週刊エコノミスト Onlineワイドインタビュー問答有用

落語が“再発見”された 桂米團治=落語家 問答有用/729

    「襲名10年でようやく自分のペースを保てるようになりました。小米朝時代はずっとあたふたしてましたから(笑)」
    「襲名10年でようやく自分のペースを保てるようになりました。小米朝時代はずっとあたふたしてましたから(笑)」

     落語界のサラブレッドとして、華のある話芸で人気を集める五代目桂米團治さん。芸歴40周年と還暦の節目に重責も担い、上方落語をけん引する。

    (聞き手=やまだりよこ・演芸ジャーナリスト)

    ── 落語家として活躍しながら、2018年には米朝事務所の社長にもなりました。異例のことですね。

    米團治 いやあ、社長業は大変です。経営者になって初めて社員と芸人両方の気持ちと要求がわかったという感じです。そこでどう折り合いをつけていくのか、我慢もしながら落としどころを探っている最中です。

    ── 芸とはまた違う配慮が要る。米朝さんは社長にはならず、落語に専心しました。

    米團治 だから、「広告塔みたいにしてたらよろしいやん」と言う人もいました。でも、今はそんな気楽さで運営はできません。かと言って、人の上に立つなんて気持ちでやれば、その瞬間に足元をすくわれる気がします。会社は支え合う共同体なのでね。

     米朝事務所は父の桂米朝が当時のマネジャーと共同で1974年に立ち上げた芸能事務所。東京落語界とは異なり、上方落語家の多くは「吉本興業」「松竹芸能」「米朝事務所」のいずれかに所属する。米朝事務所には大所帯の米朝一門の約50人が所属している。

    ── そうした責務も、芸歴40周年の節目ならではでしょうか。これまでを振り返ってどんなふうに感じていますか。

    米團治 そもそも、私は桂米朝という噺家(はなしか)の家に生まれて、しかも長男だったから、という理由ともつかない理由で落語家になった。どこかの師匠の元へお願いに行くというような、たたくべき「門」がなかった。生まれ育ったのが門の中なんですから。

     ついた名前が「小米朝」。米朝という偉大な師匠の息子という一目瞭然の名であり、それに甘んじ、どこかで利用し、一方でなぜこういう形で落語家になったのかと忸怩(じくじ)たる思いがずっとありました。

    ── お父さん似の男前で初舞台から脚光を浴び、一方で常に偉大な父と比較され「桂七光です」と自分を揶揄(やゆ)したこともありました。けれど船場商家(せんばしょうか)やお茶屋の噺を十八番(おはこ)にして、上方らしい華も笑いもある芸を築いてきた。天職だったのでは。

    米團治 天職というと聞こえはいいですが、もう潰しがきかないですからね(笑)。

    「これよりほか、でけまへんねん」という年齢になりました。それが還暦ですよね。今まで積み上げてきた芸をどう生かすかを考える年齢になったと感じています。

    二枚目で明るく華のある話芸が魅力
    二枚目で明るく華のある話芸が魅力

    米團治襲名は天の声

    ── 「五代目桂米團治」襲名から10年でもあります。

    米團治 実は、一番感慨深いのは「襲名10年」なんですね。「え、もう10年?」という驚きと焦りと諦観があります。私はまさか自分が米團治になるなんて思ってもいなかった。東京のように真打ち制度がない上方は、最初についた名前が変わらずに終わる人がほとんどです。そんな中で昔の名跡を継げと言われるのは、めぐり合わせとしか言いようがない。ある日突然、襲名話が持ち上がり、大師匠の米團治の名が私に降りてきた。天の声だと思っています。

     先代の四代目桂米團治は戦後間ない1947年、若き中川清(桂米朝)が弟子入りした師匠。四代目は戦前から斜陽の一途をたどる上方落語を死守した巧者と言われたが、51年に急逝。その後、桂米朝は上方落語を復興・隆盛へと導いた最大の貢献者として人間国宝となり、東西落語家初の文化勲章を受章した。その陰で、師匠の四代目米團治は忘れられた存在になっていった。

    ── 襲名は転機になりましたか。

    米團治 「米朝の師匠」と言っても誰も知らない名で、私の襲名で57年ぶりの名跡復活になりました。だから、30年間名乗った小米朝の名には感謝もしていましたが、もう名前で勝負するんではなく、「もっと芸に精進せえ」「上方で培われていたものを大切にせえ」と道を示されているのかなと思いました。「團」という字はもっぱら遊ぶ、ひと所に集まった人がワーっと楽しむという意味合いだと字引にあった。そういう名の力を信じて、もがかず、あくせくせずに歩んでいこうと。でも、ギリギリ及第点のような感じで来た。最近やっと75点ぐらいになったかな。80点以上にはしたいですね。

    ── 具体的に変わったことは。

    米團治 舞台であまりウケなくても焦らなくなったことかなあ。伝えるべきことは伝えようと、自分のペースを保てるようになりました。小米朝時代はずっとあたふたしてましたから(笑)。うっかりの失敗もたくさんありました。まくらでもお笑い草としてしゃべっていますけど、天満天神繁昌亭こけら落としの口上で桂歌丸師匠(18年7月死去)を三遊亭歌丸と間違えて呼んだり、舞台で米團治と言うべきところを「このたび五代目桂春團治を襲名いたします」と言ったりね。襲名してから、そういう失敗はなくなりました。

    襲名披露興行であいさつをする米團治さん(右端)と師匠の米朝さん(左端、2008年)
    襲名披露興行であいさつをする米團治さん(右端)と師匠の米朝さん(左端、2008年)

    父米朝の教えを体感

    ── 15年3月に米朝さんが亡くなり、落語界とファンにとって非常に大きな喪失でした。どんなふうに受け止めましたか。

    米團治 米朝は亡くなるずっと前から、少しずつどんどん老いていきました。落語ができなくなる、フリートークも怪しくなる、好きだったお酒が飲めなくなる、タバコも吸えなくなる、やがて何もわからない状態になる、そうして1回、危篤状態にもなった。そんな流れを私はずっとそばで見ていて、「ああ、きれいに枯れていきはるなあ」と思ったんです。いずれ、大輪の花も枯れます。だけど、身にしみこんだ品格は枯れない。というのを私に学ばせつつ、米朝は旅立っていきました。

     葬儀で喪主をつとめた米團治は涙は見せず、弔辞で小学校3年の時に1度だけ父兄参観に米朝が弟子を伴って来てくれ、「ああ、がんばってんな」と言ってすっと帰ったこと、めったにない2泊3日の家族旅行でも米朝はひたすら新聞を読んでいたことをしみじみと述懐。「父は偉い先生であり、家でもずっと米朝だった。でも、介護をするようになり、やっと父親だなと実感した」と語った。

    ── 米朝さんは一門の中でも米團治さんを特別扱いしなかったそうですね。あの弔辞で改めて息子で弟子でもある複雑な立場をかいま見た気がしました。

    米團治 それでも、とにかく、米朝あっての私でした。これからは本当に自立して責任を持たないといけない。前年に母も亡くなり、人間って死ぬんやとまざまざと感じました。ただ、両親を見送ることができたので、一つは親孝行できたかなと思っています。

    ── 上方落語は06年開場の天満天神繁昌亭に続いて、今年第2の定席になる神戸新開地・喜楽館ができました。噺家は増え続け、現在、上方には約270人がいます。入門者は後を絶ちませんが、落語はお金を稼ぐ職業としてどうでしょうか。

    米團治 昔は第一線に上がれない人は全く違うアルバイトをして生計を立てていた。でも、寄席小屋ができておすし屋さんや公民館などからもどんどんお声がかかるようになった。今、上方の噺家で落語以外のバイトをしている人は皆無と言えるほど、落語で生活ができています。無数に落語会があるから、動いてる限りは鳴り物の手伝いなどで小遣いもいただける。だから、頑張り次第ですが、落語家って食える商売になってきたんです。

    晩年の米朝さんと自宅で
    晩年の米朝さんと自宅で

    世界へ発信できる芸能

    ── 今の落語界をどんなふうに見ていますか。

    米團治 平成が終わっていく今の時期は、落語界にとっても本当に変わり目でしょう。落語という素材がいろんな媒体で扱われ、多くの人が落語を再発見して、落語を聞くことが一つのステータスになってきている。常連さんもありがたいですが、新しいファンをどんどん開拓していけるのはうれしいことですね。

    ── 米朝さんに続いて三代目桂春團治さんが16年1月に亡くなり、四天王が築いた一時代の終わりを感じました。落語の世界も変化しているのでは。

    米團治 六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝とともに、戦後の上方落語の基盤を築いてリードしてきた、その四天王がみんな鬼籍に入られた。昨年、月亭可朝兄さんも亡くなりました。実は今、上方で師匠が生きている噺家って少ないんです。重しになって叱る師匠の存在は大きい。だから、伝統的に落語の世界で守られてきた規律や秩序も危うくなってきている。それが怖いですね。噺家の仁義や魂を示し、「芸ってこれなんだ」と言い続ける師匠も少なくなった。でも、それぞれが誠実に自分の芸のことを思い、お客様のことを思ってやっていれば、見えない力で良い方向に導かれていく気はしています。

     今、3人の弟子を育て米朝のDNAを次の世代に伝えている。「モーツァルトの生まれ変わり」と自称するほどのクラシック好きでもあり、幼少時から日本舞踊やピアノを習った素養は育ちの強み。周囲に気を使う繊細さは笑顔に隠して、上方の落語道に精進してゆく。今年、「還暦&噺家生活40周年記念」の独演会を全国で30公演予定している。

    ── 上方落語協会の副会長にも就き、後進たちのことを考える立場になりました。

    米團治 私が指導する年齢になってきたんだとひしひし感じます。でも、できるのは落語の精神を伝えることしかない。自分の高座の姿を見せて、直接の対話でちょっとずつ伝えていく、それをわかってくれる若者をどれだけ育てられるかにかかっているでしょう。

    ── その芸や精神は、米朝さんから受け継いだ「米朝イズム」と言えるものでしょうか。

    米團治 そうですね。「米朝イズム」は一言で言えませんが、芸の息遣いや間、口調から楽屋での行儀、物の考え方まで全部と言えば全部。それらが合わさって米朝落語の味わいや空気感、品につながる。品とは何かを説明するのは難しいですが、芸に品がなくなったら本当にダメになります。何より、先人からいただいた噺を自分なりに咀嚼(そしゃく)して普遍的な笑いをはずさずに次世代に渡す、ということを米朝は大切にしました。私も含め弟子らが学んだことです。

    ── 落語の今後をどんなふうに見ていますか。

    米團治 ずっとスマホを見ている人でも、開演中はスマホを手から離します。それってすごく貴重な時間。特に落語はみなさんの想像力で一緒になって作っていく、たまたま集まった人たちが1人の落語家の芸で一つになって笑う、思えば不思議な世界です。ある人が「落語って最高のバーチャルだ」と言いましたが、本当に同感。だから、若い人にも見直されてるんだと思う。落語がめざすのは、お客様に少しでも幸せになってもらい、来てよかったなあと感じてもらうこと。落語は何かしら心の糧にもなるのではと思っています。

     米朝がよく言っていました。「落語が滅ぶなんて、こっから先も思ったことがない。こんなおもろいもんが廃れるはずはない」と。落語は決してなくならないし、私は受け継いだ落語の魂というバトンを若い世代に伝えていきたい。国際社会の中でも、日本が誇る文化として発信できる芸能だからです。


     ●プロフィール●

     かつら・よねだんじ

     1958年大阪市生まれ。本名・中川明。故桂米朝の長男。78年関西学院大学文学部在学中に米朝に入門し、桂小米朝を名乗る。同年10月初舞台。2008年に五代目桂米團治を襲名。オペラと落語が合体した「おぺらくご」などでも活躍。16年から上方落語協会副会長。18年2月に米朝事務所社長に就任。60歳。

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