教養・歴史書評

今こそ「尊厳」概念を学びなおす

『尊厳 その歴史と意味』 評者・将基面貴巳

著者 マイケル・ローゼン(政治哲学者) 訳者 内尾太一、峯陽一 岩波新書 924円

人権に配慮した市民社会へ 今こそ学び直すべき概念

「尊厳」という日本語は、近代日本において用法が大きく変化したものの一つであろう。戦前・戦中には、天皇や国体の尊厳あるいは国旗や軍旗の尊厳について語られるのが常だった。戦後になって、そうした用法は影を潜め、個人や生命の尊厳が論じられるようになった。

 西洋においても、「尊厳」という日本語に相当する英語である「dignity」という概念は、さまざまな意味で用いられてきた。本書は、西洋の思想的伝統における尊厳概念の用法を整理した上で、尊厳をめぐる法制度が直面する困難をドイツに例をとって検証する。そして、まだこの世に生まれ出ていない胎児や、もはや生きていない死者についても尊厳を見いだすべきことを、カント哲学を補助線として考察する。

 西洋の伝統では、尊厳には大別して四つの意味がある。一つ目は地位としての尊厳である。身分制が存在した前近代社会では、高い身分の者だけに尊厳が認められていたが、フランス革命以降、人間の平等が説かれ、人間であること自体に平等な尊厳があると考えられるようになった。二つ目は、本質としての尊厳である。カントによれば、人間は自ら道徳法を作る能力を持っており、そうした道徳的主体として人間には平等の尊厳があるとされる。三つ目は、「態度としての尊厳」である。18世紀ドイツの詩人・歴史学者であるシラーは、苦難の中にあって毅然(きぜん)として耐える態度に尊厳を見いだした。最後に四つ目は、自分自身の尊厳ではなく、他者の尊厳に対する態度を問題とするもので、他者に対する敬意の表現に関わるものである。

 尊厳という問題は、経済界のリーダーにとって無縁であるどころか、本格的に思考を深めることが必要不可欠である。今世紀に入って日本の雇用は非正規雇用者が激増し、企業側の都合によっていとも簡単に使い捨てにされるようになった。ブラック企業は、人の顔をすり砕くかのように職員を扱う。これこそは、被雇用者の人間としての尊厳を蹂躙(じゅうりん)する行いに他ならない。

 本来、近代資本主義社会は「コモンウェルス(commonwealth=共通善)」という英語で表現される市民社会であり、資本家には、私企業の利益拡大だけでなく社会全体の福祉を増進することが求められたものだが、こうした思想は新自由主義思想の蔓延(まんえん)とともに忘れ去られてしまった。尊厳を傷つけられた人々の犠牲のもとに経済活動が成立する現状を批判するために、尊厳について理解を深めることは喫緊の課題である。

(将基面貴巳、ニュージーランド・オタゴ大学教授)


 Michael Rosen イギリス生まれ。オックスフォード大学とフランクフルト大学に学び、現在はハーバード大学政治学科の教授を務める。『Hegel's Dialectic and Its Criticism』などの著作がある。

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