抵抗の思想としての「ケアの倫理」を展開 フェミニズム政治思想の最新到達点へ誘う書 評者・将基面貴巳
『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』
著者 岡野八代(同志社大学大学院教授)
岩波新書 1364円
2020年に死去した米連邦最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグは、性差別の撤廃を求めて闘った法律家として有名である。彼女の闘いの端緒となった案件の一つは、働きながら高齢者の母親を介護(ケア)する未婚男性に対する税法上の差別だった。ケア労働はもっぱら女性が行うものだという社会通念にギンズバーグは挑戦したのである。
この例のように「ケア」は「女子供」に関する「私的」な事柄としてマージナルな扱いしか受けてこなかった。しかし、どの人も生まれてすぐから自立した存在ではない。赤ん坊は慈しみ育てられなければ生き延びることすらできない。大人であっても誰かに何らかの形で依存しなければ、自分の生を満足に生きることはできない。「ケア」が人間生活に不可欠で中心的な活動である事実を直視することで、新たな人間観、世界観、そして倫理観の展望がひらけてくる。そうした学問的考察の歴史を通覧し、今後の可能性を論じたのが本書である。
新書には珍しく哲学や心理学などの代表的文献の数々を丹念に読み解き、粘り強い思考を一歩一歩、慎重に展開することを通じて、フェミニズム政治思想の最新到達点へと読者を誘う。その核心は「人間の条件」に関する根源的な思索である。他者に依存せざるをえない人間の傷つきやすさ(ヴァルネラビリティー)を深く認識することで、多様な人々とのつながりを支えるのがケアであることを明らかにする。
ケアに着目する倫理観は、普遍的とみなされてきた倫理的原則をむやみに振り回すのではなく、ケアされる一人ひとりのニーズに応えなければならない責任を強調する。こうして構想されるのは、多様な人々の声に耳を傾けることにすべての人が責任を負う政治である。また、ケアしケアされる双方向的な人間関係から新たな社会的連帯を提唱する。さらに、このケアの倫理は、現実の政治が傷つきやすい人々の“顔をすりつぶす”ような不正を行ったり放置したりしていることを告発する抵抗の思想でもある。巻末ではケアの倫理をグローバルに平和論や気候正義にまで応用することを提唱しつつも、著者の一貫したまなざしは「政治」そのものを根源的に見据えている。例えば以下のような著者の指摘は非常に印象的である。
「わたしにとって生きるとは何か、どのような生を送ることを願っているのか、その願いと、政治をどこかで切り離していないだろうか。自らの切なる願いからこそ、政治とは何かが問い直されるべきである」
(将基面貴巳、ニュージーランド・オタゴ大学教授)
おかの・やよ 1967年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。博士(政治学)。現在、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。著書に『フェミニズムの政治学』『戦争に抗する』など。
週刊エコノミスト2024年4月9日号掲載
『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』 評者・将基面貴巳