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67年前の二つの紛争から現在の二つの戦争の落としどころを探る 渡邊啓貴
1956年に発生したハンガリーとスエズの動乱は、現在進行中のウクライナ戦争とパレスチナ戦争の落としどころを探るうえで、示唆に富む。
昔も今もゲームの主役はロシア
いま世界はウクライナとパレスチナの二つの戦争への対応を同時に迫られている。過去をさかのぼれば、実は67年前にも同様に、東欧と中東・パレスチナの紛争が同時進行したことがあった。1956年のハンガリー動乱と第2次中東戦争、いわゆるスエズ危機である。そして、この二つの紛争は冷戦下の米ソ両国を中心とした「大国主義」によって沈静化した。この歴史から我々は何を学べるのか。
56年2月ソ連第20回共産党大会でフルシチョフ書記長は、個人崇拝の独裁体制を否定した有名なスターリン批判演説を行った。それは東欧諸国に大きな波紋を広げた。ポーランドでまず民主化運動が暴徒化、それはハンガリーにも飛び火し、10月下旬には首都ブダペストで自由化を弾圧する政府への抗議のデモ隊はついに治安当局と武力衝突するに至った。政府は即座にソ連軍の出動を要請(第1次介入)、戒厳令を施行したが、この政府の対応は火に油を注ぐ結果を招き、民衆とソ連軍との間で戦闘が繰り広げられた。
ハンガリーの騒擾
しかし国民が民主化の旗手として期待した改革派のイムレ・ナジ元農相が首相に就任したあとも騒擾(そうじょう)は収まらず、見かねたソ連はナジ政府に事態収拾能力はないと判断。一旦撤退し始めていたソ連軍は10月末から翌月初日にかけてブダペストに戻ってきた(第2次介入)。ナジ首相はハンガリーのワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言したが、ソ連軍はハンガリー人の激しい抵抗を抑え込み、11月4日には首都を占拠した。ソ連軍は10日間のうちにハンガリー全土を平定してハンガリー動乱は一段落した。
スエズ動乱の勃発
そのころ、中東ではスエズ運河をめぐる紛争が勃発していた。直接のきっかけは56年7月にエジプトのナセル大統領がアスワンハイダム建設のためスエズ運河会社の国有化を宣言したことだった。もともとこのダムの建設は、前年11月にソ連の対エジプト経済技術援助と、それに対抗する米英の資金贈与と世界銀行の資金貸与の申し入れが交差していた。しかし56年7月にアメリカが援助申し入れを撤回、イギリスと世銀がその動きにならった。ナセルの運河国有化宣言の背景にはもともと米ソの援助合戦の構図があった。
8月と9月の2回に及ぶロンドン会議で運河国際管理機関や運河利用団体などの設置案が出たが交渉は決裂、アメリカはエジプトと運河開発・運営で利益共有の話を進め、英仏を「植民地主義」と批判して対立は先鋭化した。それはエジプトを支援するソ連の立場に重なった。
そうしたなかでハンガリー事件とアメリカ大統領選挙(同年11月6日)に世界の目が向けられているすきを狙い、10月29日、イスラエルはエジプトに侵攻した。これに対して翌30日の国連の安全保障理事会(安保理)で英仏はイスラエル・エジプト休戦協定(米決議案)とイスラエル撤退要求(ソ連決議案)に対して拒否権を行使し、31日両国もエジプト攻撃を開始した。アメリカは11月2日国連緊急総会で即時停戦と原状復帰を提案し、ソ連の賛成を得て圧倒的多数で可決した。米ソの協調だった。
キーマンとなったソ連
しかしその一方でハンガリー事件も同時進行していた。11月1日、先にも述べたようにソ連軍大部隊がハンガリーに再突入したが、4日にアメリカは国連緊急総会でソ連軍撤退決議を提案、多くの支持を得て可決した。それは事態の早期収拾につながった。
二つの紛争が同時進行する中で事態の転換に先手を打ったのはハンガリーで流血の市民弾圧の行動をとっていたソ連だった。タイミングを計ったかのように11月5日、ブルガーニン・ソ連首相が米英仏イスラエルに書簡を送った。対米書簡では、スエズ紛争が第三次世界大戦に発展する懸念を指摘し、米ソがその強大な軍事力を「共同して速やかに利用し」、エジプト侵略阻止に乗り出すこと、対英書簡では、ソ連がアメリカに対して国連加盟国による統一軍を用いることを要請したと述べ、「英国の海岸に海軍や陸軍を派兵しなくても、ロケットのようなほかの手段を利用できる国(筆者注:ソ連のこと)が存在している」ので慎重を期した行動をとり、結論を出すことを促していた。
核超大国の立場からのある種の脅しである。ソ連の思惑は世界の関心をハンガリー事件からスエズ事件に向け、そこでソ連が紛争解決に尽力する姿を見せることであった。当時ソ連共産党第1書記であったフルシチョフは(『フルシチョフ回想録』(タイムライフブックス、1972年)の中で、「帝国主義者(英仏)はわれわれがポーランドとハンガリーで困難にぶつかっていたのにつけこんで、エジプトに軍隊を送り込んで植民地支配を復活させようとした」。その「植民地主義者の仕掛けた戦争(エジプト侵略)をやめさせるため(ソ連は)国際的影響力を行使した」が、それは中東にソ連が存在感を示した初めての例であった、とソ連外交の成功を誇示した。
その背景には50年代半ば当時、東西の両超大国のグリップが利いていたこと、中東情勢の混乱による第三次世界大戦の脅威が世界の指導者の脳裏をかすめたことがあった。アメリカは自らの影響力が及ばない東欧ソ連圏でのポーランド・ハンガリー紛争には関与できず、中東地域では欧州植民地大国の復活に反対する「公平政策」をとっていたため、抑制的にならざるをえなかった。それは今日のアメリカにもいえる。
単に事件発生の地域的相似性だけで歴史の再現を語るのは早計だ。しかしスターリン以後の東欧諸国の自由化の奔流もウクライナのNATO(北大西洋条約機構)加盟も、ロシアにとって自らの勢力圏への脅威に思われただろうというのは時代を超えた共通点だ。そしてウクライナ戦争が始まった直後、同じように欧州メディアでは、第三次世界大戦の脅威がまことしやかに議論された。また、パレスチナ紛争は世界で最も根の深い歴史的ナショナリズムの対立だ。アメリカはイスラエルを支持しつつ、抑制的にならざるをえない。これも共通している。
そうしたなかでロシア(ソ連)はゲームの主役だ。ウクライナをたきつけるか、説得するかは当初よりアメリカの仕事であった。他方でアラブ諸国を説得できるのは、アメリカではない。中国にその役が務まるだろうか。ロシアがスエズ危機の時のようにアラブ諸国説得に奔走する余裕があれば、米露大国間の妥協を前提に二つの紛争をセットにした同時解決の道筋が浮かび上がってくるかもしれない。それは最終解決ではないし、小国が犠牲にもなるが、流血の惨事の拡大を少しでも早く止めるためのリアリズムだ。これ以上の事態の悪化は誰も望まない。
(渡邊啓貴・帝京大学教授)
週刊エコノミスト2023年12月5・12日合併号掲載
1956年のスエズ動乱に学ぶ パレスチナ戦争の落としどころ=渡邊啓貴