大川原化工機事件は「特殊ケース」ではない冤罪だ 指宿信
重要秘密の定義も明らかでない「重要経済安保情報保護・活用法」が成立した今、条文の解釈次第で冤罪が生み出されるのを防ぐ仕組みが求められる。
“暴走”捜査にブレーキ不可欠
世の中に冤罪(えんざい)は数多い。報道されるような事件から身近に起きるトラブルまで、冤罪は尽きない。初公判直前に起訴が取り消されるなど前代未聞の経緯をたどった、化学機械メーカー「大川原化工機」(横浜市)の社長らの冤罪事件は「特殊ケース」といわれることもあるが、冤罪論の観点からみるとその捜査過程には典型的なメカニズムが存在し、決して特殊ケースなどではない。
実は、あまり知られていないが、冤罪は三つのケースに大別される。冤罪の本質を理解する上でも、この場合分けはとても重要だ(図)。第一は、犯罪とされる事実がないにもかかわらず、架空の被害を訴えて被害者を装い、第三者を加害者にでっちあげたりするパターンだ。第三者に示談をもちかけて金品を脅し取ったりするような場合が想定できる。これは冤罪論では「犯罪事実誤認型冤罪」と呼ぶ。
第二は、犯罪とされた事実は確かに存在するが、その事実を犯罪とは評価できないようなパターンだ。誰かにお金を借りただけなのに、お金を借りた相手から「だまされた」とか「取られた」などと文句を付けられるケースが当たる。これは「犯罪性誤認型冤罪」となる。第三は、犯罪という事実そのものは存在するが、その犯罪の真犯人と間違えられてしまうパターンだ。強盗事件が起きて目撃者が誤認したため、人違いで逮捕されてしまったようなケースである。「犯人誤認型冤罪」だ。
「解釈」次第で「犯罪」に
大川原化工機事件の場合は二つ目に該当する。同社が噴霧乾燥器(スプレードライヤー)を製造し、輸出をした事実はある。その上で、噴霧乾燥器が、外国為替及び外国貿易法の規制対象となる「滅菌又は殺菌することができる」装置に該当するとの「解釈」によって「犯罪」と誤認されたからである。
二つ目のパターンの最近の事件としては、1995年に起きた「東住吉事件」や、2008年の「クレディ・スイス証券申告漏れ事件」が有名だ。前者は、車から漏れたガソリンが風呂の種火に引火し、火事で女児が死亡した事実について、保険金目的で殺すためにガソリンをまいて放火したとして母親が起訴された(後に再審無罪)。後者は、自社株で受け取った海外給与を申告していなかったとして証券会社部長が所得税法違反で起訴された(後に無罪判決)。
これらの事件と大川原化工機事件の大きな違いは、「不正輸出」という経済安全保障事件ということだろう。そのため、警視庁で捜査を担当したのは、殺人や強盗などを扱う刑事部ではなく、テロやスパイ活動を未然に防止し、取り締まる「公安部」という組織だった。
事件の核心は、経済産業省による、輸出貿易管理令の規制対象を定めた省令にいう「定置した(分解しない)状態で内部の滅菌又は殺菌をすることができるもの」という要件に該当するかどうかだった。分解せずとも内部を殺菌または滅菌できれば、生物兵器へ軍事転用できてしまうため、輸出規制をしているのだ。大川原化工機側は、自社の当該機器はそのような機能を有していないと主張し、それを裏付ける証拠も複数あった。だが、それら証拠は無視された。加えて公安部は、この省令の解釈権限のある経産省に「確認した」として捜査を強行、東京地検もこの解釈に従って起訴に至った。
特高の流れくむ公安部
昨年12月、違法な逮捕・起訴があったとして大川原化工機の元被告らが国や東京都を相手に起こした国家賠償訴訟の判決では、東京地裁はそうした解釈について、捜査当局が温度測定などの捜査を遂行していれば、該当性がない判断に至ったとして捜査と起訴に違法があったと認めた(裁判は高裁で係属中)。事後的にではあれ、当該機器の輸出には犯罪性がないとの判断が裁判所から示された。この点は前述の2事件と共通する。
東住吉事件では、容疑者とされた母親の自白通りにガレージに火を付ける再現実験を行った結果、犯人自身が大やけどを負うことが判明し、「保険金目的で殺害した」という自白の信用性が否定されて再審に至った。クレディ・スイス事件では元社員は確かに自社株で利益を得ていたが、源泉徴収されると思っており脱税の意図はなかったという主張が認められ、1・2審とも無罪となった(東京高検が上告を断念し、確定)。「起訴状で容疑とされた事実に対する法的評価を誤った結果生まれる冤罪」という特徴は、3件に共通する。
今回の捜査に当たった警視庁公安部とは、歴史的には戦前の特別高等警察(特高)の流れをくむ。思想犯を取り締まる目的で作られた組織で、戦前は共産主義者や無政府主義者を監視・内偵していた。特高の歴史の中で、今回の事件との類似性を思い出させるのが「宮澤・レーン事件」である。
これは、太平洋戦争開戦当日の1941年12月8日、特高が諜報(ちょうほう)活動などの容疑で全国一斉検挙を行った際、北海道帝国大学工学部の学生だった宮澤弘幸氏と同大学のアメリカ人英語教師ハロルド・レーン氏、妻ポーリン氏の3人が当時の軍機保護法違反容疑で起訴された事件である。宮澤氏がレーン夫妻に軍事上の秘密を漏らし、レーン夫妻がアメリカ大使館関係者に伝えたという容疑だった。
誰でも知る「軍事秘密」も
軍事秘密とされたのは、旅行好きの宮澤氏が北海道や樺太(サハリン)地方で得た知見などだった。根室にあった海軍飛行場の存在がその例だ。ところが、この飛行場は鉄道線路に面し、地元はおろか列車の利用者なら誰でも知ることができた。当時売られていた絵はがきにも明記されていたという。
それにもかかわらず、宮澤氏に対する裁判記録によれば、その存在が軍機保護法上の「軍事上秘密」に該当するとされた。弁護人は今の最高裁に当たる大審院まで争って軍事秘密に該当しないと反論したが無駄だった。
軍機保護法とは明治時代に軍事秘密を保護する目的で作られた法律で、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指示により廃止された。同法は「職務によって軍事上秘密の事項又は図書物件を知得領有した者がその秘密であることを知ってこれを他人に漏洩(ろうえい)交付し、若(も)しくはこれを公示したときは、有期徒刑に処する」と定めていたのだ。
大審院は何がこの「軍事上秘密」に当たるかは陸海軍大臣が決定するもので、たとえ公衆が知り得る情報でも軍が秘密と言えば該当すると説明した。だが、広く知られている飛行場の存在が軍事上秘密に当たるなど宮澤氏やレーン夫妻が知るよしもない。逮捕の10年も前に有名なリンドバーグが来日飛行した際にも、飛行場の名前は広く報じられていたくらいだ。
この恐るべき解釈によって宮澤氏とレーン氏は懲役15年の、レーン夫人は懲役12年の刑を受けた。レーン夫妻は判決後アメリカに強制送還されたが、宮澤氏は網走刑務所に送られ戦後GHQの指示で釈放されたものの、間もなく病没した。夫妻は戦後日本に戻り再び北海道大学で教鞭(きょうべん)を執ったが、いまだにこの国は宮澤氏や夫妻の汚名をそそいでいないばかりか、その過ちを認めたことすらない。
録音・録画の対象拡大を
では、こうした類型の冤罪を防ぐにはどうすればいいだろうか。まず、どんな類型の事件についても共通する課題として、捜査段階の抜本的改革が挙げられる。取り調べに弁護人を立ち会わせて、無理な法解釈や当てはめがないよう助言できるようにする必要がある。現状、大川原化工機事件のような経済安保事案は取り調べの録音・録画の対象となっていないので、対象を全罪種に広げたい。
かつて宮澤氏は取り調べで特高から激しい身体的拷問を受けたという。戦後は憲法で拷問は禁じられるようになったが、現代に至っても取り調べにおいて心理的圧迫や自白の強要を受けたという訴えは後を絶たない。任意の捜査段階から事情聴取や被疑者取り調べに至るまで、一貫した録音・録画も不可欠だろう。可視化先進国である英国では、任意取り調べでも録音・録画されるようになっている。
現状では警察が検察に事件を送致する際、証拠や情報の選別が警察によって行われるため、検察の事件に対する見方にバイアス(偏り)を生み出している可能性が高い。証拠収集を警察に依存する以上、捜査機関が収集した情報や証拠、それらに基づく事件に対する評価や意見を客観的に判断する機会をいかに確保するかが肝要だ。
これには二つの方向性が考えられる。第一は、検察官にそのチェック役を期待する方向だ。現状はこの方向を採用しているが、有罪方向だけでなく無罪方向の情報や資料が全て検察に届いて、チェックが効果的に機能するような仕組みが欠けている。第二は、反対当事者である弁護人にチェック役を期待する方向だ。すなわち、起訴段階では公判に先だって検察から弁護側に有罪に関連しそうなもの、無罪に関連しそうなもの、全ての証拠の開示を義務づけたい。「事前全面開示」と呼ばれるこの方式は、誤判事件を教訓に導入する国や地域が世界中で現れている。
批判浴びる「人質司法」
最後に強調したいのは、裁判所の監督機能だ。大川原化工機事件の被告らの1年近い身体拘束は、検察の求めに応じて裁判所が認めた結果だった。米国では今年、著名大リーガーの元通訳が詐欺容疑で逮捕されたが、すぐに保釈されたのを見ても、日本の起訴前の身体拘束の異常さは明らかだ。
自白しない限り身体拘束を続ける日本の慣行は「人質司法」と呼ばれ、海外から批判を浴びてきた。被告となった大川原化工機の元顧問は勾留中に体調を崩すも、起訴内容を認めない中での保釈はなかなか認められなかった。勾留が一時停止され、胃がんと診断されるも、検察は他の社員と口裏合わせの可能性があると保釈に反対し、裁判所も追認した。こういった慣行は早急に改めるべきだろう。
国会では5月10日、「重要経済安保情報保護・活用法」が成立した。経済安保上の機密情報を扱う民間事業者を身辺調査するセキュリティー・クリアランス(適性評価)制度の導入などが柱だが、法律の目的である「秘匿を必要とする秘密」の定義が曖昧だとの批判がある。経済安保は重要だろうが、大川原化工機の事件や宮澤・レーン事件が示すように、条文の解釈次第で冤罪を生み出す恐怖は昔も今も変わらない。まして今回の立件は、捜査主任が功を焦って生み出したと部下にまで批判される始末であった。宮澤・レーン事件もまた、太平洋戦争開戦日に合わせて立件し、戦意を高揚させる目的で作り上げられた冤罪事件だった。
世界がますます混沌(こんとん)とし、国家が経済安保に重きを置く今、この事件を特殊ケースで済ませてはいけない。暴走する恣意(しい)的な捜査活動にブレーキをかけられる仕組みをこの国で確立しておくことは時代を超えた要請であろう。
(指宿信〈いぶすき・まこと〉成城大学法学部教授)
大川原化工機事件
経済産業相の許可を得ずに噴霧乾燥器を海外に不正輸出したとして警視庁公安部が2020年3月、同社の社長、取締役(当時)、顧問(同)の3人を外為法違反容疑で逮捕し、東京地検が起訴した。無実を訴える社長らの勾留は約11カ月に及び、その間に胃がんが見つかった元顧問は被告の立場のまま死亡した。地検は21年7月、起訴内容に疑義が生じたとして、社長と取締役の起訴取り消しを東京地裁に申し立て、認められた。
冤罪事件の当事者に聞く
「捜査に協力も聞く耳持たず 海外の新規取引を失った」大川原正明・大川原化工機社長
検察が自ら起訴を取り下げても、説明すらまったくない──。冤罪事件の当事者が感じたのは、あまりの理不尽の数々だった。(聞き手=荒木涼子・編集部)
── 大川原さんら3人は、噴霧乾燥器を海外に不正輸出したとして、外為法違反(無許可輸出)容疑で2020年3月、逮捕・起訴された。
■警視庁による18年10月3日の家宅捜索以降、任意の事情聴取が続き、私は40回、海外営業担当の取締役だった島田順司さんは39回、技術顧問で亡くなった相嶋静夫さんは18回、社員の半数超も合わせ、合計300回近い聴取を受けた。不正輸出などしていない。きちんと協力し、データと根拠を挙げて説明した。だが、捜査員はまったく聞く耳を持ってくれなかった。
── 21年2月に保釈請求が認められるまで、約11カ月間も勾留が続いた。
■逮捕時に警察の留置は2カ月くらいだろうと弁護士に聞いた。だがコロナ禍を理由にされたのか、結局4カ月も警察の留置施設に置かれた。複数人が同じ部屋に入り、食事はいわゆる「冷や飯」。体力的にも精神的にも非常につらかった。
その後も拘置所に移り、6回目でようやく保釈請求が認められた。検察が21年7月に起訴を取り消した際、説明はまったくなかった。起訴内容を認めないからこそずっと勾留され、真実を訴えるほど長くなる。しかもストーリーありきの事情聴取。人質司法そのものだ。
── 会社の経営に影響は?
■家宅捜索で書類やパソコンなどが押収され、最初の3カ月間ほどは本当に厳しかった。設計の図面など過去に納入した製品の資料がないため、納入先での故障などに即応できない。逮捕後は銀行からの融資も止まり、手元資金で回すしかなくなった。何が外為法の規制に該当するのかが分からなくなり、輸出の際はすべて(外為法における審査業務を担当する)経済産業省に許可申請するようにした。海外の輸出先にも通常なら不要な手続きを求めなければならず、新規の取引はほぼなくなった。海外の売上高比率は10~15%だったため、痛手だった。幸い、多くの国内の取引先は取引を続けてくれ、助けられた。
── 冤罪(えんざい)事件に巻き込まれても、会社が存続できた秘訣(ひけつ)は?
■一つは長年培った当社独自のノウハウがあったからだと思う。医薬品用でも電池材料用でも、相手先の用途、設置場所などに合わせて常にベストなものを納入できるのが強み。また、営業マンもエンジニアも、常に顔の見える付き合いを取引先と行い、独立して自分の頭で考えて判断してもらってきた。
トラブルになればこちらが引き受けるが、普段は現場で判断してもらっている。結果、私自身が1年半いなくても、会社は回ってくれた。事件が原因で辞めた社員は1人もいなかった。本当に社員には感謝している。
週刊エコノミスト2024年5月28日号掲載
大川原化工機事件の教訓 「特殊ケース」ではない冤罪 “暴走”捜査にブレーキ不可欠=指宿信