西欧中世の「書き写す」文化が写本に集積させた無名の個人史の豊かさ 本村凌二
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一昔前、大学生に化学の学習をさせるには「要点や化学式を黒板に書く」ことだと教師から聞いたことがある。ところが10年以上前から、板書しても受講生はそれを携帯で撮影してしまうようになったから残念。
膨大な古来の知識が今日に伝わるのは、千年にわたる中世に写本という形で書き写されてきたからである。15世紀半ばに印刷術が開発されるまで、「書き写す」という手作業は知識伝達の唯一の手段であった。メアリー・ウェルズリー『中世の写本の隠れた作り手たち』(白水社、5500円)は、この写本の制作について新たな視点を提示する。
写本には、そもそも書名や著者名のごとき基本情報が記されることがないばかりか、写字生(写字を職業とする人)、画工、パトロン(注文主)、後の所有者などの思惑も集積されているから複雑きわまりない。時を経るにつれ、火災、水害、盗難に出合ったり、ヴァイキングの襲撃や宗教改革など歴史的事件にも遭遇したりする。それらの災難をくぐりぬけて焦げ跡、傷跡、染みがちりばめられており、無名の個人史をひきずっている集積体である。
写本の制作過程では、なによりも本文書写と彩色作業が基本になる。写本に残された痕跡から、著者はこれに関与した人々の生き方を探ろうとする。羊皮紙のチーズ臭をかぎ、滴る蝋(ろう)の染みから夕食時の読書を想像し、挿絵の質の劣化から画工の貧困生活をのぞきこもうとする等々。
さらに自分の存在…
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週刊エコノミスト
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