教養・歴史書評

中国 「辻」の字を巡って 漢字と国字=辻康吾

     前回に続き再び言葉の話となって恐縮だが、商務印書館発行の『新華字典』の最新版(第12版 2020年6月)を手にとってちょっとうれしくなった。というのは私の苗字の「辻」の字が親字に採録されたことである。同字典は「辻」の項目で「日本の漢字。十字路。日本人の姓名に多く使われる。発音はshiの二声」と説明している。

     ご承知の通り「辻」の字は国字で、中国伝来の文字ではなく日本製の漢字である。中国の「常用漢字表」や、13年に発布された「通用規範漢字表」(8105字)にも入っていない。以前から出ているいくつかの中国の字典類では採録されていたが、『辞海』など権威ある辞典にはなかった。53年の第1版から現在まで通算4億部以上が発行され、中国でもっともポピュラーなこの『新華字典』に「辻」の字が入ったことは、それだけこの字が一般化したこと、あるいは中国でも人気がある歌手でユーチューバーの辻希美さんの名前だからかもしれない。

     そんなこともあるが、中国人でこの字を知っているものは少なかった。そこで80年前後、北京に駐在していて私が困ったのは電話で自分の苗字を伝えることであった。電話で私の姓は「数字の十の下にしんにゅう」と言うと相手は「そんな字はない」と言う。そこで「搬遷(引っ越し)の遷の簡体字(迀)の上が千ではなく十の字」と説明しても相手はまた「そんな字はない」と言う。仕方なく発音が同じで中国人の姓である「石」だと言うと相手は納得する。おそらく中国の一部の記録に私は「石康吾」と書かれているであろう。

     中国語は同音異字が多い。苗字でも同じ発音でいろいろな字があるので、中国人同士でも会話や挨拶の中で文字を説明する必要がある。そんな場合、例えば「呉」と言う姓は「口と天の呉」、「林」は「双樹の林」、「馮」は「二つ馬の馮」などと説明する。

     そんなこともあるが中国人で日本人の名前にちょっと困ることがあるようだ。つまり中国語で相手の苗字の前に「小」とつけるのは、相手が親しい目下の者を呼ぶ場合なのだが、日本人の「小林」とか「小原」と言う苗字を発音すると中国人には「林クン」とか「原チャン」と言う感じになり、とても呼びにくいそうだ。

    (辻康吾・元獨協大学教授)


     この欄は「永江朗の出版業界事情」と隔週で掲載します。

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