「ファイン」社長・清水直子さんの場合
竹からできた生分解性樹脂の歯ブラシに、幼児やお年寄りでも使いやすいユニバーサルデザインのコップ。ユニークな商品を世に送り出す東京・品川の「ファイン」の清水直子社長(56)は、何年も「自分は経営者になれるのかな」と悩んだ。思ってもみない事態の積み重ねで自分に巡ってきた後継者という仕事。清水さんは壁をどう乗り越え、自分だけの経営スタイルをつかんだのか。その歩みを追いかける。(清水憲司・毎日新聞経済部)
第1章 きょうだいの中でだれが継ぐ?
「はい、ファインでございます」。小学校の頃から、自宅に引かれた会社の電話を取るのが日課だった。
父と母が切り盛りする会社が1階と2階で、自宅は3階と4階。3人姉妹の三女である直子さんも、会社にどんな商品があり、どんな取引先があるのか、自然に覚えていった。タイピングが好きだったから会社のワープロをいじったり、季節のセール品の出荷準備となれば社員と一緒に荷物を詰めたり。会社は「好きとか嫌い」という以前に、生活に溶け込んだ存在だった。
ファインは、戦後間もなく大叔父が創業したろうそくメーカーから、父益男さんが1973年に歯ブラシ部門を独立させて設立した。母和恵さんが、銀行に勤務した経験を生かして経理を取り仕切った。
直子さんが中学、高校時代を過ごした80年代は、バブル景気のまっただ中。ファインの売り上げは伸び続けたが、いつも朗らかで近所に笑顔を振りまく益男さんが、食卓ではよく難しい顔をしていたのを覚えている。
歯ブラシは多くの場合、薄利多売で資材も大量に抱えないといけなかった。だから、いつも資金繰りが苦しく、銀行通いが必要だったのだ。
貿易会社に就職「海外に!」一転、泣く泣く親元に
父益男さんは、何かと機転の利く次女に「継ぐならお前が継げ」と言っていた。だから、三女の直子さんは「自分が会社を継ぐ」なんて思いもしなかった。
ジェームズ・ディーンの映画のセリフを聞き取れるようになりたくて、小学生の頃から英語に興味を持ち始め、短大では英語を専攻。その英語力を生かして東京・神田の貿易会社に就職し、貿易事務を担当した。上司から「頑張れば海外出張に行かせてやるぞ」と発破をかけられ、それを目標に仕事に打ち込んだ。
ところが、ある日、母和恵さんから「ファインに来てくれないかな」と頼まれた。それまでファインは、アニメキャラクター「スヌーピー」の柄の入った歯ブラシを下請けで製造していた。ライセンス契約を結んでいた会社が手を引くことになり、ファインが自社製品として製造を続けるなら、米国のキャラクター管理会社と契約を結び直したり、新製品を出す際のやり取りをしたりしないといけない。それには英語ができる人材が必要だ。「それなら直子がいる」と思いついたのだ。
「ファインには行かないよ」。貿易会社の仕事も仲間も好きだったから拒否したが、数カ月間、母親から「まだ来られないの」「いつなら大丈夫なの」と毎日のように説得されて、とうとう根負けした。
90年、泣く泣く親元で働くことになったが、ファインを継ぐかどうかは別問題だった。当時22歳。数年後にはまた別の会社で働く選択肢もあったし、「どこかの時点でお嫁に行っちゃうかも」という気持ちもあった。
崩れたシナリオと続けざまの衝撃
きょうだいの中で、誰が家業を継ぐのか。家族の中の問題だから、実は微妙で難しい。本人が将来をどう考えるのか、どんな性格なのかにもよるし、親が継がせたいと思っても、何となく口に出せないうちに、本人が別の進路を選ぶこともある。上のきょうだいが継ぐかと思ったら家を出てしまい、残された誰かが選択を迫られるケースもある。ましてや清水家は3姉妹。お婿さんに継いでもらう選択肢だってある。
父益男さんは、昔から「後継者にするなら次女」と言っていた。かたや三女の自分は、生まれた時の父の第一声が「また女の子か」だったと聞いていたし、心の中で「家業の後継者としては何も期待されていない」と感じながら育ってきた。ファインに呼ばれはしたものの、それより先に後継ぎとして入社していた長姉の夫である義兄が、会社を回していくのだとばかり思っていた。
ところが、そのシナリオは突然崩れる。義兄が「ファインも清水家も背負っていくというのは責任が重すぎる」と会社を辞めたのだ。六本木や広尾などの一等地に店を持つフラワーショップの勤務先で長姉と知り合った義兄は、来店客との軽妙なやりとりが得意だったが、ファインの当時の取引先は高飛車な要求を突きつけてくる問屋も多く、中小メーカーは頭を下げたりしながら商品を採用してもらう弱い立場だった。それが耐えられなかったようだった。
「後継ぎが決まった」と喜んでいた父益男さんの落胆は大きかった。普段は涙を見せない人なのに、家族の前で「ファインの後継ぎの何が嫌なのか」と大泣きした。周囲は「こればっかりは仕方がない」となぐさめたが、ショックのあまり、会社にしばらく来られなくなった。それに先だって番頭格だった古参社員も会社を去っており、会社を揺るがした。
その衝撃がまだ癒えないうちに、父益男さんは中咽頭(いんとう)がんと診断される。1年2カ月の闘病の末、「余命は半年」と宣告されたのを機に会長に退き、社長はそれまで経理を担当していた和恵さんに引き継いだ。直子さんには「これから言うことは全部、遺言だと思って聞け」と言い渡した。
「自分が好きな仕事を」 父がのこした言葉
それから3カ月後、父はホスピスへの入居を拒み、5年前に建てたばかりの千葉の自宅で最期を迎えることを希望した。母和恵さんは自宅で看病する日が増えた。
会社から両親が待つ千葉の自宅まで片道65キロ。帰り道に一人で走らせる車の中、そして家に入る直前まで、声を上げて泣いた。容赦なくやってくる別れ。そして将来への不安。「これからどうなっちゃうんだろう。母と2人で乗り越えていけるだろうか」
父から聞くべきことはたくさんあったはずだったが、そこはもどかしい父と娘の関係。面と向かうと気詰まりになって、何も話せなくなった。「将来はお前が継げ」とはっきり言われたわけでもなく、どこかに半身な気持ちも残っていた。
今思えば、それ以上に、当時は何を聞いておくべきなのか、よく分からなかった。ファインに入って4年ほど。会社全体を理解できてはいなかったし、父親が亡くなった後、会社に何が起こるか、どんな困難があり得るのか想像もできなかったからだ。とにかく父の記憶を全てハードディスクに入れておきたいと思い詰めたが、そんなことができるはずもなかった。
95年3月、益男さんが亡くなった。55歳だった。葬儀の後、3人の姉妹にはそれぞれ遺書が手渡された。直子さんに宛てた遺書には「可愛いだけの直子が、会社の後継者になるとは思っていなかった」「直子の時代には歯ブラシにこだわらず、自分の好きな仕事をしたら良い」と書かれていた。
後継者は自分──。父は自分のことをちゃんと見てくれていたんだ。そのことにうれしさを感じたが、「意外」に思う気持ちが先に立ち、当時は自分事とは思えなかった。まずは女所帯になったファインを、母和恵さんと一緒に守っていかないといけない。自分が継ぐかどうかは、まだまだ先の話だった。
第2章 泥沼からはい出すまで
「ちゃんとしないと会社は3年で潰れるぞ」。1995年、父益男さんの葬儀で、参列者にかけられた言葉が胸に突き刺さった。親切心だったのだろうが、葬儀に政界関係者を一人も呼ばなかったことを注意されたのだ。
そのことと会社の将来と「何の関係があるの」とも思ったが、当時27歳の直子さんには重く響いた。
会社が潰れる? しかも、たったの3年で? 大黒柱を失い、女所帯になる不安が一層のしかかった。
ファインの社長職は、経理を取り仕切っていた母和恵さんが引き継いだ。益男さんは生前、「自分は成り行きで歯ブラシをやることになったが、それにこだわる必要はない」と言いのこしていた。歯ブラシの製造販売は薄利多売で、決してもうかる事業ではない。後に残る妻と娘の選択肢を広げるために、商売替えをしてもいいと告げていた。
それでも、和恵さんが選んだのは、歯ブラシだった。みんなが使う消耗品だから、手堅い事業なのは間違いない。下請けではなく、開発に本腰を入れて自社製品を増やしていけば、会社を成り立たせていけるというのが結論だった。
ハンドル(持ち手)の部分を輪の形にして喉突きを防ぐベビー用のリング型歯ブラシ、チタンなのに特殊な加工を施すことでくねくねと曲がるようにした介助用スプーン……。不安を吹き飛ばすように、和恵さんは次々とアイデア商品を生み出していった。
焦りと不安の日々 「一生懸命やってるのに」
しかし、取締役となった直子さんの心は晴れなかった。よかれと思ってした新製品や職場改善の提案がことごとく社内で却下されたからだ。「機械汚れはロスの原因だから、毎日、掃除をすれば良い」という当たり前の提案さえ通らなかった。
提案の中身というよりも、言い方に問題があったのかもしれない。しかし、「こんなに一生懸命やっているのに、私は評価されていない」と思い詰めた。
さらに、父の葬儀でかけられた「ちゃんとしないと会社は3年で潰れる」という言葉がのしかかった。社員から何か相談を受けても「そんなことも分からないの?」ときつくあたった。それもこれも「夢」ではなく、焦りや不安に突き動かされていたからだった。
誰かに向けた剣は自分も傷つける。いつしか会社の中に居場所がないと感じるようになり、週に何度も一人、涙を流した。
異変は体調にも表れた。心が波立つ出来事があると、みるみるうちに唇の周りが真っ赤に腫れるようになった。
リップクリームやマスクを手放せなくなり、商談のあるときはファンデーションで腫れを隠し、訪問先でせっかく出された飲み物もマスクを外さなくてはならず、憂鬱に感じた。
電車に乗っても、コンビニに行っても、みんなが自分の顔を哀れんで見ているような気がした。バイク仲間と連れ立ち、米国横断のツーリングに出かけたり、富士登山に挑戦したりしたのは、大自然に身を投じれば、自分の小さな悩みが吹っ切れると思ったからだ。しかし、腫れは治まらなかった。
苦しみを救った「社員の言葉」
転機になったのは、2004年3月。37歳の時のインド旅行だった。知人から「唇の腫れにはデトックスが良い」と聞き、連想ゲームのようにインドに行き、アーユルベーダ(伝統医療)のマッサージを受けようと思い立った。
「私、ここに行かなきゃ」。母に長期休暇の了解をもらい、何かに取りつかれたようにインドに向かった。暑くて不衛生な屋台の食べ物で、何度も発熱しておなかを壊したが、2週間の滞在中、唇の腫れは一度も出なかった。会社から離れ、晴れ晴れとした気持ちになっている自分がいた。原因は、自分の仕事の仕方にあった。そのことに向き合えるようになった。
06年、もう一つ、事件があった。海外で行われたバイクレースの事故で、仲間が亡くなったのだ。チームメートの一人として同行していた直子さんは、現地で手術と治療に立ち会い、そして仲間の最期をみとった。「人生はいつ終わるか分からない」。大きな衝撃だった。
約3週間ぶりに会社に出勤すると、社員たちが温かい言葉で直子さんを出迎えた。「本当に大変でしたね」「会社に来られるようになって良かったです」。それまでつらく当たったこともあった自分に、自らの都合で会社を長くあけた自分に、嫌み一つ言うこともなく、優しい声をかけてくれた。
「みんな、どうしてこんなに優しいんだろう。自分は甘えていた。みんなに恩返しをしたい。みんなの役に立つ働き方をしたい」。6年間続いたトンネルから抜け出た瞬間だった。
「副社長の仕事は笑顔」 見つけたスタイル
同じ06年、直子さんのもどかしい気持ちを察した和恵さんの計らいで、直子さんは副社長に昇進した。最初は迷ったが、周囲から「器が人を育てる」と背中を押された。
自分が会社を継ぐのかどうか、気持ちが固まらない時間が長かったが、副社長になるということは、社長になる助走を始めることになる。インドでの経験と仲間の死を経て、直子さんにもう迷いはなかった。
まず直子さんの仕事は「笑顔」だとアドバイスをしてくれた人がいた。経営と財務の勉強にも取り組んだ。母と二人三脚で走ってきたつもりだったが、「知識がないがために会社を潰してはいけない」と本格的に学ぶことにしたのだ。
社内では、和恵さんが70歳になるのを機に「社長の花道プロジェクト」を実行しようと、本人には内緒にして、社員と相談を始めた。
社長就任以来、持ち前のアイデアと粘り強さで商品開発を進め、会社を引っ張ってきた和恵さんが安心して会社を引き継げるような状況をつくるのが目的だった。和恵さんが社長になった当時は、益男さんが闘病中で、祝える状況ではなかったから、せめて花道をつくってあげたいという考えもあった。
具体的に何をするか。今までの和恵さんの言動を思い返して考えた。和恵さんに安心してもらうには、単に売り上げを伸ばすのではなく、みんなで協力して商品開発ができるようなチームワークを確立することが大事だという結論になった。
その一環として、社内会議のやり方を変えることにした。直子さんが司会と議事録を担当する。しっかり議事録を取ろうとすると、社員らの報告や意見を聞き流すことなく、「えっと、それってどういうこと?」「もう1回言ってくれる?」と、確認しながら議題を進めることになる。
それによって、発言の機会が増えた社員たちが、自分の考えや思いを言葉にして伝えるようになり、直子さんも会社の隅々まで知ることができるようになった。直子さんが時には笑いを取りながら、「なるほど」「なるほど」とうなずきながら会議が進むので、自分の中でひそかに「なるほど会議」という名前を付けた。自らの商品開発力でぐいぐい引っ張る母とは異なり、社員を巻き込んでいく直子さんならではのリーダーシップが形になってきた。
10年、社内をまとめ上げる求心力を備えた直子さんは社長職を引き継いだ。「自分のミッションは次にバトンタッチすること」と考えてきた和恵さんは、直子さんにこんな言葉を贈った。「後継者はなろうと思ってもなれないし、なるつもりがないのになってしまう不思議なポジション」。それが母と娘、2人の後継者が歩んできた道だった。
第3章 編み出した経営スタイル
社長になるための準備をしてきたつもりだったが、実際に就任してみると、取締役や副社長だった頃とは、責任の重さが全く異なることに気づかされた。会社の浮沈は自分次第。最初のころは「社長とはどうあるべきか」ばかり考えていた。
社長たるもの、朝早く出社していないといけないし、どの社員にもどんな時にも同じムードで接しないといけない。好きなバイクも降りないといけない。「しないといけない」のオンパレードだった。
メンター役の知人に話すと、「女の姿をした男の経営はしなくて良い」とアドバイスされた。社長らしい「しないといけない」は、本当にしないといけないことなのか。一つ一つ、そう考える理由を質問されて答えていくと、そんなふうに振る舞っていないと「社員から信頼されなくなるのではないか」という思い込みがあることが分かってきた。
社員から信頼されるには、「しないといけない」を数多くこなすことが大事なわけではない。同時に副作用があることも教えられた。「社長の私がこんなに頑張っているのに、みんなはどこまで頑張っているの?」という思考回路に陥ってしまう点だ。
「社長らしく」にとらわれる必要はない。自分らしく「のびのびと健やかな社長」でいること、そして社員がチームワーク良く、仕事をしやすい職場の雰囲気を作ることが目標になった。
そうした試みの一つとして、ボーナスを振り込みから手渡しに切り替えたことがある。その時に「この半年間の自分自慢」を社員一人一人にスピーチしてもらうことにした。「えー、そんなのないよ」と恥ずかしがる社員もいたが、ある男性社員の話にみんなが引きつけられた。
男性は早起きで、毎朝4~5時に目覚めてしまう。やることがないので庭の掃除をしているが、それでも時間が余るので、家の玄関、そして家の周りの掃除を始めたところ、近所の家々も毎朝、周囲の掃除をするようになったという。職場では知る機会のなかった意外な一面。それを知ることで社員がお互いをリスペクトするようになり、仕事も一段とスムーズに回るようになった。
「デザイナーを雇おう」 やってきたのは将来の夫
先代社長である母和恵さんが、豊富なアイデアをもとに、ほとんど独力でユニークな製品を生み出していくタイプだったのに対し、自分はゼロからアイデアを出すのが苦手だと感じていた。そこで「外部から若手のデザイナーを採用しよう」と考えた。職場に新風を吹き込んでほしいという狙いもあった。
とはいえ、中小メーカーだから、日常的にデザインの仕事があるわけではなく、まずはフリーランスのデザイナーに「デスク貸し」をすることにした。仕事場としてファインの事務所を開放する代わりに、必要な時にファインの製品のデザインをしてもらう。バイク仲間の紹介でやってきたのが、のちに夫になる曲尾健一さんだった。
社長になって4年目の2013年、ユニバーサルデザインのコップで、グッドデザイン賞を狙っていた。幼児や高齢者らがコップを使っていてむせてしまうのは、中身が少なくなっていくのにしたがって、背を後ろにそらさないといけなくなるから。そこで鼻側のコップの縁を低くして、姿勢をまっすぐに保ったまま、最後まで飲めるように工夫した製品だ。
その約10年前に和恵さんが開発した製品のリニューアルだが、フタを付けたり、取っ手を二つにしたりするなど、寄せられた要望を盛り込むのに苦労した。
大事なのは細部のデザインだ。フタや取っ手の形状、色彩をどうするか悩んでいる時に、健一さんの発想が生きた。フタは指に引っかけるだけで外せ、食事に使う狭いトレーの上でも自立するデザインに。取っ手も指で挟むだけで持てる形状にした。色彩は元気が出て、色覚障害のある人でも判別しやすいオレンジ色に決めた。
「私が社長になって初めての新商品です。よろしくお願いします」。最終選考のプレゼンではこう訴えた。むせにくいコップ「レボUコップW」は期待通り、2014年度のグッドデザイン賞、2016年には第28回中小企業優秀新技術・新製品賞奨励賞を受賞して、ファインの名を高めた。
「こんな歯ブラシがほしい」に応える開発型企業へ
ファインの中核事業である歯ブラシは、日々使う物だから既製品に満足しない人も少なくないし、地域おこしのグッズにも使われる。小回りのきく中小メーカーであるファインには、個人や企業から「こんな歯ブラシを作りたい」という相談がひっきりなしに舞い込む。そうしたアイデアを一つ一つ実現することが、直子さんの目指す「開発型企業」への脱皮につながる。
そうする中で、健一さんとの二人三脚が、ファインの新しい製品開発の形になっていった。
異業種の仲間が集まって、富士山をテーマにそれぞれグッズを作っていると聞き、歯ブラシでも作れないかと考えた。歯ブラシの柄に富士山をプリントするだけではつまらないから、ブラシの部分に円すい形に植毛しようと考えたものの、実際に作ってみると毛先が中央に集まるため、ブラシが硬くなり、歯茎に当たると痛かった。次のアイデアが浮かばないまま、2カ月ほどが過ぎた。
そこで健一さんが考えたのは、柄の部分を富士山の形にそらせるのに加えて、ヘッドを台形にして上の方に白い毛、下方に水色の毛を植えて、富士山の形状と色にすること。この「富士山歯ブラシ」は大手航空会社関連の記念品にも採用された。
その後も、他社から依頼された「入れ歯磨き」の開発では、直子さんが植毛のアイデアを出し、健一さんは形状や色を工夫してフルーツに見立てることで洗面台に置きやすいデザインにした。直子さんが着想し、健一さんが仕上げていく。2016年、15歳差の2人は結婚した。
生分解性樹脂の「竹の歯ブラシ」
自分だけの経営スタイルを身につけ、新製品開発の方程式も見つけた直子さんだが、母和恵さんが開発を手掛けた古い製品も、求める消費者がいる限り、なるべく廃番にせずに製造を続けている。その一つが、竹の粉を用いた生分解性樹脂の歯ブラシ「竹の歯ブラシ」だ。
1998年、紙と植物由来のPLA(ポリ乳酸)樹脂を混ぜたエコ素材の歯ブラシから試行錯誤が始まった。当初はエコに関心の高い顧客層を狙っていたが、思うように販売が伸びなかったり、樹脂がもろくなってヘッドが割れたりするなど多難だった。
さまざまな樹脂を試してみたものの、なかなかうまくいかない。「そもそもエコ歯ブラシには市場がないのかもしれない」とも考え、販売終了を決めたところ、思ってもみないところから販売継続を求める声が上がった。石油系樹脂の歯ブラシを使うと体調が悪くなる化学物質過敏症の人からの電話だった。「この歯ブラシでないとダメなんです」
その頃、エコ歯ブラシの新たな素材として見つけたのが、竹の粉から作った生分解性の樹脂だった。当時ファインで一緒に商品開発をしていた長姉薫さんも加わって何度も強度試験を繰り返し、2008年に「竹の歯ブラシ」を発売した。生分解性という特性から徐々に強度が落ちるため、2年間の品質保持期限を設定する工夫もした。東京ビッグサイトでの展示会で、いつもの2倍の広さのブースでお披露目したところ大きな反響を得た。
これから軌道に乗ると期待が高まったものの、数カ月後のリーマン・ショックで樹脂の仕入れ先が廃業。経営者とも連絡が取れなくなってしまった。代替の素材を確保するため、特許を調べると似たような樹脂はあったが、実際に問い合わせてみると、どれも実用レベルではないという回答ばかり。それでも諦めずに、廃業した取引先の関係者を探し出し、4年後の2012年、再び竹の樹脂が入手できるようになった。
竹は繁殖力が非常に強く、竹林の拡大を放置すると、他の樹木の生育を妨げ、既存の森林を侵食してしまう。また、竹は根が浅いため、土砂災害が起きやすくなるなどの「竹害」が指摘されている。歯ブラシの柄を竹の樹脂に置き換えれば、石油の使用を減らすだけでなく「竹害」を減らすこともできる。ファインは21年、竹の歯ブラシを地球環境に配慮した「MEGURU」というブランドとしてリニューアル。同時に、さまざまな植物から生分解性樹脂を製造する技術の特許を取得し、三重県名張市の工場を改装して自社製造に乗り出した。「持続可能な開発目標(SDGs)」への関心の高まりから、売り上げはここ2年で約2倍に増えた。
「協業させてもらえませんか」。大手企業から、そんな提案が舞い込むことが増えてきた。自由で小回りの利くファインの商品開発の仕組みが、組織の大きさや分業制ゆえに意思決定に時間がかかり、機動的に動けない大手企業をひきつけているのだ。ファインにとっても大手企業が持つマーケティングや生産管理といった専門性を取り込めれば、一段の飛躍を目指せる。互いの強みを生かす「大企業×中小企業」の協業が始まろうとしている。
次の50年、どんな未来をつくっていくか。ファインに「自分の歯ブラシをつくりたい」という人々が世界中から集まり、放置竹林などの社会課題を解決できるような技術と人材を備えた会社になる。清水さんと曲尾さん、社員たちはそんな構想を描いている。
週刊エコノミスト2024年2月20・27日合併号掲載
ファミリービジネス奮闘記 清水直子さんの場合