オリンピックの商業化は問題なのか 石井泰幸
有料記事
今夏はパリで、オリンピックとパラリンピックが開催された。オリンピックでは、日本が金メダル獲得数において、アメリカ、中国に続く3位となる活躍を見せた。また、パラリンピックでも、日本は参加した難民選手団を含む168の国と地域のうち10位と非常に健闘した。周知の通り、オリンピック・パラリンピック(以下、単に五輪)は、異なる国籍、人種、イデオロギー等を背景に持つ人々をスポーツという共通の価値観によってつなぐという平和の祭典である。一方で、近年ではその商業主義的性格がしばしば批判の対象となっている。例えば、前回の東京大会に際しては、スポンサー契約をめぐる汚職事件が発生したが、この事件についても五輪とビジネスとの距離が大きな問題となった。
現代の五輪は、近代五輪と呼ばれ、古代ギリシアにおけるオリンピアの祭典をフランスの教育学者ピエール・ド・クーベルタン男爵が現代によみがえらせたものであるが、クーベルタンはイギリスにおける人格形成としてのスポーツのあり方に感銘を受け、結果として、スポーツにおける営利目的を排したアマチュアリズムが五輪の中心理念に置かれることになった。このようなクーベルタンの意思を汲むのであれば、本来、五輪とはフェアプレーやスポーツマンシップの精神の涵養といったスポーツを通じた人格陶冶の場でなければならない。一方、ビジネスなどの営利的な考え方は、利己心がその背後に常に見え隠れする以上、人格形成という五輪の趣旨にはそぐわないということになる。
実際、オリンピアの祭典が行われていた古代ギリシアでは、プラトンやアリストテレスといった哲学者によって人間の善き生に関する探究が行われていたが、彼らの哲学では利己心が背後にある商業は人間の道徳的な生き方に反するとされた。また、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と捉え、人間の文化の本質が「遊び」にあると論じ、現代のスポーツが職業化していく中で「遊び」の要素が失われていく様子を嘆いている。
ホイジンガによれば、「遊び」とは、日常生活とは時間的に空間的にも隔絶された独自のルールが存在する領域でなされる人間の営為であり、「真面目」の対極にある。例えば、ボードゲーム、スポーツ、鬼ごっこなどの子供の遊びであっても、そこには日常と異なるルールが存在しており、それを破ることに対してはペナルティが宣告される…
残り3064文字(全文4064文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める