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小泉今日子の心意気 第3回 「私はこう」と決めたことがない 松尾潔

 小泉今日子の語られざる「精神の軌跡」を、俊英作家が描き出す大反響連載。内田裕也、崔洋一、筒美京平、田村充義といった個性的な表現者たちと共働し、まるで「七変化」のように、自らの新たな面を見せていく小泉流エンターテインメントの神髄とは?

 昨年末、内田也哉子(1976年2月11日生)の22年ぶりのエッセイ集『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』が上梓(じょうし)された。同書は2018年9月に母・樹木希林(享年75)を、翌19年3月には父・内田裕也(享年79)をたてつづけに喪(うしな)った彼女の回復の物語。15人のゲストを招いて対話を行い、それをもとにエッセイを綴(つづ)る形式をとっている。独特の筆致が生みだすリズムを摑(つか)むまでにやや時間を要したものの、親が逝くことで生まれた心の空白は悪いことばかりではないという彼女の考えには大いに共感する。 冒頭で也哉子はこの国で最も有名な詩人・谷川俊太郎(31年12月15日生)を迎える。つづいて二人目のゲストとして登場するのは小泉今日子である。

 姉妹だ。

 この顔合わせを見て、ぼくはまずそう感じた。より具体的に言うなら、ふたりとも「内田裕也の娘」なのだ。なぜなら、小泉は83年7月に公開された崔洋一の第一回監督作品『十階のモスキート』で、うだつが上がらない中年警察官と離れて暮らす高校生の娘役で映画デビューをはたしているが、次第に精神が病んでいく主人公の警察官は内田裕也が演じているのだった。映画を企画した内田裕也は、崔とともに脚本も書く大車輪の活躍ぶり。公開時、裕也は43歳、小泉は17歳、也哉子は7歳。

『十階のモスキート』撮影時の記念写真。中央(後)が内田裕也、その左が崔洋一監督。©C2崔洋一事務所
『十階のモスキート』撮影時の記念写真。中央(後)が内田裕也、その左が崔洋一監督。©C2崔洋一事務所

 内田裕也と樹木希林は、也哉子が生まれる前から別居婚を続けていた。也哉子が実質シングルマザーの樹木に育てられたことはつとに知られている。父親とは年に一度、父の日にふたりきりで会うだけだった。

 では「姉」である小泉の実生活はどうだったか。

◇小泉と内田也哉子は姉妹だった!? 

自著『黄色いマンション 黒い猫』や、これまでに受けたインタビューで、小泉は自分が10代のころの家庭事情をかなり詳(つまび)らかに語ってきた。かつてはTBSに勤務していた彼女の父親は、起業してカセットテープを作る会社を経営していた。世田谷区に本社を置き、小さなプレハブの工場2棟が厚木の自宅そばにあった。だが会社はやがて経営難に陥り、小泉が14歳のときには一家離散の憂き目に遭う。いわゆる「夜逃げ」である。経営難はほどなくして解決したが、母とふたりの姉は父との別居を続けることを選び、小泉だけが父とふたり暮らしをすることに。以来、家族5人が一緒に暮らすことは一度もなかった。悲壮な印象さえ与えかねない状況だが、小泉はこの時期をふり返って「ウマが合う父とのふたりだけの生活は冒険みたいで面白く楽しかった」と語るのが常である。

 ちなみに小泉が樹木希林と初めて共演したのも85年のドラマ『女の一生』(芸者の娘という実生活とも重なる役柄)というから早いが、「妹」の也哉子と会うのは95年まで待たねばならない。その年の2月に小泉は永瀬正敏と、7月に也哉子は本木雅弘と結婚した。小泉29歳、也哉子19歳。永瀬と本木がそろってヨウジヤマモトのパリコレクションに出演することになり、それぞれ夫に同行した「姉妹」は初めての対面をパリではたす。実家にはテレビがなく、海外生活も長い也哉子は、かつて「姉」と夫がトップアイドル同士(しかも同期)だった過去をよく知らず、ゆえに小泉とは身構えることもなく打ち解けることができた。

◇アナーキーの仲野茂と映画で共演

 国民的歌手の沢田研二と、英国パンクバンドの嚆矢(こうし)セックス・ピストルズへの日本からの回答ともいわれたアナーキーのレコードを、姉妹で手分けして買っていた小泉は、中3で出場した人気オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)で石野真子の「彼が初恋」(80年。作詞・有馬三恵子、作曲・筒美京平)を歌って合格する。契約した事務所は、石野が所属していたバーニングプロダクション、レコード会社もやはり石野と同じビクター音楽産業。余談ながら「彼が初恋」も南沙織の「ふるさとの雨」の改作カバーである。『十階のモスキート』で、小泉はなんとアナーキーのボーカル仲野茂(60年1月2日生)と共演する。

小泉 大晦日(おおみそか)の「ニューイヤー・ロック・フェスティバル」(73年から現在まで毎年開催されている、内田裕也が始めた年越し音楽イベント)をテレビで観ていて、アナーキーが鮮烈でした。姉と「カッコいいね!」と盛り上がったんです。

松尾 『十階のモスキート』でアナーキーの仲野茂さんと代々木公園の原宿門前で踊るシーンがありますよね。

小泉 そうなんです。茂さんに、「私、レコード買いました」と言いました。

松尾 撮影現場でアイドルからそう言われるとはきっと意外でしょうし、仲野さんも嬉(うれ)しかったでしょうね。 仲野と小泉が大音量のロックンロールにあわせて踊り、内田裕也がそれを恨めしそうに見守る場面は観る者の胸をざわつかせる。小泉はアナーキーだけを、あるいはパンクロックだけを偏愛していたわけではない。むしろジャンルを選ばず音楽を幅広く聴いていたからこそ、見栄(みえ)も衒(てら)いもなく仲野に直接「レコードを買いました」と言うことができたのではないか。

小泉 中学時代はディスコ全盛期だったので、アラベスクから入って、ブロンディなどのディスコミュージックも聴いていました。YMOとか、近田春夫さんがプロデュースしたジューシィ・フルーツとか、みんなで聴いていました。ムード歌謡も、洋楽も、アイドルも、ポップスも、ロックも、いろんな音楽が全部インプットされていました。

松尾 素材としての音楽はたっぷり吸収していたけど、デビュー当時はどんな形でアウトプットすればいいのか、分からなかったということですか。小泉 デビューしたころはなんの権限もなかったですし。「私のせいで暗い曲になっているのかな」と思っていたぐらいでした(笑)。 

 アラベスクは西ドイツで結成された女性3人組のボーカルグループ。前号で紹介した同国のボニーMやスペインの女性デュオ・バカラの世界的人気に触発されて作られただけあって、海外戦略に長(た)けていた。日本ではビクター音楽産業のセールスプロモーションが奏功し、デビュー曲「ハロー・ミスター・モンキー」が78年にオリコン総合チャートでトップ10入りするなど大きな成功を収めた。

 ビクターの小泉今日子初代担当ディレクターは飯田久彦(41年生)。のちにテイチク会長まで務めるこの有名業界人は、「ルイジアナ・ママ」の大ヒットで知られる元歌手であり、小泉と同じように『スター誕生!』に出場したピンク・レディーを発掘した実績があった。自他ともに認めるカバー好き。小泉のシングルがデビューから2曲続けてカバーになったのも彼の意向だった。だがリリースを重ねるごとに、小泉やスタッフは正統派アイドル歌謡路線に疑問を抱きはじめる。ほんとうにこの子に合っているだろうか、と。

 そしてディレクターは1974年入社の若手、田村充義(51年生)に替わる。松田聖子風のヘアスタイルもショートカットとなり、イメージを一新したのが83年5月リリースの5枚目のシングル「まっ赤な女の子」。主演単発ドラマ『あんみつ姫』(フジテレビ。その後2回、計3回作られた)の主題歌である同曲は、作詞に早稲田大学短歌会出身の俊英・康珍化(53年6月24日生)、作曲にヒットメーカー筒美京平(40年5月28日生)、編曲に四人囃子(プログレッシヴ・ロック・バンド)、プラスチックス(ニューウェイヴ・テクノポップ・バンド)の元メンバー佐久間正英(52年2月29日生)という、いずれも小泉にとっては初顔合わせの布陣で作られていた。

 田村が最も腐心したのは「花の82年組」をはじめとする、ほかのアイドルとの差別化。糸井重里や仲畑貴志といったコピーライターの活躍に注目が集まった時代に、シングルのタイトルをキャッチコピー化したことも田村の功績のひとつだろう。

◇筒美京平は小泉の生々しい声に反応

小泉 田村さんが、当時レギュラー出演していた番組の現場に来てくれて、空き時間に「どんな音楽を聴いてるの?」と尋ねてくれました。私を子ども扱いせずに、ひとりの人間として向き合ってくれて嬉しかった。

松尾 僕の知る田村さんのイメージどおりです。若い人に対しても態度を変えず、敬意を持って接してくれるし、とんねるずの「一気!」や「雨の西麻布」を手がけたように、面白いことも大好きという。

小泉 センスがすごくいいし、ユーモアもあるんですよね。「人と同じ」ということに価値観を置いていない人でした。私もそういうタイプだったし、田村さんとはいまだにお付き合いさせていただいています。

松尾 「花の82年組」が順番待ち状態だった筒美京平さんとの出会いも大きかったのでは。

小泉 たくさん曲を作ってもらいました。私、歌はあまり上手ではないんですけど、特徴はあるでしょう?

松尾 僕が初めてお会いしたころから、小泉さんはずっとそうおっしゃっていますね(笑)。

小泉 歌声に特徴があったので、それをどう活(い)かそうかと筒美さんも面白がってくださったんだと思います。

松尾 例えば「魔女」(85年)は、小泉さんの声質の特性ありきの曲ですよね。

小泉 「まっ赤な女の子」も、「子」でオクターブ上がるメロディになっていたり。「この子はこういう仕掛けを入れればキャッチーにやるな」みたいな感じだったんだと思う。

松尾 京平先生はそこに色っぽさを感じていたのでは。当時40代前半。田村さんとはまた違ったところで、10代の小泉さんを素材として面白がっていたはずです。僕は21世紀に入って5年ほど京平先生と仕事をご一緒させていただくのですが、個性的な声質の歌手がお好きでしたから。平山みきさんの鼻にかかった低い歌声を偏愛したり。きっと小泉さんの声も大好きだったと思います。

小泉 当時は何も考えてなかったけど、筒美先生を偲(しの)ぶ配信ライブをやったときに「こんなにたくさん書いてもらったんだ」と改めて思いました。田村さんの力もあったにせよ、やっぱり私を面白がってくれていたんだな、と。

松尾 田村さんに対しては「新しいヒットを作るためには自分より若いディレクターと組まなければ」という勘が働いて、それがかの「なんてったってアイドル」(85年。作詞・秋元康、編曲・鷺巣詩郎)に結実したと言うこともできます。

小泉 と思えば、(耳にやさしいバラードタイプの)「夜明けのMEW」(86年。作詞・秋元康、編曲・武部聡志)も作ってくださって。 ヒットシングル以外にも小泉今日子の歌う筒美京平ワークスは聴きどころが多い。なかでも特筆すべきは筒美がすべての楽曲を書き下ろした84年のアルバム『Betty』だろう。シングル曲は1曲もなく、すべて未発表の新曲というこのコンセプトアルバムには、背伸びした先の大人の雰囲気が漂う。小泉自身が認めるように、そのボーカルはスキル的にはまだ拙さが散見される。だがそこには一般的な「美声」の定義から逸脱する生々しい発声の瞬間が不規則に埋め込まれているのだ。本来ならベッドルームでしか聴けないような、生理的な何か。芸能という虚構から不意にこぼれ落ちるリアル、と言ってもいい。これこそは小泉の表現者としての最大の魅力のひとつである。筒美京平のレーダーがそれを取り逃すはずはない。超高解像度で画像をキャプチャーし、そのデータを「美」に昇華させる演算力=作曲能力の凄(すご)みよ!

◇私という素材で遊んでもらうのが好き 

 全10曲の編曲はすべて船山基紀(51年生)。弱冠26歳で手がけた沢田研二「勝手にしやがれ」で77年の日本レコード大賞を受賞した鬼才は、ここでは当時1500万円もした最先端のシンセサイザー、フェアライトCMIを全編に導入。一聴すれば瞭然の「新しくてお洒落(しゃれ)なサウンド」は流行音楽として最大の担保になっている。

 作詞は康珍化が4曲、銀色夏生(60年生)が3曲、森雪之丞(54年生)が2曲、そして松本隆(49年生)が1曲。このアルバムで、筒美は小泉今日子という格好の素材を得て、自分の後半生のベストパートナーにふさわしい作詞家の公開オーディションを敢行したのでは。そんな意図さえ勘ぐりたくなる野心的な作品集だ。

松尾 「まっ赤な女の子」「ヤマトナデシコ七変化」「バナナムーンで会いましょう」。京平先生と康さんの組み合わせには特別なものがありましたね。

小泉 あと、橋本淳(39年生)さんも。

松尾 「半分少女」(83年)。もちろんですね。京平先生の初期ベストパートナーと呼べる作詞家ですから。こういう話をしていると、僕は96年に小泉さんと初めて会ったときに聞いた言葉を思いださずにはいられませんね。「私という素材でいろんな人たちに遊んでもらうのが好き」。

小泉 自分で「私はこういうものだ」と決めたことがないから。

松尾 ジュリーとアナーキー、どちらも好きな感性がある(笑)。

小泉 「黒い服で」と言われたら、黒い衣装を着て、「次は赤い服で」と言われれば、赤い衣装に袖を通す。「一貫性なんて別にどうでもいい!」みたいな感じ。

松尾 けれど、お洋服にしても、自分が好きなものもあるんでしょう?

小泉 その日の気分で着たいものはあるけれど、「こういうタイプのものしか着たくない」というこだわりは特にないです。いろんな服を着れるから面白い。そうでないと役者もできないです。OLの役だったら、それを思う存分楽しみたい、という発想ですね。 

 音楽談義はシームレスに役者論に移行していく。表現という大義の前では歌と演技の違いなんて些細(ささい)なものと言われているようでもある。そう、ぼくはこんな話を聞きたくて小泉今日子に会いにきたのだ。<サンデー毎日8月11日号(7月30日発売)より。以下次号>


■こいずみ・きょうこ 歌手。俳優。1982年「私の16才」で芸能界デビュー。以降、テレビ、映画、舞台などで活躍。既成のアイドルを超えて、サブカルチャーの象徴的存在に。2015年から代表を務める「株式会社明後日」では舞台制作も手がけ、自前のエンターテインメントを探る。また文筆家として『黄色いマンション  黒い猫』(スイッチ・パブリッシング、第33回講談社エッセイ賞)、『小泉今日子書評集』(中央公論新社)などの著書がある

■まつお・きよし 1968年生まれ。作家・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー。平井堅、CHEMISTRY、JUJUらを成功に導き、提供楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。日本レコード大賞「大賞」(EXILE「Ti Amo」)など受賞歴多数。著書に、長編小説『永遠の仮眠』、エッセイ集『おれの歌を止めるなージャニーズ問題とエンターテインメントの未来』ほか

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