週刊エコノミスト Onlineワイドインタビュー問答有用

がんは捨てたもんじゃない 多喜靖美=ピアニスト/732

「お医者さんが私の仕事にイエローカードを出した時、夫が答えていました。『この人から仕事を取り上げたら、死んでしまう』って(笑)」 撮影=武市公孝
「お医者さんが私の仕事にイエローカードを出した時、夫が答えていました。『この人から仕事を取り上げたら、死んでしまう』って(笑)」 撮影=武市公孝

「音楽で免疫力アップ」って毎日心がけています

 日本の室内楽啓蒙の第一人者として、アンサンブル入門書などを著す一方、全国10カ所でクラスを主宰し、ピアノ教師らを指導する。1年半前、悪性の子宮体がんが発覚し全摘手術、転移の不安を抱えながら、弾き、聴き、教え、音楽ライフをフルに楽しむ。

(聞き手=山崎博史・ジャーナリスト)

── 室内楽の啓蒙(けいもう)をライフワークにしているそうですね。

多喜 室内楽は、小編成の楽器によるアンサンブル(合奏)です。ピアノ以外の楽器はアンサンブルが普通で、独奏は珍しい。日本では欧米と違い、なぜかピアノは他の楽器とアンサンブルせず、ソロが主流なんです。極論すれば、アンサンブルを学ばずして、ソロはできません。ソロしか知らないピアニストは、他の楽器との関係性を意識せず、自分の音にも無頓着になりがち。ピアノの魅力や可能性は、他の楽器に学んでこそ深く知ることができるんですが。

── だから、アンサンブルだと。

多喜 バイオリンと一緒にやると、ピアノの側は、なぜそこに音の隙間(すきま)ができちゃうの、その音ってなめらかじゃないとか、指摘されることになる。アンサンブルをすれば、楽器の奏法の違いでそういうずれが起きるんです。それをきっかけに、音色が改善されて調和していく。ピアノの音の余韻に対し、自分の別の音をどう重ね、バイオリンをどう受け入れていくかと、耳の働きが鋭敏になってくる。結果として、ソロ演奏の音楽も全然変わってくるんです。

自宅レッスン室。朝から晩まで1人1時間ずつ指導し続けても、「楽しくてノンストレスだから、疲れませんよ」 撮影=武市公孝
自宅レッスン室。朝から晩まで1人1時間ずつ指導し続けても、「楽しくてノンストレスだから、疲れませんよ」 撮影=武市公孝

── 入門書も作っていますね。

多喜 欧米の室内楽入門書を探しても、ピアノ奏者用がほとんどなかったので、私が編曲して2007年に5冊、6年後に3冊出しました。しかし、欧米に同様の入門書がないのは、そんな形式ばったものは必要ないからかもしれませんね。彼らは音楽を自由に楽しみ合うライフスタイルを、日常生活の中に持っていますから。むかし、スイスのペンションに泊まって、食堂のグランドピアノを弾いてたら、お客さんがみんないつの間にか集まってきて、ピアノとかリコーダーとかギターとかワイワイ弾き始めた。音楽文化の土壌が違うんですね。

── 全国10カ所(東京、新潟、倉敷、東広島、広島、鳥取、高松、北九州、博多、熊本)に室内楽クラスを持っている。すごいですね。

多喜 03年に、ピティナ(全日本ピアノ指導者協会)の全国支部総会が沖縄であり、室内楽の魅力について紹介させてもらった。そしたら、興味を持った先生たちがいて、頼まれるようにして博多や広島でクラスを持つようになった。その後も同様に、ピティナの縁でクラスが増えていった。東京が約80人、地方の9クラスは約15人ずつで、ほとんどが地域のピアノ教師の方たちです。活動は東京が年40回以上、地方はどこも年4、5回ずつ。自宅ではソロを中心に約60人にレッスンしています。

── なぜ、ピアノ指導の道に?

多喜 音大3年の時、日本では演奏だけでは食べていけないので、指導の土台も築いておこうと思いました。授業に飽き足らず、最先端の手法を教えていた著名な作曲家の入野義朗先生の下に入門しました。そこの指導者養成コースの試験に受かったら、なんとなく指導者になっちゃった。奥様の高橋冽子先生の音大受験クラス助手として、すごく鍛えていただいたんです。

 一方で、自活の必要ができて、ピアノ指導を本格的に始めたら、有名なコンクールで生徒が次々と優勝するなど、すごく実績が上がった。そうこうしながら、いつのまにかここまで来ちゃった。

 17年7月、30年来通い続ける整体院で身体の小さな変化を指摘され、病院での検査を勧められた。8月、病院の検査で子宮体がんが発覚。ホルモン異常が原因で、10年来の激太りもそのせいだったようだ。9月、子宮全摘手術、一緒に切除した卵巣とリンパ30カ所中29カ所への転移が見つかり、漿液(しょうえき)性腺がんと診断された。転移・再発のリスクが非常に高く、5年生存率は35%、まずは2年間が勝負。抗がん剤投与を4週間ごとに計8回行うことになり、第1回が11月にスタートした。「死ぬのは怖くない」とはいえ、副作用に苦しむ日々。抗がん剤治療は終わったものの、まだまだ要警戒──。

── 子宮がんの宣告。ショックだったでしょう。

多喜 今回は、そうでもなかった。17年前に皮膚がんをやって、ものすごいショックだったから。その時は、黒色腫の可能性が高く、2、3年しか命が持たないと。左目下の部分を切り取り、生体検査で黒色腫と分かったら、転移を防ぐために左目と鼻をえぐり取ることにもなると言われたんです(笑)。お医者さんが夕方にまたと言うから、夫にも夕方来てと電話した。銀座に用事があり病院を出て、車を運転し始めたら、当時5歳の息子ともう会えなくなると思って、涙があふれ出てきました。

── 運転、大丈夫でしたか(笑)。

多喜 だから、泣きながら車を走らせていたら、事故を起こして、いま死んじゃう、だったら泣くのやめようと思い直しました。銀座に着き、お腹がすいたので、レストランでフルコースを食べた。夫は電話を受けて以来、何も食べられないというのに。夕方、お医者さんの話を聞いて、2人で帰りながら、きょうは何も食べられなかっただろう、ラーメンでも食べていこうかと誘われ、困りました。フルコースを食べたとは、いまだに言ってない(笑)。

── 幸い、黒色腫じゃなかった。その時、学んだことがあったと。

多喜 人生を見つめ直し、私でなければダメな事と、私がやりたい事を整理したんです。私でないとダメな事は案外なく、ピアノの指導者も演奏家もたくさんいるし、夫もなんとかするだろう。結局、子どもを育てることと、両方の親をみとることしかない。あとは自分の好きな事をやればいいんだと分かった。

 その後、両方の親が亡くなり、息子も成人して、私でないとダメな事はもうこの世にない。あとは自分の好きな事をやるだけと明確だったから、今回の宣告にも、落ち着いていられたのかもしれません。

「音楽は時代や国境や言葉の壁超える」。スペインの曲を、日・独・仏・米・トルコの演奏家が共演する室内楽の真骨頂。多喜さんが支援して2012年から4年間、埼玉県秩父市で開催した「ちちぶ国際音楽祭」の1コマ 多喜靖美さん提供
「音楽は時代や国境や言葉の壁超える」。スペインの曲を、日・独・仏・米・トルコの演奏家が共演する室内楽の真骨頂。多喜さんが支援して2012年から4年間、埼玉県秩父市で開催した「ちちぶ国際音楽祭」の1コマ 多喜靖美さん提供

── 今回、子宮全摘の前に受けた、怖いはずのMRI(磁気共鳴画像化装置)検査が、楽しかったとか。

多喜 機械の音が工事現場みたいに響いて、それが恐怖と聞いていた。私も閉所恐怖症だし、いやだったんですが、いざ頭までスッポリと穴の中に入ったら、タン、タン、タンタンタンって機械の音が聞こえ始めた。身構えながらも、そのジャズのような拍子に、自然にウパッパッパッパ、ウパッパッパッパって、アタマの中で音を入れ始めた。そんなリズムセッションを楽しんでいたら、あっという間に30分たっちゃった。お医者さんに「怖かったですか」と聞かれ、「楽しかったあ」と答えたら、ビックリしていました(笑)。

── さすが、音楽家は違う。話はそれますが、中学時代には楽譜をウオークマン代わりにしていたとか(笑)。

多喜 レコードで交響曲を聞きながら楽譜を目で追うのが、楽しかった。その楽しみにはまったある日、楽譜を持って外出し、たまさかそれを見たら、頭の中で曲がきれいに鳴り響き始めたんです。ウオークマンなんてない時代だから、以来、出かける時はいつも楽譜を携帯し、頭の中の演奏会を楽しんだ。実際に聞いたことがある曲は全部の楽器の音が完璧に聞こえるし、聞いたことがない曲は、最初にベースになる音を捉えて、順に別の音を加えていき、曲を立体的に組み立てていくんです。

── 子宮全摘も「肉体の断捨離と思えばいい」と。でも、さすがに抗がん剤の副作用は大変だったでしょう。どう耐えたんですか?

多喜 いやあ、そりゃあ大変でした。でも、死への恐怖がない分、まだましだったかもしれません。いつも夜寝ている、それがそのまま起きないだけだって思っているから(笑)。

 それと、むかし、私をかわいがってくれた叔母も、アメリカ人の夫の長期出張中に盲腸から腹膜炎を起こし、子宮全摘になった。その後、夫がベトナム戦争に従軍し、最後は廃人のようになって亡くなった。遠い異国で唯一の身寄りを失い、言葉も不自由なまま、本当に不安だっただろうなと、そんな叔母をしのびながら耐えていました。

── 「がんは捨てたもんじゃない」とも。

多喜 もうこの年だから、脳梗塞(こうそく)や心筋梗塞で後遺症が残ったり、交通事故で急死するよりは、どうせ死ぬならがんがいい。音大時代の大親友が13年前、スキルス性の胃がんで亡くなった。告知から2カ月。その間に、独身だった彼女は、身辺をぜんぶ片付けて逝った。すごくいいバイオリンを2丁持っていて、1丁を売ってホスピスに入る資金にし、もう1丁を姪に贈り、確定申告までしていた。あんなに進行が速いスキルス性のがんでも、そこまでできる。がんって、私のような者には、本当にいい病気だと思います。

 サラリーマン家庭に生まれ、父はアマチュアの管楽器奏者、母は音大声楽科卒。家庭の事情でピアノ科に進めなかった母は、多喜さんが2歳の時、なけなしの貯金で小型ピアノを買ってくれた。家に届いた時、うれしくて踊りまくっていた母の姿が、記憶に残る。

 薄い壁1枚で2軒連なる安普請(やすぶしん)の、2間だけの社宅住まい。朝はバロック音楽で目覚め、夜は母が弾くショパンのノクターンを聴き、その音色に涙しながら眠りに就く日々。毎週日曜の朝食後は、レコードやラジオでクラシック鑑賞会。父ははしをつまんで指揮者に変身。多喜さんは母の手鏡をあごに挟み、はしの弓でバイオリニストに。その横で踊る母。隣の家に住んでいたミチエちゃんもバイオリンを習い始め、いつも2人で自由奔放なアンサンブルを楽しんだ。つましくとも、最高の音楽環境だった。

── 多喜さんの仕事ぶりは、個人レッスンといい室内楽クラスの出張指導といい、疲れ知らずですね。

多喜 ハハハ、子宮がんが発覚し、お医者さんが私の仕事にイエローカードを出した時、夫が答えていました。「この人から仕事を取り上げたら、死んでしまう」って(笑)。

 自宅レッスンは、朝9時から夜9時まで12時間ぶっ通しでやることもあります。1人1時間で12人。いまは体のことを少しは考えて、抑え気味にと思ってはいるんですが、頼まれると、ついいいよって(笑)。でも私の場合、レッスンが楽しく、ノンストレスだから、疲れないんですよ。

── そのタフさは、大学卒業後の苦学の時代も。10カ月ピアノ演奏や指導でお金をためては、2カ月ドイツに行って本場のレッスンを受ける。そんな生活を10年続けた。

多喜 その当時、私が体感したクラシックの本場の雰囲気を、私の生徒さんたちに少しでも味わってほしくて、6月上旬に、希望者32人と研修旅行に行ってきます。

 スイスのサンモリッツのホテルに、音響の素晴らしいホールがあるんです。そこに私の友人のフランス人とイギリス人の音楽教授を呼んで、生徒さんたちや私と演奏する。現地の住民の方たちも招待するので、音楽を気楽に楽しむという、彼らのライフスタイルも知ってもらいたい。ほかにイタリアのボローニャ歌劇場でコンサートを聴いたりします。

── 多喜さんの音楽のキーワードは、「楽しむ」のようですね。

多喜 私はまずは楽しもうというのが常にあって、それが仕事を選ぶ時の理由になっているから、今でもアマチュア的なのかも。

 私が音大に進学してびっくりしたのは、なぜか音楽が嫌いな学生がたくさんいたこと。ピアノ以外に興味のない人が多かった。それに比べ、東大とか早稲田とか一般大学の音楽愛好家は、もう純粋に音楽が好き。だから私、彼らともアンサンブルをして、大いに楽しんでいた。音楽の本当の魅力はやっぱりこっちよね、という思いがあるんです。

── 手術後2年の転移確率が極めて高いこのがんに対し、医学的対応は一応終了した状況。残り半年の要警戒期間、頼るものは自身の生命力。

多喜 昨年5月、満席の「丸の内エリアコンサート」(クラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネTOKYO2018」)のステージで、バーンスタインとショスタコーヴィッチの曲にチャレンジし、私は、もっと演奏がしたいんだと、改めて思い知りました。そして同じ月、7回目の抗がん剤治療を経て、マルタ・アルゲリッチのピアノ演奏を水戸市まで聴きに行き、胸が震えるほどに感動した。

 弾くのも、聴くのも、教えるのも、みんな幸せ。音楽っていいなって、心の底から思います。元気になり、力が出る。だから最近は、毎日心掛けているんです。「今日も音楽で免疫力アップ」って。


 ●プロフィール●

たき・やすみ

 1952年、大阪市生まれ。桐朋学園大学ピアノ専攻卒業。以後10年間、欧州を毎年2カ月訪ねては個人レッスンを受け、オーストリアのウィーンフィル・メンバーら著名奏者と共演。2004年から「音楽の宝箱」コンサートを各地で展開。日本の室内楽啓蒙の第一人者として知られ、「ジャスミン音の庭室内楽クラス」を全国10カ所で主宰する。全日本ピアノ指導者協会評議員、昭和音楽大学・大学院講師。著書『しつないがく・はじめの一歩』(東音企画/全5巻)など。

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