習氏の訪米は「赤い2世」との政争を回避できた自信の現れか 金子秀敏
有料記事
バイデン米大統領と習近平中国国家主席の首脳会談が11月15日、米サンフランシスコで開かれた。中国側は習氏を国賓待遇とするよう求めたが、通常の会談だった。習氏は経済が急速に悪化したため、バイデン氏に頭を下げざるを得なかった。会談が決まるとそれまで反米一色の中国メディアは親米モードに転換した。
中国は、外資の流出超過、ギャラップ社など欧米企業の中国撤退というマイナスのニュースばかり。改革開放派のリーダーだった李克強前首相の急死の影響も大きい。一般大衆の間には李氏を追悼することで、実は習氏を批判する風潮が広まった。李氏とは政治的に対立していた「赤い2世」(共産党特権階級の子女)の多くが、習氏の独裁政治に不満を募らせる。
毛沢東を批判して報復され、文化大革命で非業の死を遂げた劉少奇国家主席の子、劉源上将もその一人だ。劉氏は11月6日、北京音楽庁で開かれた「劉少奇生誕125周年記念音楽会」に妹とともに出席した。毛沢東主席の外孫、周恩来首相のめい、朱徳元帥の孫・外孫、陳毅外相の子、華国鋒主席の子、秦基偉上将(天安門事件当時の国防相)の子など革命元勲の子や孫が顔をそろえた。
だが、習氏は姿を見せなかった。習氏も「赤い2世」の一人で、5年前の生誕120周年記念の会には出席したが、その後、独裁的な性格を強め、他の2世、3世を次々に倒した。彼らの資産管財人を逮捕して財産を没収し、2世たちを震え上がらせてきた。
劉氏は、音楽会に先だって11月1日、インターネット上に「党の民主集中制と集団指導制を強めよう」という趣旨の論文を発表した。父・劉少奇が1962年、毛沢東の急進的社会主義化政策をやめさせるために党幹部を集めた「7000人大会」を開き、「少数は多数に従う」原則に従わせた出来事にちなんでいる。習氏の名前はないが、習氏の独裁政治と極左的経済政策に対する批判だと受け取られている。いま「現代版70…
残り572文字(全文1372文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める