司法取引の衝撃 危機管理で派生需要も=伊藤歩 弁護士編
他人の犯罪の捜査に協力した容疑者や被告を有利に取り計らう「捜査・公判協力型協議・合意制度」(司法取引)が2018年6月に導入され、関わる弁護士の数が長期的には増えていくとみられる。例えば、業者からの収賄容疑で逮捕された会社の課長が、会社の役員らも現金を受け取ったことを検察官に供述する代わりに、求刑を軽くするなどの取り計らいを約束してもらう──といったことが司法取引で可能になるが、こうした約束について書面を交わして合意する際、弁護士の同意が必要になるからだ。
19年1月末時点の適用事例は、三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の元役員らによる外国公務員に対する贈収賄事件と、そして、今回のカルロス・ゴーン日産自動車前会長の金融商品取引法違反事件の2件である。
とかげのしっぽ切り
元検事で企業の危機管理対応に詳しい渥美坂井法律事務所の早川真崇弁護士は、「これまでは会社と社員の利害はおおむね一致していたが、司法取引はその関係を破壊する。結果、既存の内部通報制度も機能しなくなるということに、企業はもっと気付くべきだ」と指摘する。司法取引の導入は、会社に対する社員の不信感を増幅させ、その結果会社が不祥事情報を社内から吸い上げられなくなる、というのだ。
例えば、MHPS事件後、メディアには「会社に売られる社員」「とかげのしっぽ切り」といった活字があふれた。MHPS事件は18年7月20日、タイでの発電所建設で同国の役人に賄賂を渡していたとして東京地検特捜部がMHPSの元幹部3人を在宅起訴する一方、東京地検との司法取引に応じ捜査に協力した見返りとして法人のMHPSは起訴を免れた。この事件で起訴されたのはMHPSの役員クラスだったので「とかげのしっぽ」というわけでもなかったが、会社が社員と対峙(たいじ)した構図は「“社員を売る”インセンティブが会社側にはあるのだ」ということを世に知らしめる効果があったことは間違いない。
司法取引の導入前は、“対”捜査当局という面では、企業と社員の利害は一致していたため、会社が社員を売るインセンティブはなかった。社員を売れば会社自身にも火の粉が降りかかったからだ。だが、司法取引の導入で、会社と社員双方に、お互いを捜査当局に「売る」インセンティブが生まれた。会社を信じなくなった社員が不祥事の第一通報先に会社を選ばなくなるとどうなるか。
法人が助かるには、検察官と取引ができるくらいの情報が必要で、そのためには不祥事の全体像を把握しなければならない。そもそも迅速な全体像の把握は危機管理の鉄則だ。
企業の不祥事対応に悪影響
把握した全体像から、法人も社員も助かるよう検察と交渉する。これが会社にとっての理想的なシナリオだが、それは社員から会社が信用されていればこそ可能なシナリオだ。
不祥事の全体像を把握するには、徹底した調査によって材料をそろえることが必要だ。そのための理想的な工程は、(1)問題を社内の通報窓口から吸い上げ、(2)社内調査をして事実関係を把握、(3)関係者の処分と再発防止策を練り、(4)監督当局・捜査当局に報告し、(5)必要に応じてメディアや取引先、株主などにも開示する──ことである。これを速やかに行うには社員をコントロールしなければならない。
ところが、社員が会社を信用せず、会社に全面的に協力しないとなれば、コントロールはおろか事実関係の把握すら難しくなる。最悪の場合、監督当局や捜査当局、メディアなどから指摘されてからあわてて事実関係の把握に動くという事態に陥る。
実際に不祥事が刑事事件化し、なおかつ司法取引の対象になるような場面はまれなケースと言ってよいのだろうが、いまは法令違反ですらない不祥事でも、対応を誤れば会社の息の根を止めかねない。
「部下に売られる」
元検事の山口幹生弁護士(大江橋法律事務所)は、「日本版司法取引について“ひと通り勉強したい”という企業から講演の依頼が増えている」と話す。今のところ司法取引導入で、会社と企業の相互不信が増幅されるリスクについて、自覚している企業はほとんどない。だが、前出の早川弁護士は「これまで以上に社員に信用される内部通報体制に構築しなおす必要がある」と警告する。
会社側としては、通報者への「報復人事」などもってのほか。通報者を守りつつ調査を徹底するためには、会社からの独立性を確保できていて、なおかつ社員からもその独立性を認められている外部通報窓口が必要になる。企業がそのことに気付けば、危機管理分野を専門とする弁護士には、外部通報窓口業務の受託ニーズが増える可能性がある。
さらに、今回の日産の事件を機に、“感度”が高い一部の経営者の中に、自分が“部下から売られる”リスクを自覚する人も増え始めている。
会社が自分の味方になるのか、自分を売ろうとしている社員の味方になるのかにもよるが、売られる側に立てば、会社側が依頼した弁護士とは別の弁護士に相談するだろう。自分が日ごろ上司から命じられている仕事が、法令違反にあたるのではないかという不安を抱えているサラリーマンは、社会全体で見れば決して特異な存在ではないはずだ。
この先、「法に背く危険な仕事をさせられていると思ったらお電話ください」などと宣伝する弁護士事務所が現れれば、危機管理の潜在ニーズが一気に表面化する可能性がある。司法取引は結果的に弁護士の「派生需要」を高めるだろう。
(伊藤歩・ジャーナリスト)