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教養・歴史 書評

新型ウイルスの脅威の下 カミュの傑作『ペスト』を再読=本村凌二

 歴史家の叙述は面白くないと難じられることがある。専門研究者として事実叙述は正確であっても、読者に感興を起こさせない。迫真ある現実を感じさせないのだ。

 20世紀文学の最高傑作の一つに、私なら、アルベール・カミュ『ペスト』(新潮文庫、750円)を挙げる。アルジェリアのオラン市で血を吐きながら、鼠(ねずみ)が死んでいく。なにか奇怪な疫病の前兆だった。医師リウーはそれがペストであることに気づき、孤独な戦いが始まる。市の役人たちがペストの真偽を議論しているうちに、病気は広がり、死者も続出する。リウーは友人タルーにすすめられ、私設衛生班を組織する。ペストは西洋から姿を消したはずだから、すぐに過ぎ去る悪夢にすぎないとしか思えないのだ。

 ところが、患者と家族は隔離され、市門も閉じられ、外部と遮断される。目前の悲惨な運命と戦っていても、神父パヌルーにとって「ペストは信仰なき人間への神の刑罰」にすぎないという。だが、無垢(むく)な幼児が死んでしまい、神父も見方を変え、リウーに協力するようになったが、その神父もペストの犠牲になった。

 パリから来ていた新聞記者も愛妻の待つ都に脱出しようとしたが、外部との交通が絶たれており、献身的な衛生班に協力するようになる。同志の数は増え、人間相互の共感が結束の力を生んだのだ。だが、その共感の大切さを教えていたタルーもペストの犠牲になる。その日、転地して持病を療養していた妻の死が夫リウーのもとに届いた。

 やがて、ペストの猛威も衰え、ついには終息した。市門も開かれ、花火が上がり、人々は歓喜する。だが、リウーにはこの喜びも常に危険にさらされているとしか思えなかった。

 中国で始まった新型肺炎のコロナウイルスの災厄が、日本にも飛び火して、すぐには衰えそうにない。

 カミュの本書は歴史書ではないが、今ひもとくと現実が真に迫っているかのように感じられる。学生時代に読んだ傑作を思い出しながら、高度な文明の現代だが、その足元がいかにもろいものかを改めて思い知らされた気がする。

(本村凌二・東京大学名誉教授)


 この欄は日本史、西洋史、現代史、中国史の各分野で掲載します。

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