ベーシックインカムは万能か=倉地真太郎
北欧は個別保障の組み合わせ
以前、「ベーシックインカムが導入できるかどうかは財源次第ですよね?」と、非常勤先の授業後に学生から質問を受けたことがある。この学生に限らず、ベーシックインカムが実際に導入できるかどうかは、技術的・財源的な問題でしかないと考える読者は多いのではないだろうか。
ベーシックインカムにはさまざまなタイプがあるといわれ、一部の実証実験では、実質的には失業給付の期間を延長しただけに過ぎないものもあるようだ。しかし、いずれのタイプにおいても、最低限の所得保障によって人々を労働の義務から解放するという理念が込められている。
それでは、豊富な税収を有し、寛容な福祉を実現する北欧諸国でベーシックインカムが導入されていないのはなぜか。今回は、筆者が専門とするデンマークにおける所得保障制度の考え方を概説することで、「なぜベーシックインカムではないのか」を考えたい。
個別保障水準に工夫
デンマークには、全ての社会階層を1本の制度でカバーするようなベーシックインカムは今のところ導入されていない。しかし、最低所得保障の理念は、さまざまな社会保障給付の制度設計に反映されている(図)。すなわち、(1)税金が財源となる社会扶助=公的扶助(日本の生活保護手当に相当)、児童手当、住宅手当、最低保障年金、障がい手当など、(2)公的保険=デンマークの場合は失業給付、疾病給付、職域付加年金である。 これらの社会保障給付は、一つの制度でカバーするのではなく、個別のニーズごとに複数の制度を組み合わせることで、受給者の生活を保障するという、補完的な所得保障の考えに立脚している。したがって、デンマークでは年金や公的扶助受給者が児童手当や住宅手当を併給することは一般的であり、むしろそれが最低所得保障の前提となっている。それぞれに異なる必要水準をカスタマイズして最低所得水準を保障しているのだ。
翻って日本では、生活保護制度が、さまざまなニーズを持つ人々の最後の受け皿として機能している。デンマークにも、これに相当する公的扶助受給者はいる。だが、多くの人々が複数の所得保障制度でカバーされていることから、その受給者の割合は少ない。
社会保障の給付水準を決めるに当たって、貧困率が小さい国であるデンマークならではの特徴が二つある。
第一は、「貧困の罠(わな)」を防ぐための方策である。一般に、多くの社会保障制度は、失業中であることや、収入が一定額以下であることを条件としている。このため、給付額が最低賃金水準を上回ると、受給者が給付中止を避けようと就労せず、結果として貧困層にとどまるリスク(貧困の罠)がある。 デンマークでは貧困の罠を防ぐため、社会保障給付制度の間で給付水準に整合性を取っている。給付水準を下から見ると、公的扶助→失業給付→年金給付→最低賃金(労使協定)の順番となっており、働くほど所得水準が上がっている。働くインセンティブが削(そ)がれないような仕組みなのだ。対して日本の生活保護制度における生活扶助の給付水準は、低所得世帯の消費状況を中心に決定されている。このため、ワーキングプアと呼ばれる労働層より手厚い支援を受けられるという、貧困の罠に陥る土壌がある。
第二に、公的扶助給付の水準は、国内外の公式な貧困基準ではなく、それ以上の社会生活に必要な水準(友人との交際なども含む)が参照されている点である。デンマークの最低所得水準は、いわゆる貧困基準が想定しているラインよりも高い水準にある。低い貧困基準に基づいて公的扶助の水準を決定すると、最低生活保障のあり方が危ぶまれる。
住宅手当と市場形成
日本には、年金、失業給付、生活保護制度などの所得保障制度があるものの、住宅費に充当することに特化した「住宅手当」は存在していない。対して、デンマークでは住宅手当が1967年に導入され、社会住宅制度(政府補助付き非営利住宅)と共に機能している。社会住宅とは広く国民に「住の保障」をする「みんなの家」として知られ、低所得者が優先されはするものの、そうではない所得者層も入居可能だ。後述するような要件を満たせば、家賃の一部には住宅手当が付く。ちなみに、一般住宅にも住宅手当は付く。このように、住宅手当はきわめて広い所得階層をカバーしており、高齢者世帯の約半分が受給者世帯である。デンマークの住宅手当は最低生活保障だけでなく、社会階層間の分断を防ぐ機能を有するのである。
なぜ住宅手当制度は、ベーシックインカムのように一本化せず、年金や失業給付などとは別個に設けられているのだろうか。
考えてみよう。例えば、とある地域に一律5万円の住宅手当が配られたとする。一見すると家賃負担が減ったように見えるが、その後家主側は家賃を一斉に5万円引き上げる可能性がある。こうなってしまうと、受給者の取り分はすべて家主に吸い上げられてしまい、住宅手当の効果はほとんどなくなる。では、住宅手当による「住まいの保障」を実現するにはどうすればいいのか。
それは、行政が、住宅手当額に見合うよう、住宅の質や家賃を調整する、つまり適切な住宅市場を形成することだ。住宅費用と住宅手当を比較するためには、住宅保障費用をベーシックインカムに一体化するのではなく、住宅手当という単独の保障で住宅関連費用を可視化する必要があるのだ。
住宅手当は全ての住宅に適応されるわけではない。住民代表や行政で構成する基礎自治体(コムーネ=日本の市町村に相当)の住宅協議会が、その地域において家賃水準や住宅の質・面積が適切だと判断して初めて住宅手当の給付要件が満たされる。そのため「安かろう悪かろう」といった質の低い住宅は淘汰(とうた)されるし、反対に六本木ヒルズのような高級マンションに居住して住宅手当で補充する、という不公平な状況も回避することができる。
以上のように、デンマークでは最低所得を保障する制度を構想する上で、住宅手当は独立した給付とすることが不可欠であり、最低限の所得水準と住まいのあり方は地域で決めている。
もっとも、デンマークの公的扶助の給付水準が高すぎるのではないかと国内メディアで批判的に取り上げられることも少なくない。公的扶助や住宅手当が排外主義のターゲットにされることもあり、今後地域的・社会的な分断化が進んでいく可能性もある。
ベーシックインカムに賛成する人は意外と多く、普遍的に給付を行うことによるさまざまな効果検証は実証実験の結果を待たなければならない。だが、ベーシックインカム以外にも、暮らしを保障するための、きめ細やかな仕組みが海外諸国で導入されていることに目を向けてもいいだろう。そういった制度の方が日本の社会保障制度にも親和性が高いのではないだろうか。
(倉地真太郎、後藤・安田記念東京都市研究所研究員)
■人物略歴
くらち・しんたろう
1989年神奈川県生まれ。2011年慶応義塾大学経済学部卒業、2016年慶応義塾大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。修士(経済学)。慶応義塾大学経済学部助教を経て2017年から現職。専門は財政学。
本欄は、堀井亮(大阪大学教授)、小林慶一郎(慶応義塾大学教授)、高橋賢(横浜国立大学教授)、宮本弘暁(国際通貨基金エコノミスト)、稲水伸行(東京大学准教授)、倉地真太郎(後藤・安田記念東京都市研究所研究員)の6氏が交代で執筆します。