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アフガンを支援=中村哲・医師 問答有用/710 

    中村哲 医師(撮影:佐々木龍)
    中村哲 医師(撮影:佐々木龍)

     アフガニスタンで30年以上にわたって医療支援や農業の復興に取り組んできた。「100の診療所よりも1本の用水路」と言い続けるのは、現地に必要なのは何よりも水だと考えているためだ。

    (聞き手=池田正史・毎日新聞「ニュースがわかる編集室」記者)

    「医師は仮の姿。飢えや渇きは薬では治せない」

    「用水路を完成させたい── 現地の人たちのエネルギーで緑豊かな土地に変貌した」

    ── アフガニスタン東部のクナール川流域で進めている農地復活のための「緑の大地計画」では、2020年までに1万6500ヘクタールの地域を緑豊かな地に再生し、65万人が暮らせるようにする目標を掲げています。

    中村 目標に向けて現在、用水路をはじめかんがい施設の建設を進めています。今では9割以上の建設が進み、20年には計画通り完成する見通しです。

     現地には今年1月、用水路の維持や管理、建設に必要な技術を教えるための訓練所を建て、指導を開始しました。農業関係者や土木技術者、地主ら年間300人を対象に、主に実践を重視した訓練を行っていきたいと考えています。

     同時に、周辺地域を中心に、20年以降を見据えて新しく用水路を建設する計画を検討しています。

     中村哲さんは1984年から、アフガニスタンとの国境に近いパキスタン北西部でハンセン病を中心とした医療支援に取り組んできた。ところが00年夏、パキスタンやアフガニスタンなど中央アジアが大規模な干ばつに見舞われ、活動も大きな変化を迫られる。「医療支援の一環」として、水問題に取り組むことになったのだ。

    干ばつがきっかけ

    ── 水問題に取り組むきっかけは、干ばつだったそうですね。

    中村 地球温暖化によってパキスタンやアフガニスタンを含む中央アジアの山岳地帯の雪解けが加速し、大洪水が発生。周辺一帯の水をコントロールできない状況に陥りました。現在は砂漠化が進んでいます。

     その結果、1200万人が被災し、数百万人が餓死寸前の状態に陥る状況に見舞われたのです。水が不足すれば、農産物も収穫できません。食べ物がなくなれば、栄養失調になって抵抗力も落ち、感染症や病気にかかりやすくなります。赤痢やコレラなどの腸管感染症にかかる子どもが増え、せっかく診療所にたどりついたのに、待合室で診療を待つ間に子どもが亡くなることもありました。文字通り、集落が丸ごと消える状況も目の当たりにしました。

     そんなありさまだったにもかかわらず、アフガニスタンは01年、米同時多発テロをきっかけとして、米国など多国籍軍による空爆の標的になりました。西側の報道では、テロの実行組織タリバンだけを狙った「ピンポイント攻撃」などと強調されました。でも実際には無差別攻撃です。飢えの中で爆撃を受けて街や市民が無傷でいられるはずはありません。かえって国際社会の支援が届きにくい状況を招いてしまいました。

    自分たちで用水路建設

    ── アフガニスタンでは、まず、どんなことに取り組んだのですか。

    中村 食べ物を得ることができなくなった市民に対し、食料や水の配給を続けながら、かんがい施設の修復を始めました。

     まず取りかかったのは、地下水を利用する「カレーズ」と呼ばれる地下水路の再生です。しかし、40本ほど直したのに、水はすぐに枯れてしまいます。約1600本の飲料用井戸も掘りましたが、水脈が変わるなどして、やはり水が使えなくなってしまうケースもありました。

     そこで、安定的に水を調達するためには、大きな河川から取水するしかないと考えました。

    ── それが03年に着工した「マルワリード用水路」ですね。

    中村 アフガニスタン東部を流れるクナール川から取水する全長27キロの用水路を作り、クナール州からナンガルハール州一帯3000ヘクタールを潤す計画です。

     ただし、実際に工事に取りかかると大変な苦労が待っていました。用水路を掘ったり整地したり、土砂を運んだりするための機械や道具が十分にありませんでしたから。仕事をお願いする業者もいませんでした。

    ── となると全部、自分たちでやらなければならない。

    中村 当時はアフガニスタン政府も公共投資に充てる予算が十分にない状況です。そのため、現地の人たちが自分自身でメンテナンスできるものを作らなければならないと考えました。

     日本から支援するのは比較的簡単です。しかし、仮にコンピューターで制御する油圧電動式の水門を河川に取り付けたとしても、現地には水門を動かすのに必要な電気もありませんし、水門を管理する技術者も思うように確保できません。必ずしも、新しい技術やモノを取り入れることがよいわけではないのです。現地に合った支援が必要です。

    かんがいする前のアフガニスタン東部のスランプール平野(2003年)(ペシャワール会提供)
    かんがいする前のアフガニスタン東部のスランプール平野(2003年)(ペシャワール会提供)

    日本の伝統技術を参考

    ── その際、日本の伝統的な技術が参考になったそうですね。

    中村 アフガニスタンの河川は急流が多く、水位差の大きな日本の河川と共通点があります。農地も、日本と同様に、山間部や小さな平地など限られた土地に集中していることが多い。農地に水を届ける仕組みを作ろうと思ったら、似ている点が少なくないのです。

     何か参考になるものはないかと調べるうち、生まれ故郷である九州・筑後川中流の福岡県朝倉市にある「山田堰(ぜき)」に行き着きました。

    ── どんなものですか。

    中村 江戸時代の1633年に、新田開発のため、筑後川から水を引く目的で作られた取水堰です。大小の石を川の流れに対して斜めに敷き詰めることで川の流れを弱めて、用水路に水を引く構造です。石を斜めに敷き詰めることから、「斜め堰」とも呼ばれます。

     作られた当時は、もちろんショベルカーやダンプカーなどはありません。でも、今でも全体の形や石はほぼそのままで、現役で機能しています。

     見つけた時には「これだ」と思いました。石材を河川に対して斜めに設置するため、壊れにくい。電気を使わずに、川から水を引くこともできます。アフガニスタン人はもともと、住居など建造物に石材を多く用いていましたから、石材の扱いにも長(た)けています。その意味でも、アフガニスタンに適した工法だと思いました。

     現地では用水路の側面に、針金で作ったかごに石材を詰める「蛇かご」を用いることにしました。コンクリート製の壁材を用いるよりも、設置や修理が簡単です。蛇かごの後方にはヤナギの木を植え、しっかりと固定できるような工夫も取り入れました。

    通水から4年後。一面が緑で覆われた(2010年)(ペシャワール会提供)
    通水から4年後。一面が緑で覆われた(2010年)(ペシャワール会提供)

    着工6年で通水に成功

    ── 昔ながらの工法を用いたということは、作業も大変だったでしょう。

    中村 最も苦労したのは、用水路を通すガンベリ砂漠です。夏場は気温が52度にも達し、水も一滴もありません。

     用水路の終点近くに位置し、計画でも最終盤にあたるところでしたが、そんなところで作業すれば、犠牲者が出る恐れがあるのでやめようと提案したこともありました。しかし、現地の人たちは作業の手を止めません。

    ── 現地の人たちの熱意はどこから出てきたのでしょう。

    中村 作業を手がける人たちの中には、内戦によって住むところを奪われた人もいます。家族がばらばらになり、食べ物も十分にない状況に置かれていました。彼らの願いは、1日3食、ふるさとで家族と一緒に食事を共にすることです。用水路が完成しなければ、みじめな難民生活を続けるしかありません。だから、何としてでも用水路を完成させたいという猛烈なエネルギーに駆られていました。

    ── 着工から6年余りたった09年8月には通水に成功しました。

    中村 現在では砂漠だったとは思えないほど、緑豊かな土地になりました。用水路が延びていくごとに、草や木も生えるようになります。今では野菜作りや畜産、田植えも行われているほどです。水が届くようになると、荒れた村も少しずつ復活し、人の交流も活発化します。

     活動を続ける中で「100の診療所よりも1本の用水路」と言い続けてきましたが、こうした状況を目にすると、水の力を改めて実感します。

    ── 用水路は今、どのように運営されているのですか。

    中村 運営は地域の自治組織に委ねています。アフガニスタンにはもともと、地域に自治組織があり、地域への影響力も強い。自治組織が地域の秩序を保っていて、彼らに決めさせると物事もうまく運びます。

    中村哲さんが操作する取水堰を改修作業中のショベルカー(2011年)(ペシャワール会提供)
    中村哲さんが操作する取水堰を改修作業中のショベルカー(2011年)(ペシャワール会提供)

    チョウに魅せられて

     そもそも、活動の端緒となったパキスタン北西部の医療活動に参加したのは、チョウに魅せられていたことが大きいという。

    ── パキスタンやアフガニスタンにはもともと関心があったのですか。

    中村 30代半ばだった1978年、そのころ所属していた山岳会を通じて、(アフガニスタン北東部の)ヒンズークシ山脈を訪れたのが、パキスタンやアフガニスタンとの出会いです。もともと大の昆虫少年で、一度モンシロチョウの原産地を訪ねてみたかったのです。

     昆虫が好きになったのは、小学校の同級生の父親が昆虫マニアだった影響を受けたのだと思います。昆虫好きでしたから、本当は農学部に進みたいと考えていました。勉強も苦手でしたが、両親は訳もなく大学への進学を許してくれそうもありません。親を説得するためにも、親が望んでいたような優等生になろうと考え、勉強に取り組むようになりました。医学部に進んだのは、当時は九州にも少なくなかった医療過疎地の問題を何とかしたいと考えたことも理由の一つです。

     ヒンズークシ山脈を訪れた後、ある海外医療支援団体から、パキスタンの医療支援への参加を呼びかけられたため、すぐに手を挙げました。

    ── パキスタンでは当初、どんな活動に取り組みましたか。

    中村 北西部ペシャワルでパキスタン政府のハンセン病根絶5カ年計画に参加しました。ハンセン病の多発地帯はマラリアやデング熱など感染病の巣窟でもあります。

     地方部には、病院や診療所のない地域も少なくありません。活動を続けるうち、活動地域が山岳地帯やアフガン難民キャンプにも広がっていきました。

     現地でまず、面食らったのが貧しさです。ほとんどの人が、たった数十円のお金が足りないために薬が買えないことも少なくありませんでした。薬が手に入らないため、亡くなってしまうこともあります。どうすればより多くの人に医療を届けることができるかを考えてきました。

    ── 今では土木工事のほうが本職のようですね。

    中村 どこに行っても、医者に見られることはありません。医師は仮の姿で、土木が本業かな、と思うこともあります。

     初めは医療活動でも、その後、次々と日本に帰ることができなくなるような事情ができて、結局は30年以上もこの地にいます。まさに神様に召された、としか言いようがありません。

     大事なのは、与えられた場所でいかに力を尽くすか。深く考えないようにしながら、その時、その時の仕事に全力で取り組んでいます。

    ── 日本に帰りたいと思うことはありませんか。

    中村 若いころはやせ我慢もできましたが、最近は帰りたいと思うこともあります。帰国して、お茶漬けを食べたり、ひと風呂浴びたりした時などはやはり安心します。家族をほったらかしにしてきた罪滅ぼしをしたいと考えることもあります。一方で、アフガニスタンでは高齢者を大事にする風潮が残っていますから、「こっちのほうがいいな」と思うこともあります。最近はそんな複雑な心境の中で活動に取り組んでいます。

    「家族で食卓」取り戻す

    ── 今年2月には、アフガニスタンへの貢献が認められ、ガニ大統領から国家勲章を授けられました。

    中村 私たちの取水方式が認められ、公共工事などにも採用してくれる形になりました。大統領は我々の方式を「当国のスタンダードに」と明言してくれました。

     アフガニスタンでは少なくても、あと20年は活動を継続したいと考えています。それが国の安定にもつながると信じています。そのために今、ペシャワール会でも必要な体制を整えています。とにかく、みんなが三度三度、家族でご飯を食べる幸せを味わうことのできた昔の状態を取り戻したいと思っています。


     ●プロフィール●

    なかむら・てつ

     1946年福岡市生まれ。73年九州大学医学部卒。NGO「ペシャワール会」現地代表、PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長。国内の診療所勤務を経て84年パキスタン北西部ペシャワルの病院に赴任。ハンセン病を中心にパキスタンに逃れたアフガニスタン難民の診療にも携わり、アフガニスタンへも活動範囲を拡大。井戸や用水路の建設など現地の農地復興に取り組む。著書に『天、共に在り』(NHK出版)、『アフガン・緑の大地計画』(石風社)など。

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