人類最古の感染症ハンセン病と戦って40年=笹川陽平・日本財団会長/758
人類最古の感染症と言われるハンセン病は、特効薬の開発によって不治の病ではなくなったが、今日もなお患者・家族への深刻な差別が世界中に広がる。その不条理との戦いを長年続けている。
(聞き手=山崎博史・ジャーナリスト)
「生きた証しとして一生貫くに値する仕事です」
── ハンセン病撲滅への活動が認められ、インド政府から2月、「ガンジー平和賞」を授与されました。
笹川 インドの国父であるガンジーの生誕125年を記念して1995年に創設され、南アフリカのマンデラ元大統領などノーベル平和賞受賞者らが過去の受賞者として名を連ねています。インドは世界一のハンセン病大国であり、ガンジーは撲滅を念願していました。私はハンセン病の制圧と差別撤廃の活動に、今日まで40年間取り組み続けており、それが評価されました。
── どういう活動を?
笹川 WHO(世界保健機関)にはハンセン病制圧の活動資金がないため、日本財団がすべて負担していて、これまでの支援総額は約250億円に上ります。90年代後半には五十数億円をかけて、完治力が高いMDT(多剤併用療法)薬を世界中に無料配布し、制圧を劇的に進めました。
途上国では、薬を患者たちにちゃんと届けて飲んでもらうには、お金だけではうまくいきません。宗教、文化、政情、識字率など多様な問題が絡んで、一筋縄ではいかない。国のトップに談判して行政を動かし、メディアを啓蒙(けいもう)し、患者たちを現場で説得する必要がある。私は2001年、WHOのハンセン病制圧大使に就任し、そうした活動を担っています。
── 世界の現状は。
笹川 WHOは、患者数が人口1万人当たり1人未満になれば、公衆衛生上「制圧された」とする認定基準を定めました。85年当時、アジア・アフリカ・南米を中心に122カ国あった未制圧国は、MDT無料配布の効果で現在ではブラジルの1カ国だけになりました。この間に世界で1600万人、インドだけで1100万人の患者が治癒しました。一方で、各国の対策はまだ不十分で、今も世界で毎年約20万人の新規患者が発見されています。
ハンセン病は、らい菌が皮膚や抹梢(まっしょう)神経を侵す感染症で、放置すると顔・手足の変形や失明など重大な症状が出る。人類の長い歴史にわたって患者・家族ともに忌み嫌われ、社会的差別の烙印(らくいん)を押され続けた。43年以降プロミンなど治療薬の開発が進み、81年のMDT療法により完治可能となった。しかし今もなお、社会の無知から深刻な差別が世界で続いている。日本では、約90年続いた患者隔離政策が96年に廃止され、元患者への国家賠償判決が01年、元患者家族への国家賠償判決が今年7月、いずれも確定した。
── 病気が治ればいいというものではない?
笹川 私は03年、ハンセン病は医学的な問題だけでなく、さまざまな差別が複合した社会的な問題であると気づき、ジュネーブの国連人権高等弁務官事務所に駆け込みました。「極めて大きな人権問題だ」と訴えたら、皆さん初耳で驚いていた。翌年、国連人権委員会(現・理事会)で人権問題として告発するスピーチをし、粘り強く働きかけ続けて10年の国連総会の議題とすることができ、「ハンセン病差別撤廃決議」が全会一致で採択されました。国連決議のガイドラインを得て、病気を治すとともに「差別という病」をなくす、真の解決に向かっているところです。
自然に手が伸びるように 「誤解を恐れずに言えば、私も感染したかった。うつれば同士になれますから」
── ハンセン病に取り組んだきっかけは。
笹川 父の少年時代の体験でしょうね。大阪の造り酒屋の長男だったんですが、近所にいた初恋の女性が、ある日突然家族ごといなくなった。ハンセン病らしいと、うわさを聞いた。ショックを受けた父は、ハンセン病への復讐(ふくしゅう)を誓い、大人になってアジア各国に病院や施設を作りました。76年、韓国に作った病院の完成式典に、私は随行しました。
手足が膿(うみ)だらけで生ける屍(しかばね)みたいになった患者がベッドに座っていた。やおら父が、その手足を素手でなで始め、抱擁したんです。私、身がすくみました。まるで神に仕える者のごとき父の行動は、想像を超えていました。でもなぜか、これは自分が将来やるべきことだと感じました。それがハンセン病との出会いでした。
── 触れるのが怖かったのに、なぜそこまで。
笹川 患者には「お医者さんは私の体に一回も触れたことがない。私の中のらい菌にだけ興味があって、私という人間には興味がない」といった思いがあるんです。患者に接し、心を交わすうち、私の手は自然に伸びるようになりました。もちろん素手のまま。誤解を恐れずに言えば、私も感染したかったというのが正直な思いです。
7、8年前、国立感染症研究所で診断を受けました。うつれば患者との壁がなくなり、同士になれる。私はそこまで思い詰めていましたが、らい菌の感染力は極めて弱く、結果は“落第”でした。ハンセン病への支援活動は地味かもしれませんが、自分が生きた証しとして、一生貫くに値する仕事だと思っています
日本財団(旧称・日本船舶振興会)は、モーターボート競走法により全国24カ所で自治体が主催するレースの売上金から一定割合(現行2・6%)の交付を受け、海洋船舶関連事業のほか、公益事業への助成や自主事業を行う公益財団法人。19年度収入予算は約554億円(うち交付金約481億円)。 ボートレース(競艇)の売り上げの一部を事業に回す仕組みは、父の笹川良一・初代会長が50年代初めに築いた。戦後の海洋産業の復興と困窮者救済の財源として構想したが、巨額の予算を差配し、政財官界に幅広い人脈を持つ良一氏は、「日本の黒幕」という汚名を背負った。
人道主義に徹した父
── 「日本の黒幕」のイメージが記憶に残る中高年世代には、その二世が差別との戦いをライフワークとしていることに、意外感を持つ人も多いのでは。
笹川 私の差別との戦いは一方で、「笹川良一」を世界に正しく認識させるものでした。当時のマスコミが世界に拡散させた偏見の払拭(ふっしょく)が、秘めたる目標でした。でも95年に父が死んで、半分以上は解消しました。遺産は実質、借金の方が多かったんです。
若くして相場取引で築いた巨額の財産は戦後、戦犯者の家族たちが路頭に迷わないよう面倒を見たり、全て人々の救済に使い切っていました。スケールが大きすぎる破天荒な男だったので、世間には理解不能だったのでしょうが、せがれから見たら人道主義に徹した人でした。
陽平氏は、良一氏の庶子(正妻以外の子)三兄弟の三男。日本財団の会長は、初代・良一氏、2代・曽野綾子氏(作家)と続き、陽平氏は05年に3代会長に就任した。
── 三兄弟の母を捨てた良一氏に対し、長男は反発し、次男は距離を取った。三男坊はなぜ、後を継いだ?
笹川 父は、よそ様の面倒見は損得抜きで尽くしたのに、わが子には「獅子は我が子を千尋の谷に」とばかりに冷淡でした。私は、母と暮らした大阪を16歳で離れ、東京の父の本宅に住み始めたんですが、仕事を探す人や生活難の母子らがたくさん連日寝泊まりし、“笹川ホテル”といったふうでした。
女中さんだけでは手が足りず、私に家事を手伝えって言うんです。学校だけは行きましたが、毎日、朝早くから夜遅くまでやることがいっぱい。どうみても、下男扱いでした。なのに、なぜ父を尊敬したかというと、自分を捨てて世のため人のために奔走する姿をそばで見続けていたからです。妾(めかけ)の子だって真っすぐに成長しますよ(笑)。
── もう一つのライフワークとして、ミャンマー国民和解担当日本政府代表の仕事がある。
笹川 ミャンマーは135の多民族国家で、タイ、インド、中国との国境沿いには今でも20の武装勢力がいます。ミャンマー政府とそれらの武装勢力との70年にわたる内戦を停戦させ、統一国家の樹立をお手伝いするのが、私の仕事です。13年に日本政府代表に任命されたのは、ミャンマーでハンセン病制圧や小学校建設などの実績があったからです。日本財団は山岳地帯などに広がる少数民族地域に、小学校だけでも460校作っています。
── 武装した人々の恐怖心や不信感。結局はそうした心の病を解消する仕事ですね。
笹川 はい。日本政府代表といったって、彼らが外国人を簡単に信用するはずがなく、そこは泥臭く回数で信用を得るしかない。山岳地帯の悪路を車で半日走って、高尚な理屈なんか通用しない相手に会いに行く。6年間で現地に94回入って、武装勢力のリーダーたちと面会を繰り返し、信頼関係を築きました。そのうえで彼らをヤンゴンに案内して政府要人に会わせる。これまでに10の武装勢力との停戦を実現し、残りの武装勢力との停戦にいま取り組んでいるところです。
いつ死んでもいい
会長就任15年で海外出張298回。途上国を中心に88カ国を延べ450回訪れ、行き先の多くは、農村、山奥、砂漠など。12年にはハンセン病視察で訪れた南米ペルーの空港で心臓異変で倒れ、ペースメーカー移植の緊急手術を受けた。1級障害者となったが、いまも週末0泊3日といった強硬スケジュールが珍しくない。
── 80歳を過ぎて心臓に病を抱えながら、機中泊を繰り返すなど大変では。
笹川 そりゃあ、つらくないかって聞かれたら、つらいに決まっている。でも、プロフェッショナルだもん、仕事は命がけでやるものです。私は若い時から常に死を意識していて、死ぬ瞬間は、いい人生だったなあと思って死にたい。命がけで働き続けるのは、そんな死の準備をしているからです。
── どうしてそんな死生観を。
笹川 生まれ育ちが孤独だったせいか、徒党を組むのが大嫌いで、学生時代も友達なんか持ちたいと思わなかった。同窓会、葬式、結婚式、政治家のパーティーも、ほとんど行きません。
趣味は草取り、休みの日には山梨の山小屋で一日中無心にやっています。女房とは47年間一度もけんかしなかったし、まあいい人生ですよ。もう、いつ死んでもいいし、海外出張もいたるところ青山あり。女房には、どこで死んでも迎えに来るな、骨の一片だけを持って帰ってもらえ、と言ってあります(笑)。
── ハンセン病者と交わす抱擁に、今どんなことを思いますか。
笹川 世の虚飾を去った人間同士。生きとし生けるものとしての共感に、安らぎます。
●プロフィール●
ささかわ・ようへい
1939年東京生まれ。日本船舶振興会(現日本財団)の創設者、笹川良一氏の三男(次男は笹川堯・元衆院議員)。明治大学卒。日本トーター代表取締役、日本造船振興財団理事長、全国モーターボート競走会連合会会長など歴任。2005年日本財団の3代会長に就任。WHOハンセン病制圧大使、ミャンマー国民和解担当日本政府代表を務める。著書『残心 世界のハンセン病を制圧する』(幻冬舎)など。