経済・企業

「異端のビール」がキリン社内で問題視された理由

    前田仁氏(1998年撮影)
    前田仁氏(1998年撮影)

    「ハートランド」は、約6割ものシェアを持っていたキリンが、主力商品の「ラガー」にあぐらをかく社内を変革するための新商品だった。

    だが、瓶に「キリン」のロゴを使わず、直営店でのみ提供するという「ハートランド」の「異端さ」に、反発する社員もいた。

    「ハートランド」「一番搾り」ほか多数のヒット商品を開発し、カリスママーケターと呼ばれた前田仁(ひとし)氏の逸話を、ジャーナリストの永井隆氏が語り継ぐ本連載。

    第4回目は「ハートランド・プロジェクト」が直面した試練を描く。(前回はこちら)

    ブランドを気にする消費者はまだ少数派だった

    1980年、キリンは業界初の低アルコールビール「キリンライトビール」(アルコール度数3.5%、カロリー30%オフ)を発売している。

    1981年には、キリン初となる生ビールを発売(業務用樽限定)。

    1983年には、缶入り生ビール「キリン缶生」を発売した。

    しかし当時、生産量のほぼすべてはラガーだった。

    キリンラガー
    キリンラガー

    ラガーによって圧倒的なシェアを得ていたキリンは、新製品にそれほど期待していなかった。当然、マーケティングにおいても力を入れていなかった。

    当時のキリンでは、「商品イコールラガー」になっていたのだ。

    「当時は、ラガーと言わず、キリンビールと呼んでいました」と、当時マーケティング部に所属していた太田恵理子は証言する。

    一方、ライバル各社の対応は異なる。

    キリンに次ぐ業界2位のサッポロは、黒ラベル(当時は「サッポロびん生」)、高級ビールのヱビス、熱処理したラガーと、複数のブランドを展開していた。

    当時、消費者の側でも、メーカー名イコールブランド名という認識がまだ一般的だった。

    酒屋でラガーを買うとき、「キリンビールください」と注文すればよかった。

    むしろ、「ビールをください」と言うと、適当にキリンラガーなりサッポロ黒ラベルなりを、酒屋のほうで選んで出し、消費者もそれを疑わずに買っていた。

    キリンをはじめとするビール4社の値段は、ヱビスを除けばすべて一緒だったから、それでも問題はなかった。

    (発泡酒は94年、第3のビールは03年に登場)。

    「クセのある人材」がプロジェクトを引っ張る

    そのような状況で、キリンが投入した新商品が「ハートランド」だった。

    その商品開発からマーケティングまで、「ハートランド・プロジェクト」を担当したのが、当時のキリンでマーケティング部課長の上村修二と新入社員の太田恵理子、のちに漫画家しりあがり寿として有名になる望月寿城、そしてカリスマ・マーケターとして以後名を馳せる前田仁だった。

    84年夏のことだった。上村は太田にこう質問したという。

    「プロジェクトの進捗が思わしくない。メンバーを追加したいが、誰がいいだろうか」

    太田は次のように答えた。

    「前田さんがいいと思います」

    前田仁は73年入社。大阪で業務、営業を経験し、80年にマーケティング部が発足したのと同時に、大阪から本社へ異動していた。

    太田恵理子は83年に入社後、すぐマーケティング部に配属されている。

    当時、前田は清涼飲料を担当していたが、その頃の前田についてこう証言する。

    「前田さんは、クセのある人でした。つくる商品も変わったものばかり。大きな病気をして休職した経験があるせいかもしれませんが、斜に構えたところがありました。ただ、誰に対しても自分の意見を曲げない、芯の強さがある人だと感じていました」

    もし太田が前田を指名しなければ、後のヒットメーカー前田仁はいなかったかもしれない。

    時代を先取りしていた前田のコンセプト

    遅れていた「ハードランド・プロジェクト」だったが、意志の強い前田の加入で、ようやく前に進み始める。

    プロジェクトに参加してすぐ、前田はハートランドの商品コンセプトを作った。

    「素(そ、もと)」というのが、そのコンセプトだった。

    太田は次のように語る。

    「前田さんが鉛筆でコンセプトを手書きし、その紙を私たち3人に見せたときのことを今でも覚えています。ハートランドという名前は、“心のふるさと”という意味です。命名したのは課長の上村修二さんでした。その名前にこめられた思いを前田さんはよく理解し、言語化します。それが『素』というコンセプトでした」

    前田はこの時、次のような「5つの時代原理」をプロジェクトチームに示したという。

    ①個としての確立を目指す時代、

    ②能動的な情報判断を目指す時代、

    ③人間の感性を再開発する時代、

    ④新しい本物が求められる時代、

    ⑤Less is more(過剰装飾、過剰機能の商品より、無駄なものを取り去ったシンプル、ナチュラルが求められる)の時代。

    時は1984年。いわゆるバブル経済が始まる1986年までまだ2年もあった。

    その時代にあってすでに、前田の認識は、「モノの大量生産・大量消費」の時代は終わりを告げ、「心を動かす製品」の時代へ移ることを、明確にとらえていた。

    キリンのマーケティング部長に桑原通徳が就任したのは83年だった。

    桑原通徳はキリンの本流、営業出身者だ。神戸支店長という要職を経験した桑原は、次期社長の呼び声も高い、将来を嘱望される人材だった。

    だが桑原は、高いシェアに胡座をかくキリンの現状に危機感を抱いていた。

    前田のコンセプトと5つの時代原理は、大量生産・大量消費という当時の常識と真っ向から対立するものだったが、桑原は強く支持する。

    「質より量」への徹底的なこだわり

    ビールの商品開発において、消費者のニーズを探る消費者調査は欠かせないプロセスだ。

    ハートランドは、不特定多数への消費者調査を実施しなかった。

    代わりに、大学教授やアーティスト、編集者といった『時代を先取りする人々』だけに絞ったアンケートを行ったという。

    量ではなく、質を重視したのだ。

    ハートランドのパッケージはレイ吉村によるものだ。

    だが、今年大規模な回顧展が開催されている石岡瑛子も、コンペに参加していたという。

    石岡瑛子(1986年12月3日撮影)
    石岡瑛子(1986年12月3日撮影)

    衣装デザイナーとして名高い石岡だが、70年代から80年代にかけてはグラフィックデザイナーとして活躍。当時、流行の最先端を走っていた「パルコ」のデザインを手がけていた。こんなところにも、前田のこだわりがうかがえる。

    ビールの中身にも、徹底的にこだわった。

    ビール開発では試験的な醸造(試醸)を何度も繰り返し、味を調整していく。

    ハートランドではその試醸の回数は50回以上にも及んだ。

    結果、麦芽100%にもかかわらず、スッキリした穏やかな味わいに設計する。

    その秘密は、華やかな香りを醸すアロマホップだけを使用したことにある。そうしたホップは実は高価なのだが、前田はこだわった。

    もともと、ハートランドには缶も用意されていたという。

    「瓶とおなじく、缶の中央には大きな樹を描く予定でした。季節毎に、中央の樹のイラストを少し変えようと思っていました。夏は葉が生い茂り、冬は雪が積もっている、といったように」と太田は開発秘話を語る。

    また前田は、ハートランドについては東京限定発売とすることにした。

    量より質を追求すると一般受けしない部分が出てくる。保守的な気風がまだまだ強い地方ではあまり受けないだろう。

    かといって、地方でも受けるようにすると、とがった部分がなくなって、「時代を先取りする人々から認めてもらえないだろう。

    ”時代を半歩先ゆく“商品を目指す以上、販路を限定するしかなかった。

    「田舎では売れないタイプのビールでした」先述の太田はそう指摘する。

    「東京限定販売」に営業部が嚙みつく

    しかし、東京限定発売は実現できなかった。

    営業部門から猛烈な反対を受けたからだった。

    ビール会社とは営業中心の組織である。キリンに限らず、サッポロもアサヒも営業部の力が圧倒的に強い。

    当時のキリンにはビール事業本部があり、そのなかに営業部やマーケティング部があった。一見、マーケティング部と営業部は横並びだが、実際のところ、営業部の力は絶大だった。

    「東京限定といっても、越境して埼玉や神奈川からも買いに来る客はいる。混乱し、特約店(卸)やお店に迷惑がかかる」

    「季節に応じてデザインを変えるなど、とんでもない。秋になっても夏デザインの在庫が残っていたなら、どう処理する。需要予測は難しい。(マーケ部は)責任をとれるのか」

    「とにかく、前例がない」

    「最初から全国発売した方がわかりやすい」…。

    営業部は、何より変化を嫌った。マーケティング部長の桑原はもともと営業出身。だが、営業部内には、桑原の過激な言動に反発を抱く向きもいた。桑原の力をもってしても、営業部をコントロールすることは容易ではなかった。

    前田の提案は、却下されてしまう。

    次善の策として、前田は「ハートランドを直営店『ビアホール・ハートランド』だけで提供する」という戦略を打ち出した。

    「ビアホール・ハートランド」つた館の店内
    「ビアホール・ハートランド」つた館の店内

    太田は次のように語る。

    「営業部の反対で、ハートランド・プロジェクトは八方塞がりになっていました。その苦境を乗り越えられたのは、ひとえに前田さんのおかげです。もともと芯の強い人でしたが、あれほどのパワーを発揮できる人とは、思っていませんでした。きっと、難しいプロジェクトを通じて、前田さんは成長していったんだろうと思います」

    キリンのビール販売量は85年が2億2534万箱(1箱は大瓶20本)。シェアは61.4%。

    ほぼすべてを、ラガーが占めていた。

    当時のビール業界で、発売した年に販売量が100万箱を超えた新商品は、86年にサントリーが発売した「モルツ」のみ。その数は184万9000箱だった。

    これをみれば、いかにラガーが圧倒的な売れ行きだったかがわかるだろう。

    キリンのシェアは圧倒的だったので、これ以上のシェアアップは、独占禁止法に牴触する可能性があった。ゆえに、当時にキリンでは、ラガーを越えるような新製品は求められていなかった。

    一方、ハートランドの生みの親前田仁も、ハートランドの売り上げがラガーを超えることを最初から意図していなかった。

    前田が意図していたのは、ラガーを量で上回るのではなく、質で凌駕することだった。

    そのため、特定の人にだけ深く刺さる商品を投入した。そのことによって、ラガーがつくりあげた、戦後のビール文化を変えようとしていた。

    ゆえに前田はハートランドの売り上げが低迷することを恐れてはいなかった。

    前田が恐れたのは、ブランド価値を希薄化してしまうこと。具体的には、ハートランドの全国発売を阻止することだった。(つづく)

    永井 隆(ながい・たかし)

    1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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