金融緩和が日本で生んだ「好ましくない」格差=才木あや子
格差はモラルだけではなく、経済的な問題でもある。モラル的な側面は他者に譲るとして、本稿では経済的な問題に焦点を絞りたい。具体的には、いま日本で拡大している格差の一つの原因が、量的質的金融緩和に代表されるような短期金利操作以外の手段で金融緩和を図る非伝統的金融政策であり、そうして生まれた格差は日本経済にとって好ましくない格差だということを述べたい。
格差にも好ましい格差と好ましくない格差がある。好ましい格差とは、懸命に働き結果を出した人には高い報酬を払うという、いわば「あるべき」格差だ。
一方、アベノミクスの第一の矢として2013年4月から始まった日本の量的質的金融緩和政策は、経済的に好ましくない格差を広げた。
上がらない賃金
格差が経済的に望ましくない理由はいくつかある。現シカゴ大学教授であり、前インド銀行総裁・IMF(国際通貨基金)チーフエコノミストを歴任したラグラム・ラジャン氏によれば、行き過ぎた経済格差は貧困層の債務を増やし金融危機を生む土壌になる。また、長い目で見れば、人々に等しく教育などの機会が行きわたらない国は国民のポテンシャルを生かしきれず必然として弱体化する。さらには短期的な需要喚起という面からも、富める者をより豊かにするより貧困層にターゲットを絞ったほうがはるかに有効である(追加的所得を消費に回す限界消費性向が高いため)。
黒田東彦日銀総裁の下での量的質的金融緩和政策は、日本のデフレが今後も続くと予想するいわゆるデフレーションマインドセットからある程度抜け出せたという点では一定の評価はしていいと思う。しかしながら、ターゲットである2%インフレ率の実現性は依然として低く、一方で副作用として所得格差が拡大している。
グラフはそれぞれ、日本の年間平均賃金(図1)と株価指数(図2)を同じく非伝統的金融政策を行った3国(ドイツ、イギリス、アメリカ)と比べたものである。図1から明らかなように、他国と違って日本の賃金はほとんど上がっていない。一方、株価はアメリカ並みに上昇している。
日本において株価(あるいは金融資産一般)がこれほど上昇したことに量的質的緩和政策が貢献していることは論をまたないであろう。日経平均株価指数は安倍政権の発足後から実に倍以上になっている。比して、賃金は倍どころか、ほとんど上昇していない。このような事態になると、労働者の意欲はそがれるであろう。それが経済にとって好ましくないことは言うまでもない。
日本における非伝統的金融政策と所得格差拡大との関係については、データ分析から裏付けられる。筆者はオランダ中央銀行に勤務していた14年、世界で最初に量的緩和を行った日本の非伝統的金融政策が所得格差に与える分析をし、日本の場合、非伝統金融政策が所得格差を拡大させるという結果を得た。
手法をごく簡単に説明すると、総務省統計局の全国家計調査から各家計(非勤労者含む)の過去12カ月の収入データの所得十分位の平均所得(サンプル期間:08年第4四半期から14年第1四半期まで)を基に、ジニ係数(所得分配の不平等の度合いを示す指標)を計測し、ベクトル自己回帰モデル(Vector Autoregression Model、以下VAR)を使って、マネタリーベース(日銀当座預金と流通現金の合計)が上昇するとジニ係数を含むさまざまな経済変数(インフレ率やGDP成長率など)にどのような影響を及ぼすかを分析した。そして、日本の非伝統的金融政策はジニ係数を押し上げたという結果を得た。
他国では異なる効果
08年の世界金融恐慌以降、FRB(米連邦準備制度理事会、08~14年)や、ECB(欧州中央銀行、15~17年、19年~)などの各国金融当局の量的緩和の流れを受け、各国で非伝統的金融政策が所得格差に及ぼす影響の研究が行われた。多数の研究を精査した結果からいうと、我々が日本について導き出した結果は世界的なものではなく、むしろ例外である。
アメリカについては、賃金の上昇や借入利子の減少が資産効果をある程度相殺し、結果として所得格差は広がったとは必ずしも言えないという研究が発表された(Bivens,16年)。さらにイタリアの研究(Casiraghi他,18年)では賃金上昇によって、非伝統的金融政策が所得格差を縮小したという結果が発表されている。同じ金融政策の下にあるユーロ圏内でも、国ごとに所得格差に与える影響にばらつきがあるという研究結果や、ユーロ圏全体としては所得格差に影響はなかったという研究結果もある。
これらの結果のばらつきの原因として一つには、非伝統的金融政策の下では、資産価格の上昇効果と賃金上昇効果が拮抗(きっこう)し、その相対的強さによって所得分配に影響を与えているということだ。日本の場合は賃金上昇がない。一方で金融資産の価格、特に株価は膨れ上がった。これが日本における所得格差拡大の理由である。
筆者は量的質的金融緩和が始まってから4年経過した18年に、失業率、賃金をVARの変数に新たに含め、サンプル期間を10年第4四半期から18年第2四半期までとして分析した。結果は、金融緩和は賃金の上昇につながらなかったが、株価(日経平均株価指数)の上昇には有意に働いており、雇用創出チャンネルは金融政策ではなく、他の要因(高齢化による労働者不足など)によって引き起こされているというものであった。労働者不足は主に低スキル層・非正規・パートタイム労働者層で起こっているため、賃金は上がらず、所得格差は広がっていた。
日本に特有な事情として、日本は他国より10年近く前からゼロ金利であり、金利を下げることによる経済刺激政策が不可能だったことや、債務者が金利の低下による恩恵を受けられなかったことも考えられる。しかし、筆者は高齢化と労働市場の硬直性が所得格差拡大の主な原因と考える。
高齢化がボトルネックに
高齢化が進んでいる社会とそうでない社会(ここでは「若い」社会と表現する)では、金融政策の伝わるチャンネルが異なるという研究がある(70ページ表)。
要約すると高齢者はお金を借りるという必要が少ないので金融緩和を行っても信用創造効果(これが最終的にマネーサプライ、すなわち経済全体に供給される通貨の量を決定し、インフレ圧力になる)は望めない。資産を多く有しているのは貯蓄を重ねてきた高齢者層であるから、金融緩和における資産効果は大きい。
日本において有価証券を保有しているのは主に富裕層(所得がトップ20%の階層)であり、特に高齢者層である(図3)。日本の人口の3割を超す高齢者が主にキャピタルゲインによる利益を得るという状況は経済全体にとっては好ましくない。
分かりやすい例を挙げると、若い世代が富を持つと新しい会社を興したり、新しい技術に投資したりするだろうし、あるいは、お金を借りて信用創造効果が上がることで経済は活性化し、インフレ率は上がるであろうし、長期的にも生産性が上がり国力の強化につながるであろう。
しかし、日本のような超高齢化社会では、株価の上昇によって富が増大したとしても、高齢者は有価証券に再投資・あるいは貯蓄するだろうから、結果的に作り出された富はそこで止まってしまう。高齢化社会は金融緩和が経済に波及するボトルネックになっているといっていいだろう。
安倍政権の三本の矢は、金融政策が真っ先に実行されたが、今となっては他の二つの矢(財政・構造改革)とのバランスが取れているとは言い難く、金融政策にアンバランスな形で負担がかかっている状態であるといえる。その結果の一つが所得格差であろう。
安倍政権は賃金の上昇を唱えたが、法律や制度を変えたわけではなく、ともすればリップサービス的なものにすぎない印象をぬぐい切れない。会社の内部留保は過去最高レベルでありながら、労働の対価として賃金上昇という形で分配されていないというのが、日本の労働者にとっての残酷な事実である。
課題は労働市場改革
現在の量的質的金融緩和の出口はまだ見えないので、所得格差・資産格差の拡大は続くだろう。キャピタルゲインでより富める高所得・高年齢層と、一向に上がらない賃金で働く労働者という構図は、労働のインセンティブを阻害し社会の調和を損なうという、「悪い格差」を生む。
このようにしてできた格差を是正するには、まずもって賃金の上昇が起こらないといけない(理想的には、富裕層の公的年金をある程度カットするなどの所得分配まで踏み込むべきだと考えるが、政治的に不可能であろう)。
日本で賃金上昇を阻んでいる要因の一つは、実力主義ではなく年齢や勤続年数で給料が決まるという給与体系や、低賃金の非正規社員がいくら有能であっても正規社員になるハードルが非常に高いという労働市場の硬直性だ。だから給料が上がらなくても身分が保障されている正規社員のほうにしがみつくのは人間が取る行動として当然であろう。
とどのつまり、組織内での平等を追求するあまり、結果的には日本全体の経済格差を広げているという典型的な合成の誤謬(ごびゅう)に陥ってしまっているのである。
これ以上金融政策に頼っていても、政府が望んだ結果を生み出せないと筆者は考える。それどころか、非伝統的金融政策の副作用がただでさえ弱い経済成長を阻害する可能性は低くない。アベノミクス当初の国民との公約通り、構造改革、特に労働市場の流動化が急務だ。
(才木あや子・日本大学経済学部准教授)