国際・政治 統計
EUのインフレが23年後半に米国より沈静化したかにみえた理由を考える 登地孝行
市場の早期利下げ予想を裏切る引き締め姿勢を見せた欧州中央銀行。日米と異なる欧州の消費者物価指数が波乱要因のようだ。
「持ち家負担」を含まないEU物価統計の落とし穴
2023年後半、堅調な米国経済と対照的に映るユーロ圏の景気減速と消費者物価指数の急速な低下を背景に、グローバル金融市場では欧州中央銀行(ECB)による景気下支えに向けた早期の政策金利引き下げ観測が高まった。
ところが昨年12月の政策決定会合では、米連邦準備制度理事会(FRB)が利下げフェーズへの転換を示唆して米長期金利も低下した一方で、ECBは市場予想に反して金融引き締めを継続する姿勢を維持した。その上に、保有するパンデミック(感染症の大流行)緊急購入プログラム(PEPP)資産の24年末での再投資終了を決定し、ユーロ圏では金融環境がさらに引き締まる動きも生じた。また、24年に入っても、ラガルド総裁をはじめECB高官は相次いで市場の利下げ期待を押し戻すような情報を発信し、金融市場が織り込む利下げ開始時期も3~4月から6月以降に後退し、24年内の利下げ回数(1回0.25%想定)も昨年12月の7回超から今年3月4日時点で4回程度まで減少した。
インフレ急低下?
金融市場がECBの政策方向性を見誤った理由の一つは、政策を決定する上で参照するEU(欧州連合)基準消費者物価指数(HICP)の計測方法が他の主要国と異なることだろう。各国・地域の物価指数は、ある時点の品目ごとの支出割合をウエート(家計の消費支出に占める割合)としており、各国での消費環境の違いによって一部異なるが、通常は主要な構成品目に大きな違いはない。
ただし、ユーロ圏のHICPについては、「持ち家の帰属家賃」が算入されていない点で、米国や日本と決定的に異なっている。
「持ち家の帰属家賃」は、財産の取得となるため消費支出とされない住宅や土地の購入費用に代わって、持ち家を借家とみなした場合に支払われる家賃を推計しており、持ち家に住んでいる世帯の住宅費用を消費者物価指数に算入するために用いられている。
23年は「持ち家の帰属家賃」の有無により、ユーロ圏と米国のインフレ率の見え方に差が生じた。米国の消費者物価指数(CPI)でウエートが3割弱ある「持ち家の帰属家賃」は、インフレ率全体に遅行して粘着性が高い(低下しにくい)傾向がある。そのため昨年後半以降にCPIの鈍化ペースが落ちた要因となった。
一方で、ユーロ圏のHICPでは「持ち家の帰属家賃」が算入されていないため、前年比の伸びが昨年1月のプラス8.6%から年末に公表された11月分で同プラス2.4%となり、インフレ率が急速に低下しているように見える一因となった(図1)。ユーロ圏と同じ条件とするために、米国の帰属家賃を除くCPIを見ると、同時期に前年比プラス1.8%とユーロ圏よりも低い伸びで、FRBのインフレ目標である2%も下回っており、算定方法の違いが金融市場が認識するインフレ率にも影響を与えたと考えられる(FRBが見通しを示す個人消費支出価格指数では、持ち家の帰属家賃のウエートは15%程度)。
現在、ユーロ圏でHICPに「持ち家の帰属家賃」が算入されていないのは、域内各国の必要なデータの不足や指数を統合する際の技術的な問題が理由であり、ECB高官もHICPに含める必要性を認めている。そのため、ユーロ圏統計局とECBは共同で算入に向けたプロジェクトを進めており、ECBは「持ち家の帰属家賃」を含めた場合のHICPも想定した上で、金融政策を行う方針も示している。
物価に与える政策
近年のユーロ圏インフレ率とその見通しについて分析する場合には、指数算定方法の特徴以外にも注意すべき点がある。
22年終盤以降はユーロ圏各国のインフレ抑制策がHICPを押し下げた影響が大きく、その影響が剥落することで1月に公表された昨年12月分のHICPは、前年比プラス2.9%と伸びが再び高まった。
主要国では、ドイツの23年12月HICPは、22年12月にガス代が一部免除された影響が剥落したことで前年比プラス3.8%(23年11月は同プラス2.3%)と伸びが大幅に拡大(図2)。今年1月には、エネルギー価格割引の終了とCO₂(二酸化炭素)税引き上げによって、1月のガス料金は約7%上昇した。さらに、3月にはガスの付加価値税が7%から19%に引き上げられた。また、パンデミックの間に一時的に19%から7%に引き下げた外食にかかる付加価値税も今年に入って段階的に戻している。
同様にフランスやスペイン、イタリアなどの他の域内国でも、インフレ対策で実施されたエネルギー価格や付加価値税の引き下げは段階的に縮小されており、今年に入って公表されたユーロ圏のHICPが市場予想から上振れる一因となった。筆者が調査したところ、事前に各国のインフレ抑制策とその解除による影響をHICPの見通しに算入していた機関は国際的に見ても限られていた。
他方、米国では同時期に目立ったインフレ対策は実施されておらず、政策要因が直接的に物価指数に与えた影響は限定的であった。
足元でECBは、サービスインフレの粘着性を懸念してユーロ圏の賃金動向を見極めるとしている。ユーロ圏では労働組合の組織率が他地域と比較して顕著に高く、複数年単位で賃上げ率を決定することも多いため、賃金の景気に対する遅行性や下方硬直性も警戒される。ただし、基調的なインフレ率を左右する要因として賃金の伸びに注目が集まっている点は、米国や日本も同様といえる。
ユーロ圏のインフレ動向を国際比較も含めて正確に把握してECBの金融政策を予想する上では、国内総生産や所得環境に関連する一般的な経済指標を分析するだけでなく、HICPに「持ち家の帰属家賃」を含まないという物価計測上の特徴や各国の大規模なインフレ抑制策の影響といった落とし穴にも留意すべきだろう。
(登地孝行〈とじ・たかゆき〉かんぽ生命シェアエコノミスト)
週刊エコノミスト2024年4月2日号掲載
「持ち家負担」含めず、インフレ抑制策 欧州物価統計の落とし穴に要注意=登地孝行