前掛け専門店エニシング社長・西村和弘さんの場合
世界的人気の映画シリーズ「007」に、日本伝統の前掛けが衣装として使われた。この前掛けを作ったのは、大手菓子メーカーの営業マンだった西村和弘さん(50)が脱サラして起業した前掛け専門店「エニシング」(東京都港区)。Tシャツの企画販売からスタートした西村さんが、市場規模が大きいとは言えない前掛けに目を向けたのは、なぜだったのか。今では海外40カ国以上に前掛けを販売するエニシングと西村さんの歩みを追いかける。(清水憲司・毎日新聞経済部)
第1章 怖い方の道を選択する
2021年10月、エニシングのもとに海外から大量の注文が入り始めた。米国、フランス、英国、ドイツ……。日本では、その前日に公開されたばかりの「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」で、主人公ジェームズ・ボンドと同じく英情報局に所属する登場人物「Q」が、富士山の絵柄と「日本代表 帆前掛」の文字の入った前掛けを身につけていたのだ。
とはいえ、スクリーンに映し出されたのは、ほんのワンシーン。ところが、用意していた300枚は10日間ほどで売り切れ、最終的に4倍もの注文が入った。
海外からどうやってエニシングの存在を知ったのだろう。世界中にいる「007」の熱狂的なファンたちは最新作が出るたびに、登場人物が身につける衣装や小物が、どこで手に入るのかインターネットで情報交換している。そうして多くのファンがエニシングにたどりついた。
この幸運は偶然やってきたわけではない。日本伝統の前掛けを世界に広めたいと、海外展開に挑戦し始めて20年近く。こつこつと販売先を開拓し、ロンドンのファッション雑貨店に置かれたエニシングの前掛けが、スタッフの目に留まったのだ。
地道にまいてきた種が一つ、芽吹いた。「運と縁」。社名には「縁(えにし)」の意味も持たせている。
家訓は「鶏口牛後」
1973年、広島の起業家一家に生まれた。曽祖父は戦前、県内有数のパン工場を立ち上げ、父親は大手電機メーカーを経て工務店を創業した。長男だったから、普通なら「工務店を継げ」となるところだが、「お前も何か自分で始めろ」と言われて育った。父親の口癖は「鶏口牛後」。組織の歯車になるのではなく、自分が先頭に立って物事を動かす方が、実り豊かな人生になるという教えだった。
海外に打って出たいという思いは、中学生の頃にホームステイした米西部カリフォルニアの自由な雰囲気にあこがれたことが大きい。みんながTシャツ短パン姿で、生き生きと暮らしていた。周囲からどう見られるか。そんなことばかりが気になる日本という枠に収まりたくないという気持ちが育っていった。
大学で貿易実務やマーケティングを学び、念願だった米国留学も果たした。96年、江崎グリコに入社し、将来の起業に向けしばらく経験を積もうと考えた。
配属されたのは、大手スーパー本部のバイヤー(仕入れ担当者)に自社製品を売り込む東京の営業部。契約が一つ決まれば売り上げは大きく増えるから、競合メーカーもエースを投入してくる主戦場だ。首都圏の準大手スーパーへの営業を任された。
「全ての答えは現場にある」。マーケティングの知識を実地で試せることが面白く、何度も社内表彰を受けて自信も付いたが、起業への思いは変わらなかった。
入社して5年。このまま会社にいれば、自然と昇進していくだろう。そんな「5年後」は容易に想像できた。起業の方は何が起こるか全く予想できなかった。下手をすればすべてを失い、路頭に迷う可能性だってある。「怖い方の選択をすべきだ」と自分に言い聞かせて退職を決めた。27歳だった。
「漢字Tシャツ」で起業
退職前から日本商工会議所が週末に開いた起業塾に通い、ビジネスプランを練っていた。候補はおにぎり店と、漢字をあしらったTシャツの企画販売。どちらも生活に密着していて、将来は「和」の良さを海外に伝えることができそうだと考えた。
講師たちは「Tシャツの方がいい」と口をそろえた。理由は、開業資金を抑えられるから。Tシャツの500万円に対して、おにぎり屋は店舗の賃料や調理機器などで2000万円は必要になる。「最初の3年間はとにかく苦しい。ばくちのような起業をすれば絶対に失敗する」。まずは小さく始めることが成功の道だと教えられた。
東京・日本橋の近くにある問屋街で無地のTシャツを仕入れ、シルクスクリーンを使って一つ一つプリントしていく。漢字をあしらうことにしたのは、米国留学時代、友人の名前を漢字にし、その意味を教えると、喜ばれたり驚かれたりして「漢字Tシャツにはコミュニケーションを生み出す力がある」と考えたからだ。
東京・原宿での路上販売を中心にしながら、首都圏のイベント会場に出かけて手売りする日々。東京・御徒町にあった「ナラアド」という会社の社長にプリント技術を教えてもらい、同じ技術が応用できるパーカ、ジャンパーなど品ぞろえを増やしていった。
10万円以上を売り上げる日もあった。しかし、ビジネスとして成り立たせる見通しはつかなかった。毎月のように赤字を出し、2年がたつ頃には開業資金500万円が底を突いた。「最初はとにかく苦しい」という講師たちの言葉の通りだった。
かつてトップ営業マンだったから、グリコの元同僚が「社長、ずいぶんもうかってるだろう?」と聞いてくるのは自然なことだったが、それが何よりつらかった。
前掛けだけが持つ「引力」
「何かが違うんだよな」。Tシャツやパーカなどと並ぶ「品ぞろえの一つ」というつもりで、前掛けのネット通販を始めると、顧客の反応が特異なことに気づいた。前掛けだけはなぜか問い合わせの電話がかかってくるのだ。
「特注で作りたいんだけど、作ってもらえますか?」。商品が届くと「ありがとうございました。お父さんが喜んでくれました」とお礼の電話までもらった。喜ばれ方、言い換えれば顧客満足度が他の商品と全く違っていた。
特注のTシャツを作ってくれる会社は他にもあるが、前掛けを作ってくれる会社を見つけるのは難しい。それでもオリジナルの前掛けがほしくて、何とかエニシングを見つけ出し、わざわざ電話をかけてくる。だからこそ出来上がった時の感動も大きい。
Tシャツに比べれば、前掛けの需要の「量」はずっと小さいだろう。しかし、需要の「質」は段違いに良いと言えそうだった。
その頃、アーティストでスナックメーカー湖池屋の元副社長、小池渉さんから事業のアドバイスをもらっていた。「ドンタコス」や「ポリンキー」など、耳に残る独特のフレーズでヒット商品を飛ばした天才肌の人物だ。前掛けの話をすると、「これだよ。一生懸命やった方がいい。こういうのが面白いんだよ」と身を乗り出してきた。
探し求めていた自分だけの「オンリーワン」が見つかった。Tシャツから前掛けへ。エニシングは大きくかじを切ることになった。
第2章 いっそ専門店になろう
2005年、氷販売店の団体から200枚の大口注文が入った。無地の前掛けを仕入れるため、東京・日本橋近くのなじみの問屋に向かった。「200枚ください」と言うと、「そんなにあるわけないだろう」と返された。めったに売れないから、あまり在庫を置いていないのだ。
「次はいつ入ってきますか」と尋ねても、店主は「こんな物、いつ入荷するか分かるわけがないだろう」と言うばかり。足袋屋や手ぬぐい屋も回り、倉庫の奥から引っ張り出してもらって、何とか数はそろえたが、丈はバラバラだった。「このままでは商売にならない」。安定的に前掛けを仕入れられなければ、注文を伸ばすどころではないからだ。
「前掛けなんてやらない方がいい」
同じ頃、東急ハンズ(当時)の目利きバイヤーがエニシングの前掛けに目をつけた。売れるのは月に1枚か2枚だったが、「いつか絶対に売れるようになる。それまで我慢しよう」と専用の売り場まで設けてくれた。
前掛けには可能性がある。しかし、このままではその可能性を潰してしまう──。商品があるのだから、どこかに産地があるのは間違いない。しかし、問屋街で聞いて回っても「知らない」「関心ない」という答えしか返ってこなかった。
半年後、京都に住む知人から「愛知の豊橋に職人さんがいる」と聞きつけた。社員とともにさっそく訪ね、在庫の商品を見せると、職人さんは「これは俺が織った生地だな。前掛けなんて、もう豊橋でしか作っていないよ」と言う。
他の職人たちも集まってくれ、「これからもっと前掛けを織ってほしい」と申し出た。ところが意外な答えが返ってきた。「君ら、一生懸命やらない方がいいよ。俺は60歳になったらやめるつもりだから。あと4、5年だな」
ようやく見つけた職人さんだ。簡単に引き下がるわけにはいかない。「あまりにもったいない」と押し返したが、職人たちも「時代の流れっていうものがある。Tシャツの方が商売になるはずだから、前掛けなんてやめた方がいい」と譲らなかった。
帰りの新幹線。前掛けの調達にめどをつけるはずが、むしろ暗雲が漂う結果になった。「俺たち、オンリーワンって言ってきたよな。だから、やっぱり前掛けをやるべきだと思うんだ」。社員も同じ気持ちだった。「社長、そうですよ。やるならTシャツじゃなくて前掛けです」
いっそのことTシャツはやめて、前掛け専門店になろう。「怖い方の道を選ぶ」。起業を決心した時と同じ考え方だった。
「一番怖いこと」をしよう
07年、エニシングの前掛けは民放の情報番組で取り上げられたことをきっかけに、月に10枚ほどだった販売が急に伸び、数日で200万円近くを売り上げた。うれしかったが、なんだか「あぶく銭」を稼いだような居心地の悪さもあった。
このお金は使ってしまおう。経営者仲間に使い道を相談すると、「やらないといけないけれど、やるのが一番怖いことに使いましょう」と言う。
そもそも自分はなぜ前掛けを選んだのか。いずれ海外で売り出したいからだ。ニューヨークやパリの街並みが思い浮かんだが、いくらなんでも時期尚早だし、怖い。「だったら、それを今やりましょうよ」
ニューヨークの人気日本食レストラン15店舗をリストアップし、その店舗のロゴマークをあしらった前掛けを試作。サンプルとして配り歩くことにした。いきなり受注するのは難しかったが、現地の日本人コミュニティーや実業家とつながりができ、営業する足がかりを作れた。
翌09年5月のニューヨーク出張。日系貿易会社との商談を終え、市街地のど真ん中にある紀伊國屋書店に飛び込み営業に向かった。「日本から来ました」とレジで名刺を出すと、アポなしだったのに支配人の部屋に通された。
一通り説明を終えると、支配人がカレンダーを確認し始めた。「ここにギャラリーがあるんですが、9月は予定が空いています。ぜひ前掛け展をやってください」。願ってもない展開だったが、費用が気になった。恐る恐る尋ねると、「日本の伝統のために頑張っておられるので」と無料で展示させてくれるという。
帰国してすぐ豊橋に向かった。展示会のテーマを「前掛けの歴史」と決め、職人さんの倉庫から古い前掛けを貸してもらおうと考えたのだ。
協力を求めた職人さん3人は60~70代半ば。それまで「前掛けなんて本気でやらない方がいい」とよそよそしかったが、ニューヨークでの計画を話すと「それ、俺たちも行けるのか?」と急に身を乗り出してきた。ここがチャンスだ。「もちろんです。前掛けの歴史なんだから、皆さんが主役です」
前掛け展@ニューヨークが生んだ突破口
再びニューヨークに向かった。展示会の期間中、週末の2日間にわたって職人3人を主役にしたイベントを開いた。「前掛けってカッコいい」。各回とも数十人が集まる盛況で、スーツケースに入るだけ持ってきた前掛け40枚を完売した。
イベント終了後は、関係者だけで打ち上げをするつもりだったが、「前掛けの話をもっと聞きたい」というイベントの来場客も合流し、予想以上ににぎやかな会合になった。
「日本伝統の」とはいっても、目立たない存在だった前掛けが、ニューヨークの地でこれほどの熱気を生むなんて。誇らしげな職人3人の顔。
「西村君、今まで君のことは面倒なことを言うヤツだと思っていたけど、この1週間一緒にいて、君のやりたいことがよく分かった。これからは協力するよ」。知り合って約2年。ニューヨークという「非日常」を共有することで、突破口が開けた。
すかさず「1号前掛け」の生産を頼んだ。分厚くて100年使える丈夫さと、柔らかい風合いを兼ね備えた高級生地だ。
めったに売れず、特別太い糸で織るため材料の調達も簡単ではなく、もう30年以上も製造されていなかったが、贈り物にしたくなるような高品質の前掛けを作るには、どうしても必要だったのだ。
「よし、やろう」。ニューヨークで見えてきたのは、前掛けのミライだった。
第3章 自分たちで作ろう
前掛けには、骨盤をぐっと締め付けることで、重い物を持ったり運んだりする人の体を守る機能がある。もう一つ、西村さんが前掛けに注目した理由がある。それは人々の思いを乗せるキャンバスになり、コミュニケーションを促すことだ。
前掛けにプリントされた商標や屋号が、お客さんとの会話のきっかけになる。家族や大切な人へのメッセージを入れてプレゼントすることもできる。
贈り物にできるような前掛けを作りたい。そのためには、柔らかな風合いと100年使える丈夫さを兼ね備えた「1号前掛け」を織れるシャトル織機と、それを操れる職人さんたちの技術がどうしても必要だった。その価値は海外でも通用するはずだし、日本伝統の前掛けを世界に羽ばたかせることになる。
それまで約30年間作られていなかった「1号前掛け」の製造を再開。追い求めてきた高品質の前掛けを仕入れられるようになった。
しかし、職人たちの高齢化を止めることはできない。2013年、織布工場の職人さんが65歳になり、「70歳には引退したいから、その準備をしてくれ」と告げられた。シャトル織機は引き継ぐとしても、職人は自前で育成しないといけない。一人前の職人になるには最低5年はかかるから、逆算するともう時間はなかった。
企画販売から製造業へ……
職人育成の第一歩として、織物メーカーの「先輩」である小島染織工業(埼玉県羽生市)に見習い職人を受け入れてもらい、基礎を身につけた上で豊橋の職人さんのもとに送り込んだ。5年間かけて、最終的に4人の職人に修業を積ませることができた。
職人を育成すれば、それで準備完了とはならない。自前の工場を持ち、4人の職人を雇っていくためには、売り上げを3倍にしなければ収支が成り立たないのだ。サントリーや広島カープ、ドール……。従来のネット販売に加え、商品キャンペーンやグッズ販売に前掛けを使ってもらうべく、企業への営業を強化して何とかめどをつけた。
日本の繊維産業は、中国など海外への生産移管が進み、出荷額はピークだった1990年代の3分の1ほどに縮小している。
ビジネスモデルとしても、「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングのように、基本的に自社では工場を持たずに、商品の企画と販売に集中する手法が台頭してきた。
その方が移ろいやすい消費者のニーズに応じて機動的な経営ができると考えられるからだ。
エニシングの選んだ道は、その逆だった。身軽な企画販売業から、何千万円もの資金をかけて自前の工場を建設し、製造業に進出する。繊維の街である豊橋でも、繊維業の工場新設は実に55年ぶりだった。しかもエニシングは起業から間もない資金力のない会社だ。
それでも時間をかけて職人を育て、工場を成り立たせられるだけの売り上げも確保して、地元の信用組合から建設費用の融資を受けられた。我慢の時を越えて、半年後には念願の自社工場をオープンできるところまでこぎ着けた。
18年秋、予想もしていなかった出来事が起こった。突然、数千万円の追加資金が必要になったのだ。
予期せぬ追加費用
それまでは、職人さんのもとにあるシャトル織機8台を譲り受け、新工場に運び込めば、生産をスタートできると考えていた。しかし、職人さんが抱える長年の在庫を引き取り、織機の移設費用も負担しなければ、職人さんが廃業できないため、織機の譲渡を受けられない。
在庫の引き取りや機械の移設にかかる費用を見込んでいなかったわけではなかったが、当初の想定の約5倍に膨れ上がることが明らかになったのだ。
他社から事業や設備の譲渡を受ける際には、予期せぬ費用が発生しがちなことは知っていた。しかし、まさか、それが自分の身にも起こるとは考えなかった。
既に工場の建設は進んでいる。肝心の織機を入手できなくては、元も子もなくなる。しかし、必要な資金が総額1億円超に膨れ上がることにめまいがした。
「なぜ、そんな大事なことをちゃんと詰めていなかったんだ。経営者失格だ」。地元信用組合に追加融資の相談に行くと、長年の付き合いがある幹部から厳しい言葉を浴びせられた。
追加融資には応じてもらえない。豊橋に新たな織物工場を作るという目標に共鳴し、目をかけてくれているからこその叱責だったから、余計に胸に響いた。
職人育成に費やした5年間、いや豊橋に通い詰めた10年以上の努力が水の泡になってしまうかもしれない。焦りが募った。
「なんぼでも借りてやれ」
1億円を超える借金を抱えなくてはならない。その重圧から、食事も大好きな酒も喉を通らなくなった。みるみるうちに痩せ、「もうダメかもしれない」と思い詰めた。
デニム製造で知られる「カイハラ」(広島県福山市)の貝原良治会長に連絡を取った。同じくシャトル織機を使い、広島県出身という同郷のよしみもあって、時折、相談に乗ってもらっていた。
事情を説明すると、貝原会長が諭すように言った。「1億でも10億でも100億でも、それが世の中に求められているものに必要なのであれば、なんぼでも借りてやるべきだ」
事業を成功させる経営者とは、こういう考え方をするのか。驚きを超えて、ほれぼれした。脱サラした時も、前掛けを選んだ時も、「怖い方」の道を選んできた自分が借金の大きさにひるんでいた。何が何でも工場を建てよう。決意を新たにした。
第4章 新工場稼働、さらにその先へ
英国で始まった産業革命の発端は、蒸気機関で動く織機の発明だった。日本でもトヨタ自動車やスズキの源流は織機製造にある。100年近く前に作られ、スピードは遅いながらも温かみのある生地を生み出すシャトル織機で、日本伝統の前掛けを織る。
そんなビジョンを掲げるエニシングの工場は、繊維の街である豊橋でも55年ぶりの新設計画だった。2019年の開設に向け、5年かけて職人4人を育成。建設資金として数千万円の融資も決まった。
ところが、オープン予定日の半年前、そのシナリオが崩れた。職人さんの廃業に伴い長年の在庫を引き取り、織機の移設費用も負担しなければ、織機の譲渡を受けられないことが分かり、必要な資金が総額1億円超に膨れ上がったのだ。
肝心のシャトル織機が入手できなければ、空っぽの工場を抱えることになる。資金力のないベンチャー企業であるエニシングにとっては致命傷になりかねなかった。
まず必要なのは資金確保だった。取引実績のある東京の金融機関を回り、幸い運転資金の借り増しに応じてもらうことができた。
窮地救った「織機のレジェンド」
資金面の不安はなくなったものの、職人さんの工場に何十年も前に据え付けられたシャトル織機を新工場に移設するのは、誰も経験したことのない難事業だった。いったん解体して新工場に運び込み、そこで組み立て直したとしても、古い機械だから、それまで通りに動く保証はなく、解体と再組み立ての手順さえ定かではなかった。課題は山積した状態だった。
事態を打開したのは、豊田自動織機(愛知県刈谷市)に長年勤めた織機のレジェンド、東義和さんだった。新工場に置く織機の中には、豊田式自動織機の発明者であり、トヨタグループの創始者でもある豊田佐吉が手掛けた織機もある。
トヨタ側としても「佐吉翁の織機をこれから30年、50年と動かし続けてくれる会社」としてエニシングの計画に期待をかけていた。
業界で尊敬を集める東さんがエニシングの技術顧問に就くと、織機を新工場に運び込み、新たに据え付ける手はずが瞬く間に整い、年度末までにすべての手続きを終えることができた。
19年6月、一度は諦めかけた新工場の開設。これで年間10万枚の生地を生み出せる。「繊維の街」復活を予感させるニュースだったから、テレビや新聞で一斉に報じられた。
予想していなかったことが起こった。ニュースを見た元織物職人たちが、工場に集まり始めたのだ。「ここをこうすると、もっときれいに織れる」「この部品を使ってみたらいい」。エニシングの職人たちを孫のように可愛がり、シャトル織機の操り方のこつを伝授してくれた。
工場見学のイベントを開催すると、近所の人が案内役を買って出てくれる。繊維の街、シャトル織機、前掛け……。このストーリーの持つ力が、郷土と伝統産業を思う人々の心に火を付け、エニシングを中心に回り始めた。
新工場の生地は、トヨタやスズキの一部系列販売店のユニホームやグッズとして採用されている。グループの源流である「佐吉の織機」「鈴木の織機」で織られた生地に「自社の原点」という特別な意味を見いだしたのだ。
新たな挑戦の舞台「ファブリックラボ」
新型コロナウイルスの感染拡大の中でも、西村さんは海外展開の努力を緩めなかった。多くの日本企業が出展を見送る中、パリで開催される世界的な雑貨見本市「メゾン・エ・オブジェ」に果敢に挑戦。世界各国の約200社と商談することができた。その模様は『MAEKAKEを世界へ』(アメージング出版)という書籍にいち早くまとめた。
次の挑戦は、前掛けに加えて、シャトル織機でしか織れない生地の研究開発を進め、海外のブランドに売り込んでいくこと。その舞台となるのが23年3月、愛知県豊橋市の工場の隣に開設したファブリックラボだ。
「ここから『日本のものづくり』を未来につなげていきたい。個人と個人がつながり、世界中から面白い人々が集まって、一緒に作った生地が世界に出ていく」。西村さんは「ファブリックラボ」の狙いをこう語る。綿、絹、麻、毛、和紙といった天然繊維の糸が集められ、世界各地から来訪したデザイナーや職人たちが好みの糸を選び、組み合わせる。糸の色や太さ、織りの密度の組み合わせごとに、パソコン上でシミュレーションを行い、出来上がりのイメージを検討した上で、シャトル織機で試作品を織り上げるまで約3時間で済む。
絹糸の宮坂製糸所(長野県岡谷市)、毛糸の三河紡毛(愛知県岡崎市)、天然藍染めのワタナベズ(徳島県上板町)といったパートナーのこだわりの素材で織った生地を世界のファッション、インテリア業界に発信する。オープンから数カ月で、スペインのインテリアメーカー、オランダのかばんメーカー、英国のファッションブランドが訪れた。
前掛け専門から縁布(エニフ)へ
ここで生まれた生地は「縁布(エニフ)」と名付ける。もともとエニシングの社名は「縁」と「ing」の組み合わせだ。「縁布」は、ビジネスの上でも、人間としても、お互いが尊重し合える思想と関係性が縁によって生まれ、その縁がつくりだしたオンリーワンの生地という思いを込めた。
「大量生産の時代、競争の時代は完全に終わった。自分の強みを生かして、自分にしかできないオンリーワンを作っていけば、日本の『ものづくり』の良さが次世代に引き継がれる。そして社員たちが働くことの豊かさと幸せを感じられる仕事を作っていける」。西村さんは、それがこれからの経営者の務めだと考えている。
週刊エコノミスト2024年1月23日・30日合併号掲載
西村和弘さんの場合