経済・企業ファミリービジネス奮闘記

オレンジトーキョー創業者・小高集さんの場合

小高集さん
小高集さん

 北欧風のカラフルな布草履「MERI(メリ)」を製造・販売する「オレンジトーキョー」(東京都江東区)を創業した小高集(つどい)さん(51)は、終戦後間もなく創業した「小高莫大小(メリヤス)工業」の後継ぎだった。しかし、父親との対立で会社を追われ「ムリヤリ第二創業」の道を歩んだ。小高さんがまず挑んだのは、顧客ニーズに基づかず、自社の論理で製品を作ってしまう「プロダクトアウト」からの脱却。その苦闘を追う。(清水憲司・毎日新聞経済部)

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店頭に並ぶ布草履「メリ」
店頭に並ぶ布草履「メリ」

 第1章 逆転の発想で新商品開発

 メリヤスとはなんでしょう? ニット(編み物)の古くからの呼び名です──。小高さんの自己紹介はこんなふうに始まる。

 ビジネススーツの生地のように伸縮しない織物に対し、セーターやトレーナー、ポロシャツ、肌着など伸び縮みするのが編み物。莫大(ばくだい)に伸縮するから、「莫大小」という漢字が当てられたという説がある。

 東京都墨田区の両国地区は、江戸時代からメリヤス産地として知られてきた。西欧から輸入された靴下が始まりとされ、下級武士の内職として定着。明治以降は、隅田川を挟んだ馬喰(ばくろ)町に洋服の卸問屋が集積し、両国にはメリヤス職人が集まった。

 かつては肌着が中心だったが、戦後の高度成長を経て服装の西洋化が進み、次第にアウター(外着)にも使われるようになった。「ポロシャツは片方の袖がなくても売れた」。父親からそう聞いたのを覚えている。それほどメリヤス業界は繁盛していた。

傾く経営「八方塞がりの日々」

 団塊ジュニア世代。高校は1学年17クラス、生徒約750人のマンモス校だった。漕艇(そうてい)部に所属し、全国高校総合体育大会(インターハイ)に出場。多摩川でボートをこぐ青春を送った。父の会社を継ぐつもりだったから、大学生の頃から千葉県松戸市にある取引先の工場に通い、編み機操作の修業を積んだ。微妙な柔らかさが求められるニットは、編み機の設定に独特な感覚が必要だからだ。大学を卒業し、1996年、小高莫大小工業に入社した。

 バブル崩壊を境に、国内繊維産業は縮小に転じた。コストカットの嵐が吹き荒れ、生産は次々に中国に移管されていった。そうした中でも、襟や袖といったパーツ品は、多くが国内に残った。細かい仕事が必要なため、中国に移すのはリスクがある。そんな判断をしたアパレルメーカーが多かった。

 経営が傾き始めていることに気づいたのは、2005年、社長になった時だ。税理士から決算書を見せられ、「売り上げが02年から下がっている」と知らされた。それまでは工場長のような立場で、経営は父親が取り仕切っていた。気づかぬうちに、足元まで中国移管が進んでいた。

「みんな、何か良いアイデアはないか」。会議を開いても、社員はうつむくばかり。ワンマン経営者だった父親が長年、何事もトップダウンで決めていた。アイデアを出し合う社風ではなく、下請けだったから独自の製品を生み出すノウハウも経験もなかった。とにかく作ろう。ニットのボックスティッシュ入れにブックカバー。出来上がってみると、うれしくなったが、さっぱり売れない。「自分でも買うとは思えないものを売ろうとしていた。まさに『プロダクトアウト』だった」と振り返る。落ち続ける売り上げ。実りのない日々。八方塞がりの状況に焦りが募った。

一本の電話が生んだ逆転の発想

 転機がやってきたのは09年春。突然の電話だった。電話の主は、青森県八戸市の布草履の職人、高橋勝さん。縫製工場から出る残反(ざんたん)を使って布草履を編んできたが、相次ぐ工場閉鎖で材料が手に入らなくなったという。同業の仲間に声を掛け、残反を提供すると、お礼に一足の布草履が送られてきた。「なんだ、この心地よさは」。ニットのことは知り尽くしているつもりだったが、足に触れる初めての感覚に驚いた。「商品開発を手伝ってほしい」。すぐさま高橋さんに電話をかけた。

小高集さん(中央)と布草履職人の高橋勝さん夫妻(小高さん提供)
小高集さん(中央)と布草履職人の高橋勝さん夫妻(小高さん提供)

 布草履に適したニットひもの開発に着手した。柔らかさ、硬さ。編みやすいか、編みにくいか。試作品を次々に送り、意見を求めた。1年後、完成した製品をネット通販で売り出すと、あっという間に完売した。それまでとは全く異なる手応え。本格展開を心に決めた。

 当時の製品は、販売価格3600円ほど。職人が編むのに3時間かかる。時給を考えただけでも、この値段ではビジネスにならない。ならば8000円で売れる商品を作ろう。取引先から決められた納期と単価に沿って製品を作ってきた小高莫大小にとっては、まさに「逆転の発想」だった。とはいえ、ことが一気に進んだわけではなかった。商品販売の第一歩になるカタログ制作はデザイン会社に30万円を支払う必要があるという。「デザイン会社って汗をかいていないんじゃないか」。ものづくりに没頭してきたからこそのためらいだった。

 ところが、自信を持って応募したフランスの家具・インテリア見本市「メゾン・エ・オブジェ」に書類審査で落選し、出品さえ許されなかった。和風な布草履は海外で受けるはずと思い込んでいたから、いくら考えても落選の理由が分からなかった。「自分では理解できないところに答えがあるはずだ」と思い直して、デザイン会社にブランディング(ブランド構築)の協力を依頼することにした。

オレンジトーキョーの布草履「メリ」
オレンジトーキョーの布草履「メリ」

 布草履を8000円で売るには、どんな戦略が必要か。ターゲットを40代女性に設定し、彼女たちが好みそうな北欧をイメージしたデザインにする。難航したのは、商品の世界観を示す上で最も重要なブランド名だった。

 デザイン会社から数十の候補の説明を受けたが、どれもしっくりこない。デザイン会社が推す「メリ」は、すぐさま却下した。「メリヤスの『メリ』なんて安易すぎる。楽な仕事をさせてなるものか」。デザインという仕事への警戒心が残っていた。会議を始めて2時間半。「小高さん、メリヤスといっても、もはや死語でしょう」と言われて目が覚めた。「メリヤス屋さんのブランドなんだから『メリヤス』をイメージする言葉が入っていてもいい。いや、入れるべきだ」と畳み掛けられて「この人たちも汗をかいてくれている」と気づかされた。自社の視点にとらわれた「プロダクトアウト」からの脱却。新商品が生まれた瞬間だった。

新たな課題 布草履職人の確保

 1足を編むのに3時間。売りに出せる商品を編めるようになるには1年近くの修業が必要だから、アルバイトを募集して何とかなる話ではなかった。知人へのプレゼントや趣味として編みたい人は多かったが、仕事としてコンスタントに編んでくれる職人を探すのは難しかった。そこで、東京・両国で布草履のワークショップを開設することを思いついた。そこに参加してくれる人なら手仕事が好きに違いない。もしかしたら仕事として布草履を編んでくれるかもしれない。「ワークショップの本当の狙いはスカウト。そうでないと人材が確保できなかった」。12年秋、ようやく3人の職人候補を見つけられた。

 メリのブランディングは順調に進んだ。念願だったパリの展示会に続き、国内の展示会にも出展。それが国内百貨店各社の目に留まり、次々に取引が決まっていった。「ぜひ成田空港に出店してください」。13年2月に東京都内であった雑貨展示会の会場で、突然、大きな提案が舞い込んだ。

 翌年の空港ビルのリニューアルオープンに合わせて、メリの直営店を出してほしいという。小高莫大小は袖や裾のパーツ品を中心に生産してきた町工場。当然ながら自前の店を運営したことなんてなかった。

成田空港に出店! 「海外で作るしかない」

 それでも、二つ返事で出店を決めたのは「こんなチャンスは二度とない」と考えたからだ。布草履が売れるのは主に夏場。日本を訪れる外国人観光客に買ってもらえれば、通年で販売できるようになる。そんな場として空港はぴったりだった。空港に店舗を開く。約1年半後のオープンに向け、ますます職人の確保が急務になった。

布草履の編み方を習うベトナム人女性たち(2013年撮影、小高さん提供)
布草履の編み方を習うベトナム人女性たち(2013年撮影、小高さん提供)

 欠品を出すわけにはいかない。自らを追い込む形になった小高さんは「海外で作るしかない」と思い切り、知人のつてを頼ってベトナムに飛んだ。農村では、農作業の合間の内職として籐(とう)細工をする器用な女性が多くいる。なによりベトナムにはおしゃれなアジアン雑貨のイメージがあり、メリのブランド構築の邪魔にならないと考えた。編み方を教えるため、月1回、ベトナムに通う日々が続いた。

 13年は、販売の最盛期に当たる6~8月にかけて、日本各地で開かれる百貨店の催事に飛び回った。社内の誰かが手伝ってくれるわけでもなく、自ら商品を運搬し、売り場に立った。福岡、大阪、京都、静岡、横浜、そして東京……。会社全体の売り上げの1割を上げるまでに成長したが、社長が1カ月以上、会社を留守にすることになった。「オヤジが『あいつは何をやっているんだ』と息巻いている」。同じく小高莫大小に勤める弟から電話が入った。先代社長の父親が毎日夕方になると、会社に現れ、不満をぶちまけているという。

 久しぶりに会社に戻った、その日。自分の足元が掘り崩される事態が待ち受けていた。

 第2章 まさかの社長解任、新会社設立

 実は、少し前から親子の関係はぎくしゃくしていた。「売り上げが落ちている」と外部の人に包み隠さず話す集さんに、父親は「そんなことを言っても何の得にもならない」と腹を立てていた。加えて前年末、年末調整の作業中に、父親に「扶養家族」がいることが分かった。全く知らされていなかったが、父親は再婚していたのだ。

家族旅行中の小高集さん(右)と父(1998年撮影、小高集さん提供)
家族旅行中の小高集さん(右)と父(1998年撮影、小高集さん提供)

 再婚に異議を唱えるつもりはなかった。しかし、父親が約6割を保有する小高莫大小の株式の行方が気になった。後妻に株式の多くが渡ってしまえば、のちのち混乱のもとになるのは明白だからだ。「株のことはしっかりしておいてほしい」。そう念を押したが、父親は確証を与えようとしなかった。

父が決めた株主総会「もしかして…」

 漠然とした不安を感じながら、久しぶりに戻った会社。父親から手渡された「臨時株主総会」の紙を見ると、父親を含む4人の株主に加え、本来は出席する必要のない社員も招集されていた。その頃、特別な議題があるわけでなかったから「これは自分をつるし上げるための場だ」と直感した。開催は2013年9月7日。あと1週間しかない。はらわたの煮えくりかえる思いになったが、約6割の株式を握る父親に対抗しても勝てる見込みはない。「社長解任」まで残された時間はわずかだった。

 父親は社長職を譲った後も、なぜ自分の一存で社長解任を決められるだけの株数を手放していなかったのだろうか。はっきりした理由は分からない。自分が大きくした小高莫大小について、売上高の減少を公言する小高さんに腹を立てていたのかもしれない。小高さんが手掛ける「メリ」が順調に伸びていることに嫉妬していたのかもしれないし、後妻の将来を案じていたのかもしれない。理由が何であったとしても、自分で後継ぎに据えた息子を解任する──。その手段を残していたのだ。

 予想通り、臨時株主総会では業績不振を理由に父親から一方的に責められ、社長を解任された。経理として勤めていた妻も同時に解雇が決まった。社長として12年間、繊維業界全体に吹く逆風をはね返すために駆けずり回り「メリ」という新規事業も成功させつつあった。それなのに、渡されたのは、積み立てていた退職金300万円だけだった。経営者だったから、失業保険は受けられない。翌月から無収入になることが確定した。

 そんな状態でも、頭の中を埋め尽くしていたのは、翌年、成田空港にオープンするメリ直営店のことだった。空港会社や百貨店との契約は、小高莫大小の名義だったから、とにかく早く新しい会社を設立して契約先を新会社に変更するしかない。41歳。全力疾走の日々が始まった。

会社を追われて「ムリヤリ第二創業」

 退職金300万円は全て新会社の資本金に充てると決めた。社長解任前から相談を始めていた税理士や司法書士の助けを借りて準備を急ぎ、かつて通っていた地元の後継者育成塾「フロンティアすみだ塾」の経営者仲間の紹介で、解任翌日には地元信金の門をたたいた。

「もう自営業はやめて」。新会社設立に奔走する小高さんを見て、ある日、妻が切り出した。手には引っ越し会社の求人広告。「今すぐ面接に行ってほしい」と泣かれた。

 小高莫大小で経理の仕事をしていた妻も同時に解雇され、収入が途絶えていた。翌年には長男の高校受験がある。妻の気持ちはよく分かった。「いろいろ考えてから結論を出させてくれ」と答えたが、心は決まっていた。「やるしかない」。メリを編んでくれる職人たちの顔が思い浮かんだ。

 社長を解任されたことは、誰にも言えなかった。状況をきちんと説明できないまま、その情報が独り歩きしてしまえば、契約変更に応じてもらえなくなるリスクがあったからだ。愚痴をこぼすことも、弱音を吐くこともできない日々。解任された悔しさ、将来への不安、苦しい家計……。「めちゃくちゃな思い」を押し殺して、一人で黙々と動き回った。

多忙な日々支えたメリの確かな人気

 社長解任から1カ月。新会社「オレンジトーキョー」の設立にこぎ着け、空港会社や百貨店に契約の名義変更に応じてもらえた。地元信金から創業支援資金として1000万円の融資を受ける時には、ハンコを持つ手が震えたが「もうメリ一本しかない。本当に本気で事業を成り立たせないといけない」と決意は一層強くなった。それまで以上に、展示会や百貨店、職人確保のため、国内外を飛び回った。

オレンジトーキョーを創業した頃の小高集さん(本人提供)
オレンジトーキョーを創業した頃の小高集さん(本人提供)

 この「ムリヤリ第二創業」を支えたのは、メリの確かな人気だった。14年には成田空港店に加えて、東京都墨田区に本店「メリコティ(MERIKOTI)」を開店した。1年目に2500万円だった売り上げは、翌年には2倍に急拡大した。その年末、取引先への振り込みを全て終えた時、会社の当座預金に3万円しか残っていないことに気づいた。急成長する企業にありがちな資金繰りの逼迫(ひっぱく)だったが、危うく不渡りを出しかけた。とにかく作って、とにかく売る。それに頭がいっぱいで資金繰りにまで目が行っていなかったのだ。

「自分は経営者になったんだ」。不思議とその時初めて実感できた気がした。小高莫大小では、長男の自分は生まれた時から社長になることが、半ば決まっていた。人柄が良かったり、ちょっとしたアイデアがあったりするだけでも、社長は務まったかもしれない。

 しかし、今は違う。製品だけでなく、資金繰りまで目を光らせてトータルで事業展開を考えないといけない立場になっていたのだ。

 第3章 もう一度継ぐ!「攻め」の経営

 小高さんのストーリーはこれで終わらなかった。

 2019年4月18日、父親ががんで亡くなり、新たな難題が持ち上がった。実家の小高莫大小が事実上、経営者不在になってしまったのだ。自分を追い出した会社の経営を再び継ぐなんて思いもしなかったが、放っておくわけにもいかなかった。

負の遺産処理 次々に浮かぶ難題

 6年半ぶりに決算書を見ると、おかしなことに気づいた。父親が持っていた約6割の株式が、父親の後妻や古参社員らに贈与されていた。父親の意図はもはや分からなかった。しかし、古参社員3人に贈与された株式を合計すると4割近くになり、株主総会で拒否権を行使できる株数だった。将来、小高さんが小高莫大小に戻った時に、古参社員らが逆に追い出されることのないようにする狙いがあったと想像できた。

 ところが、古参社員にとって、株式の贈与は重荷でしかなかった。「退職金代わりに」と受け取ったかもしれないが、非上場株である小高莫大小の株式を換金するのは難しい。一方で、無借金・無配当経営だったため、株式の評価額は高く、時間がたてば自分の子どもが相続することになり、多額の相続税を背負うことになる。父親はそんな事情を告げずに、古参社員に株式を贈与していたのだ。

 難題はもう一つあった。父親が生前「投資で会社を助けてやる」と豪語していた株式投資で4000万円の損失を出し、さらに1億円を超える含み損を抱えていることが分かった。

「父はあなた方を窮地に追い込みました。この状況をどうしますか」。古参社員らに父親が残した「負の遺産」を全て知らせた。

 株式の重荷に気づいた古参社員は「何とかしてください」「なかったことにできませんか」と言ったが、贈与の手続きに不備はなく、もはや後戻りできないことを説明した。会社を清算する選択肢もなくはなかったが、それでは古参社員らは失業してしまう。口々に「社長として戻ってきてください」と懇願した。

 追い出された会社をもう一度経営する──。そう決意を固め、古参社員らに「僕の方向性に共感してもらえないなら、辞めてもらいます」と告げた。繊維業界を取り巻く環境は正直、厳しい。しかし「敗戦処理にはしない」。20年3月、自分と弟を共同代表とする新生・小高莫大小がスタートを切った。

力を結集し「町工場」から脱却

 社長だった自分を追い出した後、会社の売上高はいったん回復したものの、ほどなく減少に転じていた。中国への生産移管で、日本の繊維産業全体が苦境に陥る中、古参社員が定年を迎えるまで会社を維持し、やがて廃業する選択肢もないわけではなかった。それでも「攻め」の経営を決意したのは「もうすぐ自分も50歳になる。自分が楽しいと思えないことに時間と労力を費やしたくない」と感じたからだ。

 「町工場」から脱却する──。小高さんが描くのは、カラフルな北欧風の布草履「メリ」でデザイン力を培ったオレンジトーキョーと、創業70年の実績と信頼があり、アパレルメーカーなど幅広い取引先を持つ小高莫大小の力の結集だ。

 これまで小高莫大小は、袖や襟といったニットのパーツ品を、アパレルメーカーの注文に従って生産してきた。しかし、自前のデザイン力があれば「こんな製品が作れます」と提案型の仕事が可能になる。オレンジトーキョーとしても、自前の生産力を持てれば、繊維小物を中心に製品の幅を広げられる。

 そのために技術力を上げよう。二つの決断をした。一つは最新設備の導入。そして23年ぶりの新入社員の採用だ。それは会社を長く存続させるという決意を形にすることでもあった。

新生・小高莫大小工業の社員たち。中央が小高集さん(同社提供)
新生・小高莫大小工業の社員たち。中央が小高集さん(同社提供)

 かつては手堅さを身上とする父親の影響で、現有の機械、社員、素材の中で、やり繰りすることばかり考えていた。金融機関から資金調達したり、新しい社員を採用したりするなんて思い付きもしなかった。当時は「八方塞がり」と感じていたが、オレンジトーキョーの起業を成し遂げた今なら違う。最新の編み機を導入するには約6000万円かかるが、新型コロナの影響に苦しむ中小企業を支援する東京都の助成金を活用することにした。「コロナの今だからこそチャンスなんだ」と思い切った。

新しい挑戦「ニッチなものづくり」

「変わっていこう」。2歳違いの弟が入社して以来23年ぶりの新入社員の採用には、そんなメッセージも込めた。専門学校でニットについて学び、21年4月に21歳で入社した女性社員はさっそくCAD(コンピューター支援設計)を駆使する最新編み機の操作方法を習得し、オレンジトーキョーのデザイナーとともにオリジナルのハイブランド向けパーツ品を次々に試作。まだまだ規模は小さいが、新進ブランドとの取引が始まった。

小高集さん
小高集さん

 父親を恨んだ時期もあった。しかし、自分の経営の根っこには父親と同じ考え方があると感じる。他社がマネできない、マネをしようと思わない「ニッチなものづくり」だ。大学生の頃に訪れたイタリアでは、デザイン工房と製造工場が隣り合わせにあり、優れた製品を生み出していた。オレンジトーキョーという顧客との接点とデザイン力を生かしながら、東京の一角から大量生産ではなくニッチで高付加価値な製品を作り出していく。そんな新しい挑戦が始まっている。


週刊エコノミスト2024年3月19・26日合併号掲載

小高集さんの場合

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