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「物価と賃金の好循環」に“悪い円安”が立ちはだかる 実質賃金の目減りを防ぐ円買い介入 吉川裕也

鈴木俊一財務相は6月4日の閣議後記者会見で「(4~5月の為替介入に)一定の効果があったものと考えている」と述べた
鈴木俊一財務相は6月4日の閣議後記者会見で「(4~5月の為替介入に)一定の効果があったものと考えている」と述べた

 1ドル=160円を超える過度な円安は実質賃金の目減りを通して好循環の芽を摘みかねない。インフレ経済の定着には、円買い介入が必要な場面もありそうだ。

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 財務省によれば、4月26日~5月29日の外国為替平衡操作額は9兆7885億円と、巨額に上った。鈴木俊一財務相は、介入の動機について「投機的な動きを背景とした過度な変動に対応するため」としているが、一言で変動といっても、ボラティリティー(ボラ)や値幅などの質の違いがある。筆者は、2022年の介入の動機は主としてボラ、今回は値幅にあったと考えている。

値幅+ボラ=17%で介入

 22年9月22日に円買い介入を実施した時のボラ(3カ月実績、以下同様)と値幅(3カ月前比、以下同様)はそれぞれ12.2%と5.5%、同年10月21日の介入時は12.6%と8.5%で、ボラが10%を超えており、介入の目的は相場の急変を緩和する「スムージング」にあった(図1)。

 ところが昨年秋以降、「年初来で20円以上の値幅も一つのファクター」(23年10月)、あるいは「年初来わずか1カ月強の間に約10円も円安になった」(24年2月)という値幅を意識した表現が増加した。

 円買い介入の余波で積極的に円を売り崩そうという動きが下火になったことで、ボラは低下する一方、着実に円安が進んでいたことが、値幅重視の発言につながったとみられる。介入があったとみられる今年4月29日のボラと値幅はそれぞれ7.9%と8.6%、5月2日は8.2%と7.6%で、22年の介入時よりボラの水準が低く、介入の動機は「一方向への累積的な動き」を是正する水準訂正へと移ったと考えられる。

 自動車の運転に例えると、ボラも値幅も高水準だった一昨年の介入時は高速蛇行運転、ボラはほどほどでも値幅が大きい局面での今回の介入は、まっすぐ走ったうえでのスピード違反と評価できよう。どちらも危険運転には変わりなく、本邦当局の取り締まり対象となったといえる。

 興味深いのは、過去のデータからは、値幅とボラの和が17%付近に達すると介入に入る可能性が高いという法則性が見いだせることである。

円安が実質賃金減らす

 円買い介入で1ドル=160円のラインを防衛したことは、実質賃金の先行きを占ううえでも重要な意味を持つ。円安は輸入物価の上昇を通じて半年程度後の国内の財(モノ)価格に影響を及ぼす。4~6月期の為替相場が1ドル=150円で推移する場合をベースラインに置き、これが1ドル=160円になると0.2%ポイント、170円の場合は0.4%ポイントそれぞれ物価が押し上げられる。

 一方で、厚生労働省発表の『賃金引上げ等の実態に関する調査(令和5年)』で示された「改定後の賃金の初回支給時期別企業割合」を基に、24年春闘のベア3.5%(当研究所予想)が実際に賃金に反映されていく道筋を予想すると、4~6月期に46%、7~9月期に86%、10~12月期に92%の企業が反映済みとなり、それとともに「毎月勤労統計調査」における所定内給与の伸びも高まっていく。

 現金給与総額の伸びが所定内給与の伸びと同じと仮定すると、1ドル=160円のケースでは10~12月の実質賃金は、どうにか前年比プラスを確保できるものの、1ドル=170円のケースではマイナスとなる(表)。円買い介入で4~6月期の為替水準を押し下げたこと(ドル安・円高)は、個人消費主導での景気回復基調を実現する上で意義があったと評価できる。

 もっとも、米5月雇用統計は底堅く、円安・ドル高リスクはくすぶり続けている。7月以降に円安が進んだ場合の25年1~3月期の物価押し上げ効果(ベースライン:1ドル=155円)を計測すると、1ドル=160円で0.3%ポイント、170円で0.5%ポイントそれぞれ押し上げると試算できる。実質賃金は依然、為替相場の動向次第で大きく目減りするリスクを抱えている。円安と実質賃金をめぐる緊張関係は25年の所得環境を見据えた局面へと移行しつつある。

介入カードは重要

 25年以降の賃金動向を占ってみる。以下のモデル分析によれば、22年まではデフレ下の慣行(賃金と物価が上がらないことを前提とする行動様式)が根強かったが、23年から24年にかけては賃金設定行動が明確に積極化しており、好循環の萌芽(ほうが)が確認できる。この流れを維持できれば、25年から26年にかけても高水準の賃上げ率が期待できるが、好循環が腰折れすれば、デフレ時代に逆戻りする可能性もあろう。

 過去の春闘賃上げ率を追うと、前年度の生産性と物価の伸び、並びに失業率との相関が確認できる。ただ、日本で金融危機の最中にあった1998年を境に構造変化が生じている(図2)。すなわち、生産性、物価、雇用情勢により機動的に賃上げ率が動いていた時代(75~98年、インフレモデル)から、賃下げも賃上げも行われにくい時代(99~2023年、デフレモデル)への移行である。

 これは、バブル崩壊と金融危機を経験した企業並びに労働組合が、雇用と給与水準の維持を優先した結果、不況時(生産性が低下し、失業率が上がる局面)でも賃金が下がりにくくなった一方、好況時でも上がりにくくなった様子を示している。

 しかし、23年はデフレモデルの推計値からの明確な乖離(かいり)(推計値:3.0%、実績値:3.58%)がみられ、24年についてはインフレモデルに完全に回帰したようにみえる。インフレモデルを適用した24年の推計値は5.2%と、5%台の平均賃上げ率が予想される24年春闘の動向とおおむね整合的になっている。

 このままインフレ経済を定着させるためには、賃金と物価の好循環が実現する必要があるが、1ドル=160円を超える過度な円安は実質賃金の目減りを通して好循環の芽を摘みかねない。

 日銀の性急な利上げが経済に悪影響をもたらすことを踏まえれば、財務省が保持する介入カードは、転換期の日本経済にとって引き続き重要な意味を持つといえるだろう。

(吉川裕也〈きっかわ・ゆうや〉明治安田総合研究所エコノミスト)


週刊エコノミスト2024年7月2日号掲載

物価・金利・円安 介入の経済学 悪い円安が立ちはだかる「物価と賃金」の好循環=吉川裕也

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