みやじ豚社長・宮治勇輔さんの場合
湘南・藤沢の地に、農業をこれまでの「きつい」「きたない」「危険」の3Kから、「かっこよくて・感動があって・稼げる」の新3Kにしたいと奮闘している経営者がいる。みやじ豚社長の宮治勇輔さん(45)は、父昌義さんから事業を引き継ぎ、弟大輔さんとともに養豚業を営んでいる。宮治さんは養豚業を法人化し、ミシュランの星付きレストランで、みやじ豚を使ったメニューとして提供されるほどのブランド豚に育て上げた。そんな宮治さんの挑戦の記録を報告する。(永井大介・毎日みらい創造ラボ事業プロデューサー)
この記事は、毎日新聞グループが運営するファミリービジネス・メディア「リファラバ」編集部が取材したものです。リファラバは、地元に根ざしながら家族的な結びつきで運営されている会社をつなぎ、課題解決などを支援しています。随時掲載します。
第1章 起業家になりたい
湘南の海からの風が流れ込む神奈川県藤沢市北部。湘南といっても、一般的にイメージされるような海沿いの風景はなく、どこまでも田園風景が広がる地域だ。勇輔さんはこの地の農家の4代目として生まれた。
「家のはす向かいにある本家は江戸時代からの農家でした」。養豚業は野菜農家だった祖父が始め、父昌義さんの代で専業となった。ここ神奈川県中央部は養豚が盛んな地域。昌義さんは周囲の4軒の農家と共同で大きな養豚場を経営する傍ら、個人で小さな養豚業を営んでいた。
勇輔さん本人は養豚業を継ぐつもりは一切なかった。「家に帰ってきたおやじはなんだか臭い。この仕事はやりたくない、もっと格好の良い仕事がしたいと思っていた」。大学は慶応大学総合政策学部で人事組織について学んだ。
30歳までに会社を立ち上げることを決意した勇輔さん。大学生だった1990年代後半から2000年代前半は、ソフトバンクの孫正義氏、楽天の三木谷浩史氏、ライブドアの堀江貴文氏ら、若手経営者が率いるIT企業が急成長していた時代だった。
「いつかは自分もそんな若手経営者と肩を並べる存在になる」。そのためには会社を立ち上げる仲間が必要と考え、就職活動ではベンチャー企業の入社試験ばかりを受けていた。結局、就職先は大手人材派遣会社の「パソナ」を選んだが、当時のパソナは起業家マインドを持った人たちが多く集まる企業だった。
02年。社会人1年目は午前8時出社だったため、毎朝4時半に起きて起業に向け、ビジネス書を読み込んだ。2年目になると午前9時出社になり、起きる時間は朝5時半になったが、土日は起業志望者が集う場に出向き、ともに会社を立ち上げる仲間を求めてネットワーク作りに励んだ。
勉強のための本を求めて本屋に通い、自分の琴線に触れる本を選んでいくうちに、気がつけば手元にある本は農業に関するものが多くなっていた。当時、旧来通りのやり方をしている農家が多かった。「新たな仕組みを作り上げることができれば、成功する確率は高いのではないか」。次第に養豚業を継ぎたいと思い始めた。
オレが農業を変える 新3Kという啓示
朝の勉強時間には、ストップウオッチを用意し、5分間で自分がやりたいことを書き出していた。最初は「ロマネコンティが飲みたい、フェラーリに乗りたいと、ろくなことが書けなかった」。だが、ある日、「3Kと言われる農業を『きつい』『きたない』『危険』から、『かっこよくて』『感動があって』『稼げる』にオレが変えていく」という言葉を書き殴った。それは、まるで「神の啓示のようだった」。
正月休みに1人暮らし先から実家に戻り、昌義さんに自分のビジョンを熱く語った。最初は「お前の言っていることは地に足が着いていない」「理想論だ」と取り合ってくれなかったが、夏休み、正月休みと帰省のたびに何度も説得した。「これからの農業は生産からお客さんの口に届けるところまで、一貫してプロデュースするのが農業なんだ。オレがCEO(最高経営責任者)をやるから、おやじはCOO(最高執行責任者)になってくれ」
「そんなに言うのなら、一度やってみればいい」。昌義さんの了解を取り付け、養豚業を継ぐことになった勇輔さん。4年3カ月勤務した会社を退職して、06年9月、それまで昌義さんが個人で経営していた養豚業を引き継いで法人化した。一国一城のあるじとして新たなイノベーションを起こす。強い思いを胸に、勇輔さんは養豚業界に乗り込んだ。
第2章 どう届けるか「みやじ豚」
父昌義さんの了承を得て養豚業を引き継ぐことになった勇輔さん。
当時、大手人材派遣会社パソナに勤務していた勇輔さんは、退職準備を進めながら事業構想を練っていた。以前からある、地域の「銘柄豚」という枠組みを脱し、自ら育てた豚を「みやじ豚」として一本立ちさせたいと考えるようになった。
そう思い至ったのには、理由がある。大学2年生の頃、実家の豚肉を使って、自宅の庭でバーベキューをしたことがあった。集まったのは大学の野球サークルの仲間たちだ。
「こんなにおいしい豚肉、食べたことがない」。感激しながら、豚肉を次々と口に運ぶ友人を見て、「ウチの豚肉ってそんなにおいしかったんだ」と初めて気づかされた。
しかし、「どうすれば手に入るの?」と聞かれて、頭が真っ白になった。「どこで買えるのだろう」。それまで考えたこともなかった。家族に尋ねたものの、父昌義さんでさえ説明できなかった。
自分の家で育てているのに、味も分からなければ、どこで売っているのかも分からない。勇輔さんに強烈な印象を残した。
「銘柄豚」の制約… ブランド化するには
通常、豚肉は地域の銘柄豚として出荷される場合、周辺の農家の豚に混じってスーパーの店頭に並ぶことになる。生産した養豚農家の名前は消され、生産農家でさえも、スーパーで売っている豚肉の切り身が自分の育てた豚かどうかは分からない。
そこに養豚農家の大きなジレンマがあった。ある程度の流通量を維持するために、地域の銘柄豚としてまとめた上で店頭に並べる。豚の血統もエサもそろえて育てているが、どうしても農家によって味の違いが生じてしまう。
いつもおいしい豚を育てられる農家があれば、そこに注文が集中してしまい、銘柄豚としての流通は成り立たなくなってしまう。多くの生産農家を守るための仕組みだが、同時に自分たちが育てた豚なのに、誰が食べてくれているのかさえも分からない状況になっていた。
勇輔さんは子供の頃、父昌義さんが「オレが一番良い豚を育てているのに」とこぼしていたのを覚えている。自分たちが育てた豚肉を食べたお客さんが「おいしい」と言ってくれているかも分からないし、褒められもしない。それでは仕事のやりがいは得られない。
「みやじ豚」を独立したブランドにするためには、まずはお客さんに食べてもらわないといけない。「実家を継いだらバーベキューを定期的に開催しよう」。そんな構想を盛り込みながら事業計画書を作成した。
第3章 流通革新で養豚業の課題解決
2005年7月に神奈川県藤沢市の実家に戻ると、バーベキューを開催する準備に入った。といっても、トングや鉄板の準備をしたわけではない。向かった先は、パソコンショップだった。そこで2万円の名刺管理ソフトとメール一斉配信ソフトを購入した。実家に戻って初めて行った事業への投資だった。
実家に戻る前、人材派遣大手パソナに勤務していた頃から、起業志向が強かった勇輔さん。平日は早朝から起業のために勉強し、土日は実践型インターンシップなどを提供するNPO法人「エティック」に出入りし、起業志望者の人脈を広げていた。
こうしたネットワーク作りで交換した名刺や、友人の名刺を名刺管理ソフトに登録すると、850人分の見込み客リストができあがった。自身の近況とバーベキュー開催を伝える文章を添えたメールを一斉配信で送った。
「皆さんお久しぶりです! 僕は会社を辞めて実家に帰り、親父の跡をついで養豚農家になりました。1次産業をカッコよくて感動があって稼げる3K産業にしていきたいと思っていますので、ぜひ応援してください! 秋にバーベキューをやるので良かったら、うちの豚肉食べに来てください!」
1回目のバーベキューには約30人が集まった。月1回のペースで行ったバーベキューは、3回目には参加者が60人を超えた。丹精込めて育てた豚肉をおいしそうに食べるお客さんをみて、父昌義さんもうれしそうだった。バーベキューで提供されるみやじ豚のおいしさは口コミで広がった。
翌年には「株式会社みやじ豚」を設立、バーベキュー予約サイトも立ち上げた。新型コロナウイルスの流行で中止していた時期もあったが、現在は再開し、大人1人3時間5000円の価格設定で盛況を取り戻している。
家族の信頼関係が生む生産・販売分業
宮治家の養豚は分業制だ。勇輔さんが販売戦略とマーケティング戦略を担い、弟大輔さんと父昌義さんが豚の飼育を担当する。生産頭数は月約100頭で、従業員は宮治家以外では正社員1人にパート2人。勇輔さんは「零細養豚農家です」と話すが、味には絶対の自信を持っている。
血統は3種類の品種を良いところを掛け合わせた「三元豚」を使用。ただ品種を掛け合わせるだけでなく、おいしい豚肉になるように交配の際に親豚を徹底的に吟味する。さらに、エサにも徹底的にこだわりを持っている。
また、狭い豚舎に豚をすし詰め状態で育てることが多いが、みやじ豚では兄弟の豚を一つのグループにして、ゆったりとした小屋で育てることで豚にストレスがかからない育て方にも取り組んでいる。その結果、うまみ成分であるグルタミン酸の含有量は、一般的な国産豚の2倍もあり、脂身も甘く、生活習慣病を防ぐオレイン酸の含有量の多い豚が育つことになる。
みやじ豚は、その味が評価され、08年には農林水産大臣賞を受賞した。
流通逆転 売ってから仕入れる
月に1回のバーベキューと同時に、流通のイノベーションにも取り組んだ。出荷された豚は、同県厚木市の食肉処理場に運ばれて枝肉となるが、宮治さんはここに出入りしている問屋に着目した。
「二十数社あった問屋のリストを入手し、ウチの豚を『みやじ豚』として売り出してくれないか、直接アプローチしました。最初は、そうは問屋がおろしてくれませんでした」。従来の商流を壊したくない多くの問屋が、この提案に否定的だったのだ。
しかし、インターネットの普及に伴い、生産者と消費者が直接の接点を持てるようになり、経済誌には「問屋不要論」の見出しが躍った。こうした危機感から、提案を受け入れる問屋も現れ始めた。
新たな流通は、こんな具合だ。まず問屋に枝肉を販売し、ストックしておいてもらう。飲食店や個人客から「ロース2本、バラ2枚」といった注文を受けた段階で、問屋から買い戻し、みやじ豚として注文先に発送する。
仮に、注文が集まらない時期があっても、問屋からそのまま銘柄豚として通常の豚肉の流通に乗せてもらえばよく、自らは売れ残りのリスクを負わない。「仕入れてから売るのではなく、売ってから仕入れる。この仕組みで肉の職人さんを雇わず、自前の販売店も作らず、ノーリスクでみやじ豚を販売できるようになりました」
第4章 農家の後進を応援したい
農協を通じて問屋に枝肉を納品し、飲食店などから注文を受けた段階で、問屋から買い戻す新たな手法を構築した流通イノベーション。バーベキューを定期開催してみやじ豚を実際に食べてもらい、口コミやネット交流サービス(SNS)を通じてファンを増やしていくファンマーケティング──。しかし、こうした革新の礎になったのは、本家から数えれば江戸時代から続く宮治家の農業だ。
代々の土地で、続く家族経営。規模の拡大を望んできたわけではない。父が挑戦してきたおいしい豚肉作りを弟の大輔さんが引き継ぎ、勇輔さんが担ったのは、その生産物から最大の効果が得られるようにする仕組み作りだった。みやじ豚は、兄弟が継いでから3年で売り上げが5倍に伸びた。
日本の農業人口は減少の一途をたどっている。農業を主な仕事とする「基幹的農業従事者」は2020年に約136万人。5年前に比べて40万人近くも減少した。若者の新規就農は増えてはいるものの、都会で農地を持たずに育った人が農地を借りようとしても、貸してくれる人を探すだけで壁にぶつかる。
だからこそ、「農業に興味があれば、農家の小せがれが実家に戻って農業を継ぐ。これほど合理的なことはない」と勇輔さんは力説する。会社を辞めて実家に戻った時も「家賃がタダで、食費もかからなかった。何よりも土地があった」。
「みやじ豚」を経営する傍ら、農業を継ぐかどうか悩んでいたり、継いだとしてもどう進めるべきか迷っていたりする若者を応援するNPO法人「農家のこせがれネットワーク」を09年に立ち上げた。農家の後継者や後継候補者が集まる交流会を全国各地で開催し、勉強会や農業体験ツアーなども行っている。
継いでからが自分の人生 家族・地域への決意
さらに、支援を必要とする後継者は農業だけではないと考え、17年に「家業イノベーション・ラボ」を立ち上げた。すべての産業の後継者を応援すべく、時間を見つけては、講演などで全国を飛び回ってきた。
後継者にとっての原風景である家業。勇輔さんは「家業には、自分の情熱のすべてを注ぐだけの価値がある」と断言する。「家族や地域とのつながり、自分自身を形作ってきたものが、そこにはある。家業後継者にとっては、継いでから自分の人生が始まる。そんなふうに言えるかもしれません」
週刊エコノミスト2024年1月9日・16日合併号掲載
ファミリービジネス奮闘記 宮治勇輔さんの場合