちが千鶴さんのことを指して「ケチだよね」「厳しいよね」という声が聞こえてきた。

「夜遅くまで頑張って働いているのに文句ばっかり言われている」。子供心に割に合わないような気がして、小学生の頃の「将来の夢」は専業主婦だった。

 頑張れば頑張るほど楽しくなる。そのことを知ったのは、中学、高校で打ち込んだ陸上競技だった。人の陰に隠れるのではなく、自分のやりたいことを見つけて、頑張れる人になりたい。ビューティアトリエを継ごうとは思っていなかったけれど、大学は経営学部を選んだ。

10年後なりたい自分に…ロンドンへ

大学生時代の郡司さん 本人提供
大学生時代の郡司さん 本人提供

「メークさんになろう」。大学に入って見つけた「自分のやりたい」は、雑誌やファッションショーのモデルたちを美しく飾るメークの仕事だった。

 といっても、メークさんの仕事は大きく分けて二つある。お化粧をするメーキャップと、華やかな髪形をつくるヘアメーク。大学と並行して、専門学校に通ってメーキャップの技術は身につけたものの、ヘアメークは何となく学ぶ気が起きなかった。

 美容室の家に生まれたから、美容師になる大変さはよく知っていた。手はひどいあかぎれになるし、技術を身につけて一人前になるには何年もかかる。今とは違って、当時はヘアメークになる道筋といえば、美大で専門的な教育を受けるか、美容師として長く経験を積むかだった。「そんなことしてたら、私、いくつになっちゃうの」という思いが先に立っていた。

 ためらいが吹き飛んだのは、高名なヘアメークアーティストに相談に行ったときのことだ。「10年後、どんな仕事をしていたいの?」と聞かれ、「一流の仕事ができるようになっていたい」と答えた。「一流になりたいなら、どうしてヘアをやらないの。ヘアもメーキャップも両方できなきゃダメよ」

 たまたま入った本屋で、英国ロンドンの有名美容室ヴィダルサスーンの美容師学校を取り上げた雑誌を見つけた。ハサミを持ったことのない人でも10カ月で美容師になれると紹介されていた。「ここだ! 私の行くところ」。沸き立つ思いで実家に電話すると、母の千鶴さんが「すぐにでも行きなさい」と背中を押した。

「クビってことですか?」

留学時代の郡司さん 本人提供
留学時代の郡司さん 本人提供

 大学卒業後、23歳で渡ったロンドンでの生活は楽しいことだらけだった。最初は英語に不自由したものの、手先が器用だったからヘアカットの技術習得に苦労は感じなかった。世界的に活躍する美容師が間近にいて、流行に敏感な人たちが多いロンドンの空気を思い切り吸い込んだ。

 美容師になったのだから、いずれは実家の美容室を継ぐことになるかもしれない。何となくそう感じ始めていたが、学校修了後も英国にとどまり、ロンドンのヘアサロンで働き始めた。千鶴さんも、あまりに早く呼び戻してはかえって反発されるから、しばらくは自由にさせようと考えていたようだった。

「そろそろ日本に帰った方がいい」。渡英から2年半たったある日、サロンのオーナーから意外な言葉をかけられた。「クビってことですか?」。オーナーは首を振って「そうじゃない。ずっとロンドンにいてほしいけど、あなたはずっとここにいられる人じゃないでしょ」と告げられた。

恩師の助言「一番大変なところに帰りなさい」

 ロンドンでは、人気サロンでも午後6時には営業を終えて帰宅できる。それに対して、当時の日本は閉店後にカットの練習が始まるため、日付が変わるまで働くことがざらだった。ロンドンでの働き方に慣れてしまったら、日本には戻れなくなってしまう。

 ずっとロンドンにいたかったが、オーナーの心遣いは理解できた。

 それまでにも、東京の有名美容室から誘われたことがあったから、「東京で修業することにします」と言うと、再び意外な返事が返ってきた。「何を言っているの。若いのだから、一番大変なところに戻りなさい」と諭された。

「一番大変なところ」。それは、実家のビューティアトリエ。その頃には店舗数が増え、60人もの美容師を抱えるグループに成長していた。英国修業を終えた跡取り娘が実家に帰る。波乱が起きるのは、火を見るより明らかだった。

 第2章 跡取り娘の修業時代

 英国から帰国の日、「嫌なことがあったら、いつでも休みを取って、ロンドンにおいで」と送り出された。その時はまだ実感がわかなかったが、ビューティアトリエは複数の店舗を展開し、60人以上が働くグループに拡大していた。そこに跡取り娘が帰ったところで、うまくいくことばかりではない。そのことを見通していたようだった。

 ビューティアトリエに入社して、最初に任されたのは、自分と同世代の若い美容師たちにカット技術を教えることだった。得意なことから入れたことはありがたかったが、英国と日本では育成方法が全く違うことに戸惑った。

「時代遅れ」に見えた日本式サービス

ビューティアトリエが社内で開催したヘアショーで活躍する郡司さん 本人提供
ビューティアトリエが社内で開催したヘアショーで活躍する郡司さん 本人提供

 日本では、頭髪を植えた人形で練習するのが一般的なのに対し、英国は先輩のカットを一通り見たら、実際の人頭でトレーニングする。失敗すれば取り返しがつかないという緊張感が上達を早める。日本では一人前の美容師になるのに4年かかるといわれるが、英国は10カ月。郡司さんは英国流の育成方法を貫いた。

 違いはそれだけではなかった。英国では予約制・指名制が当たり前だった。お客さんと1対1の関係を築き、好みや髪質、人柄をよく知ってこそ、良いカウンセリングや接客ができる。指名されなければ、仕事がなくなるから、自分を磨こうとする気持ちが強くなる。

 それに対して、国内の多くの美容室がそうだったように、ビューティアトリエはお客さんが来た順に手の空いた美容師が担当するシステムだった。予約制・指名制より多くのお客さんをこなせる利点は理解できたが、時代遅れに見えて「このやり方は違うんじゃないかな」と訴えた。

「大嫌い」全否定のオーラ

 これまでの母千鶴さんのやり方を批判しているつもりはなかったが、「全否定」のオーラを感じ取った古株の美容師から「あんたなんか大嫌い」と面と向かって言われたこともあった。

 そんな娘の姿を見かねたのか、千鶴さんはちょうど開店準備中だった新店に郡司さんを配属。予約制・指名制で、しっかりしたカウンセリングも行う新しいタイプの店舗を目指した。

 のちにグループのトップ店になっていくが、成果が出るまで何年もかかった。「あの大理石は私たちの稼いだお金で買ったんだよね」。飲み会になると、豪華な内装を皮肉る声が聞こえてきた。社内が「社長派」と「郡司派」に二分される気配が生まれていた。

パリコレのヘアメークに抜てき

「東京に行こうか、ロンドンに帰ろうか」。帰国して数年。ロンドンでは最先端のカットに腕をふるっていたのに、実家の美容室では来る日も来る日も、バブル期に流行したワンレングスにソバージュばかり。27歳の郡司さんには、「一流のヘアメークになる」という夢が遠ざかる一方に感じられた。

 仕事がつまらない。なぜ実家に戻ってしまったんだろう。腐りかけていた時に、思ってもみなかったチャンスが舞い込んだ。

イタリア・ミラノで開催された海外コレクションでモデルの髪形をセットする郡司さん 本人提供
イタリア・ミラノで開催された海外コレクションでモデルの髪形をセットする郡司さん 本人提供

 世界最高峰のファッションショー、パリ・コレクションやミラノ・コレクションでヘアメークをやらせてもらえるという。国内の美容師の技術向上を図るため、日本の化粧品メーカーが立てた企画だった。一流のモデルを相手にするし、どんな服が披露されるのか、本番まで厳密な情報管理が求められるから、信頼できる美容室で働いていることが必須の条件だった。

 そして腕が確かで、英語が話せた方がよい。全国の候補者たちから選ばれたのが郡司さんだった。「いきなり夢がかなうの?」。最初は半信半疑だったが、それから約10年間、欧州の一流ヘアメークたちと一緒に仕事ができた。

 自分があの時、ロンドンに戻っていたら。そうでなくても、東京の美容室に転職していたら、このチャンスは巡ってこなかったかもしれない。実家に戻ったのは、一流のヘアメークになるには遠回りだと思っていたけれど、実は一番の近道だった。それまでの鬱屈した気持ちが吹き飛んだような気がした。

売り上げが伸びない

 パリコレでの仕事が、ビューティアトリエに新しい風を吹き込んだ。予約制・指名制のシステムも次第に定着してきたが、後継者としての悩みが消えたわけではなかった。

 いくら自分が技術を磨いても、店舗の売り上げがさっぱり伸びなかったのだ。「あの人の頑張りが足りないからだ」。自分は店長だから朝から晩まで店にいて、努力もしているし、腕も良い。それなのに業績が上がらないのは、きっと他の誰かのせいだ。そう思いたい気持ちが強かった。その半面、「裏では私、何て言われているんだろう」と不安も感じていた。

 美容室に離職はつきものだ。独立して自分の店を持つ。結婚や出産が区切りになる。そうしたケースが多いからだが、同僚となじめなかったり、目標を見失ったりして去って行く美容師もいる。「私、辞めようか迷っているんです」。そんな相談を受けて「もう少しやってみようよ」と答えてはみるものの、心の中では「自分も同じ気持ちだよ」とつぶやいていた。

 一緒に働いているのにチームワークができていない。だから、みんなも自分も幸せじゃない。突破口はなかなか見つからなかった。

「もしかして自分のせい?」

 転機が訪れたのは32歳の時。技術講習の講師役で東京から来ていた美容師との雑談で、「現場を離れてみたらいいんじゃない」と言われたのがきっかけだった。その同年代の美容師は、大きな美容室のリーダー役を任されていたが、たまに技術講師として派遣されて他の美容室を見て回るうちに、自分が置かれた立場を客観的に見られるようになり、リーダーとして何をすべきか、気づかされることが多かったという。

 ショックだった。店舗の売り上げが伸びず、社員たちの動きが悪いと感じたのも「もしかして私のせいなのか」と直感した。確かに、「自分が店を引っぱっていく」と気負うあまり、社員たちを信頼して任せるということをしてこなかった。自分でなんでも抱え込んだ結果、社員が意欲と能力を発揮できる機会を奪っていたのかもしれなかった。

 異業種の人たちとの勉強会といった用事をつくり、試しに店舗の開店から閉店までを社員たちに任せてみると、売り上げが伸び始めた。今まで見たことのなかったぐらいにキビキビと動き、自信を持ってお客さんに接する姿を目の当たりにして、「今までどうして、信頼して任せるということができなかったんだろう」と痛感した。

 もう一つ気づいたことがある。自分がカットしている時は、どうしても神経が手元に集中する。しかし、カットから離れて店舗を見渡すと、順番待ちでイライラしたり、パーマの間に手持ち無沙汰にしていたりするお客さんのことが目に入った。今までも分かっていたつもりだったが、店舗の隅々にまで目を配れているわけではなかったのだ。

ハサミを置いて気づいた「一番商品」

 自分の役割とは何なのだろう。「ハサミを置こう」と考えるようになった。カットで稼ぐことをやめるならば、自分は人材教育やマーケティング、マネジメントを学び、経営者としての役割を果たしていくほかない。

 ずっと自分の腕を頼みにしてきたから迷いはあった。でも、「それが私の仕事」と思い切ることで、「お客さんに一番近いのは、社員のみんな。お客さんを喜ばせることは、私にはできない仕事だから一生懸命やってほしい」と自然に言えるようになった。

「ビューティアトリエの一番商品はあなた」。社員の力を伸ばして、会社も伸びる経営。大きくかじを切ることになった。

 第3章 母との対立が教えてくれたこと

「ビューティアトリエの一番商品は社員たち」。それは、創業者で母親の田中千鶴さんが創業以来、ずっと言っていたことだった。その考えは全く同じだったが、人材育成をどう進めていくか、具体的な部分になると、対立することも少なくなかった。

 先輩の言うことを聞き、何年もの修業を経て、カットもパーマも着付けも接客も、すべてが完璧にできるようになって、ようやく「一人前の美容師」という千鶴さんの考え方は、時代に合っていない気がした。

「あなたは甘い」母との違い

 誰にでも向き、不向きはあるのだから、すべてをこなせるようにするよりも、その人の得意な部分を伸ばしていく。例えば、カットはあまり上手でなくても、ネイルサロンで能力を発揮する人材、何か新しいことを始めるのが得意な人材もいる。社員一人一人が活躍できる「場」を作るのが、会社の本当の役割なのではないかと考えた。

 それに、昭和の頃とは家庭や地域での教育も異なるから、厳しく接して鍛えようとしても、自分で考え、自分で動ける人材は育たないし、若い人たちが自分らしい人生を歩めるようにはならないだろう。

「あなたは社員を怒らない。甘いのよ」「怒ったって人は育たない。今は時代が違うでしょ」。千鶴さんとの言い合いは日常の出来事だった。

「引く必要はない」父の助言

郡司成江さんの父、操さん 郡司さん提供
郡司成江さんの父、操さん 郡司さん提供

「ビジネスは闘いだ。お前が自分の考えは正しい、きっと未来はこうなると思うんだったら、母さんに対してだって引く必要はない」

 アドバイスしてくれたのは、高校教諭を辞め、エステサロンを創業して経営者になっていた父親の操さんだった。「自分で闘って勝ち取るしかない。それは親不孝でもなんでもない」。そう言い切る操さんが一番の相談相手であり、心の支えになった。

 ビューティアトリエを継ぐ。はっきり決意したのは、30代になり、徐々に新たな店舗建設を主導するようになってからだ。店舗建設にかかる費用は、金融機関からの長期借り入れで賄う。その契約書に今サインするのは、社長である母親だが、長い時間をかけて返済していくのは、後継者である自分の責任になる。

 だから、妥協はできない。自分のイメージ通りの設計、設備、内装を調えるために自らデザイナーを探し、一つ一つ詰めていく。しかし、積み重ねた時間も経験も異なる千鶴さんとは、ここでも意見が食い違うことが多かった。

 33歳のある日、千鶴さんに「この借金を返すのは私です。だから、私がやりたいようにやらせてほしい」とはっきり頼んだ。それでも、ビューティアトリエを一から起業し、創業者らしくリスクに敏感で完璧主義者でもある千鶴さんは、まだ社長を譲る気持ちにはならなかった。

先代との食い違いは「ありがたいこと」

 自分が手掛けた店舗の売り上げがグループの上位を占め、自分が育てた社員が会社の屋台骨を支えるようになった。千鶴さんも毎年12月31日には「来年は社長を譲るわね」と言うものの、なかなか「その日」は来なかった。

 40代半ばになって、いよいよ本気で千鶴さんと向き合った。「私の年齢も考えてほしい。60歳近くになって会社を継いでも、もう社長なんてできない。私を後継者と考えているなら、会社を譲ってほしい」。怒られるかと思ったが、千鶴さんはあっさり「そうね」と答え、数カ月後には正式に社長を退任し、会長に退いた。

郡司成江さん
郡司成江さん

 ファミリービジネスには、代替わりの難しさが付きまとう。親子だからこそ、正面切って話しづらかったり、逆に「いつでも話せる」と結論を先送りするうちに長い時間がたってしまったりする。他人同士だったら起きるはずのないほどの深い感情のもつれに発展することもある一方で、あっさりと打ち解ける瞬間が訪れることもある。

 約10年間、千鶴さんは郡司さんの覚悟と力量を見極めようとしていたのかもしれない。郡司さんは、千鶴さんと考え方が食い違って苦しんだ時期について、こう考えるようになった。

「私のために、私とは違う意見を言ってくれていた。それでうまくいく部分、うまくいかない部分も含めて、先代経営者のやり方を見せてくれるからこそ、これからは『もっとこうした方がよい』と自分が気づくことができる。そう考えれば、やり方や考え方の違いはむしろ『ありがたいこと』になる」

 先代経営者との関係で悩むファミリービジネスの後継者たちにあてた、郡司さんからのメッセージでもある。

 第4章 「強くて温かい組織」をつくろう

「ビューティアトリエの一番商品は社員です」。2010年、46歳で社長に就任した郡司さんは、母親で創業者の田中千鶴さんから、この理念を受け継ぎ、「人財」の育成を経営の根幹に据えてきた。

社員が輝くから会社も輝く

 他にも選択肢のある中から、ビューティアトリエの美容室を選んで来てくれるお客さんに、日々接するのは現場の社員たち。その社員たちが志高く、のびのびと働き、それぞれの人生を輝かせてこそ、会社も輝いていく。

 社員それぞれの良さを伸ばし、生かせるような会社にしていくことが、経営者である自分の役割だと考えている。

 時代に合わせて、社員たちの活躍の場をつくるには、先代から受け継いだ事業だけにとどまってはいられない。美容市場も高齢化で縮小していくのが避けられない中で、常に新しい領域に挑戦していかなくては、未来は見えてこない。

 将来を見据えて、郡司さんがキーワードにしたのが、美容室やエステが提供する外面の美しさだけではなく、「健康」という体の内面の美しさと、「心の充実」という精神面の美しさを養う「三面美養」。そう掲げることで、将来に向けて会社が取り組むべき事業領域は、食や運動、カルチャースクール、コミュニティースペースの運営などと大きく広がった。

「ビューティアトリエはもう美容室じゃない」。郡司さんは自社の変革に乗り出している。

「三面美養」は社員の健康から

ビューティアトリエ本店敷地内にあるカフェ
ビューティアトリエ本店敷地内にあるカフェ

 お客さんに「三面美養」を提供する会社になるためには、まず社員たちが健康でなくてはいけない。その一端が表れているのが、ビューティアトリエ本店敷地内にあるカフェ。社員たちのお弁当をつくり、各店舗に届けるために誕生した。

 かつては、お客さんが差し入れてくれるお菓子で食事を済ませてしまう若い美容師が少なくなかった。しかし、それでは栄養バランスが崩れて、心身に悪影響を及ぼし、時には離職につながることもある

 そこで、各店舗に炊飯器と白米を配り、社員たちにきちんとご飯を食べさせないと店長が注意を受けるという仕組みを導入。それをさらに進めて、社員食堂代わりのカフェを設置し、一般の利用客にも開放している。

 農業との関わりを持ったのも考え方は同じ。社員たちが土に触れ、食べ物のありがたみを感じられるように、近隣の農地を借りた農業体験が始まりだった。野菜を育てることの面白さを知った社員たちが栽培量を増やし、時期によっては自社で運営するコミュニティースペースで、雑貨や各地の食料品などとともに販売するようになった。

事業領域拡大で社員にチャンスを

 2021年秋には、米粉のバウムクーヘン専門店「バウムハウス樹凜(じゅりん)」(栃木県大田原市)の事業を承継。畑違いの業界だったものの、米粉を使ったスイーツであれば「三面美養」の考え方にも合い、地元で愛されてきた商品を残すことができる。

 そして、何より社員たちのキャリアを広げられると考えたからだった。

 美容師としての腕を磨いていくという選択肢だけでなく、スイーツの製造販売を手伝ったり、マネジメントを学んだりすることで、社員たちがさまざまな気づきを得て、自分の可能性を広げていく。

 そうした社員たちが社長の「右腕」となる人材として、今後も本業を支え、新規事業に乗り出していく力になる。そんな循環をつくっていこうとしている。

社員のための「未来デザイン図」

 ビューティアトリエの経営方針書「未来を創る魔法の書」には、郡司さんが自らの経験からつかみ取った経営手法のエッセンスが詰まっている。

ビューティアトリエの経営方針書の一部
ビューティアトリエの経営方針書の一部

 例えば、長期事業構想は「社員の未来像」「組織の未来像」「事業の未来像」の三つから成り立っている。また、社員たちが1年後、どうなっていたいかを書き出し、そこに向かって日々をどう過ごしていくかを記す「未来デザイン図」のページが置かれている。

 入社以降、どんな技能を身につければ、スタイリストから店長や会社幹部に、あるいは新規事業責任者になれるか、が明示されている。

 会社のビジョンや経営方針書というと、会社の上層部が社内に浸透させようとするものの、現場が理解できないまま、神棚にまつられてしまうケースが多くあるが、「魔法の書」は会社や経営者のためだけではなく、「社員一人一人のため」を意図してつくられている。そのことが「魔法の書」の構成からも読み取れる。

 後半には、「会社とは」「利益とは」と郡司さんが社員たちに問いかけるページが展開される。そこでは、会社とは「人が幸せになるためにある」、利益とは「社員を守るため、会社存続のための費用。社員の創造性の総和であり、全社員で達成すべきもの」と説明されている。

強くて温かい組織の先にある「みんなの幸せ」

 かつては郡司さんも「みんなで頑張って利益を出そう」と言いづらかった。社員たちから「上司や社長の給料が上がるだけ」と思われないか心配だったからだ。

 しかし、一つ一つかみくだいて語りかけることで、お互いの不安と不満が消えていく。そうした積み重ねが、郡司さんの実践する「強くて温かい組織」への道筋だ。

 郡司さんの著書『人財育成の教科書 理想のメンバーを育む』の一節は以下の通り。

「組織の宝は『人』です。でも、はじめから人の育成がうまくいくことは、ほとんどありません。思うようにいかず、葛藤することの連続です。それでも、真摯(しんし)に向き合ったその先には、社員のしあわせ、経営者のしあわせ、そして会社の大きな発展が待っています」


週刊エコノミスト2023年11月21・28日合併号掲載

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