月面着陸50周年 民間参加で激変する宇宙開発=福田直子
1969年7月20日、アポロ11号という「ルナ・モジュール(月面探査船)」が月面に着陸し、2人の宇宙飛行士が初めて月面を歩いてから、今年で半世紀がたった。
世界中で約6億人がブラウン管の前にくぎ付けになったこのイベントでは、宇宙飛行士たちの活躍ばかりが報道された。だが、このプロジェクトには約10年間の開発期間が費やされ、推定40万人の科学者やエンジニア、約2万社の企業が関与したといわれる。月面着陸はとてつもない数の専門家集団とアメリカの工業力の結集であった。
ナチス・ドイツのミサイル技術から発展したともいえるアポロ計画は、64年から72年までそのピーク時でアメリカの年間国家予算の4・4%を費やした。計12人の宇宙飛行士が月面着陸を果たしたアポロ計画は20号までを予定していたものの費用がかかりすぎ、17号で打ち切りとなった。スペースシャトル計画も86年のチャレンジャー号事故(7人死亡)、2003年のコロンビア号事故(7人死亡)という2回の悲劇で、11年を最後に打ちきりとなった。その後の宇宙開発ではアメリカはロシアのソユーズに相乗りしたり、宇宙ステーションISSなど多国籍間の協力体制で発展させてきた。
近年、宇宙開発はロケットの小型化と低予算化をめざした民間企業の参加によって、再び過熱している。かつて米ソ冷戦に勝つための国家プロジェクトとして達成された宇宙開発は、イーロン・マスク、ジェフ・ベゾス、リチャード・ブランソンなど、IT(情報技術)長者をはじめとする民間資本からの参加で大きく変化した。政府が推進するプロジェクトは全体の約3分の1に縮小する一方、アメリカの非営利財団であるスペース・ファンデーションによれば、18年、民間による宇宙ビジネスへの投資は最高水準に達した。
宇宙の「ゴールド・ラッシュ」
しかし、ビジネス界の目的は月へ向けてロケットを発射するばかりではない。火星と木星の間にある小惑星をはじめとする地球近傍天体(NEO)には金、プラチナ、その合金、その他の鉱物が埋蔵されているかもしれないということで小惑星の採掘は「21世紀のゴールド・ラッシュ」にもなりうるといわれている。米投資銀行のゴールドマン・サックスは、「あと20年もすれば宇宙ビジネスは一大産業に発展する」という報告書を出し、宇宙関連のスタートアップ企業へ盛んに投資を行っている。
一方、かつて米露の2カ国で進められた月面関連のプロジェクトにはあらたにインド、中国、イスラエルも加わり、韓国と日本も探査機を送ることに余念がない。今年1月に中国は月面探査機の「嫦娥(じょうが)4号」を月の裏側に送ることに成功し、インドは7月に「チャンドラヤーン2号」を発射させ、順調にいけば米ソ中に次ぐ第四の国として9月初めに無人探査機が月面に着陸する予定だ。ESA(欧州宇宙機関)も25年までに月面へ探査機を送り、資源採取を計画している。
アメリカは今年3月、24年までに再び月面に人間を送る「アルテミス計画」を発表。月の南極には氷があるという仮説のもとに水素と酸素を抽出すれば燃料も月で調達できるとすると、月は火星や他の惑星へ行くための中間拠点となる。このためNASAは30年代までに常駐基地を設けることも検討中で、トランプ政権は「宇宙軍」の創設を思案しているとも発表し、宇宙が新たな戦闘領域の一つとなりうることを示唆している。
アメリカは月面や火星、その他、独自に小惑星などから採取した天体資源の所有を認める宇宙法を15年にいち早く定めた。ほかにもルクセンブルクは17年7月に制定した「宇宙採掘法」で、宇宙から持ち帰った資源の所有権を企業に与えることを許可し、宇宙関連のベンチャー企業への投資に対して税制優遇策を提供している。しかし、各国が独自に法律を制定して問題は起こらないのだろうか。
67年に交わされた「宇宙法のマグナ・カルタ」と呼ばれる宇宙条約では、宇宙は公共の領域(グローバル・コモンズ)として平和利用を促し、宇宙はどの国の所有でもなかったはずだ。もっとも宇宙条約では、さまざまな国による宇宙開発、まして民間ビジネス界の進出は全く念頭になかった。今後は宇宙での利害衝突、法律問題も多発するのではないか。
すでに「宇宙ビジネス」は資金とノウハウを持つ者に解禁されている。過去の歴史上、欧米はとかく未知の領域を開拓してはその所有権をめぐって争ってきたことを考えても、21世紀の宇宙開発は思わぬ展開となるかもしれない。
(福田直子・独在住ジャーナリスト)
98歳元秘書が語る「アポロ計画の父」
この夏、アポロ11号を宇宙に発射したサターンV型ロケットの開発が行われたアラバマ州の北に位置するハンツビルの宇宙航空センターへ行く機会があった。
1950年代末からハンツビルはアメリカ航空宇宙局(NASA、58年設立)の宇宙計画のために科学者やエンジニアたちが移り住み、発展した。アポロ計画の先頭に立ったのは、ドイツのウェルナー・フォン・ブラウン博士(1912~77)だ。第二次大戦中、ナチス・ドイツ下で弾道ミサイルV2号の開発に携わった同博士をはじめ、アメリカが終戦間際から進めたペーパークリップ作戦(ドイツから科学者を獲得するための秘密作戦)では1500人以上がアメリカに迎えられた。
子供の頃、親に天体望遠鏡を買ってもらってからロケットを打ち上げることばかりを考えていたというフォン・ブラウンは、ナチスの下で技術力を磨き、アメリカの庇護(ひご)を得たことでアメリカに帰化した。ドレッテ・ケアステン・シュリットさん(1921年生まれ、98歳=写真)は、フォン・ブラウンを個人的に知っていた数少ない生き証人だ。
「外交力に卓越」
シュリットさんは、ドイツの東北端ペーネミュンデでロケット開発を行っていたフォン・ブラウンの秘書をした後、終戦間近、誘導ミサイル技術専門のドイツ人技術者と結婚した。以来、アメリカに住んでいる。
シュリットさんによると、フォン・ブラウンは日中、プロジェクトを統括する管理業務が多く、静まり返った研究所で仕事をする「夜型」であった。「彼は、小さな問題にも耳を傾け、どのような事態に直面しても人を説得して引き付け、外交力に卓越していた」という。「私には秘書が2人いる。1人は美人だが、もう1人はもっと美人だ」と冗談を飛ばされたことが記憶に残っている。
そうした気質が、ヒトラーをミサイル兵器の開発で説得したように、はじめはアポロ計画に乗り気ではなかったジョン・ケネディ大統領を説得することにつながったという。
(福田直子)