新規会員は2カ月無料!「年末とくとくキャンペーン」実施中です!

週刊エコノミスト Online 日本人の知らないアメリカ

アフガン戦争敗北の謎に迫る① アメリカの大統領たちはなぜ間違った判断をし続けたのか……予想された敗北=中岡望

アフガニスタンからアメリカ国内に逃れてきた人々 Bloomberg
アフガニスタンからアメリカ国内に逃れてきた人々 Bloomberg

私たちには理解できない、世界一の超大国アメリカの全貌に迫る連載「日本人の知らないアメリカ」。今回は、アメリカの外交軍事政策の内幕を、「アフガン戦争」の分析を通して明らかにしてみたい。

これまでの連載はこちらから>>

 アフガン戦争は20年に渡って続き、共和党の2人の大統領(ブッシュ、トランプ)と民主党の2人の大統領(オバマ、バイデン)が関わった特異な戦争である。なぜアメリカはアフガン戦争を始めたのか、なぜ勝てなかったのか、そして何が問題だったのかを、複数回に分けて解き明かす。まずはブッシュ大統領による「最初の失敗」から。

アメリカ軍のアフガン戦争敗北で何が問われているのか

 20年に及ぶアフガン戦争はアメリカの“不名誉な撤退”で終焉を迎えた。カブールから撤退するアメリカ軍の様子は、1975年にベトナム戦争で敗北し、サイゴンから撤退する様を思い起こさせた。今でも鮮明に覚えているのは、ヘリコプターに乗り込もうとするベトナム人男性の顔を屈強なアメリカ人男性が殴りつけ、振り落とそうとする様子をとらえた当時の報道写真である。

 カブール撤退でも、アフガン人青年がアメリカ軍の飛行機から振り落とされて死亡する事態が起こっている。カブール空港の周辺には脱出しようと多くのアフガン人が押し寄せ、大きな混乱が起きた。アメリカに協力的だったアフガン人を放置して撤退したことに対して、多くのメディアはアメリカの“倫理的責任”を問うている。

 こうしたセンセーショナルな事案に目が向きがちだが、アフガン問題についてはそれ以上に、検証されなければならない問題がいくつもある。

 なぜアメリカはアフガニスタンに軍事介入したのか。圧倒的軍事力を持っているにも拘わらず、なぜアメリカ軍は弱小なタリバンのゲリラに敗北を喫したのか。アフガン介入に踏み切ったアメリカの外交軍事政策とは、何だったのか――。

 戦争は「始め方」と「終わらせ方」が重要である。「終わり方」だけ見ていては、戦争の本質は見えてこない。アフガン戦争の本質を理解するには、まず「始め方」から検討しなければならない。

 アメリカは戦後、常に海外に対して軍事的関与を続けてきた。地域紛争に対する干渉とは別に、5つの大きな戦争を戦ってきた。同盟国が一致して戦った「湾岸戦争」の勝利を除けば、「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」「アフガン戦争」「イラク戦争」は、いずれも敗北に終わっている。負けた4つの戦争は、いずれも正規軍同士の戦いではなく、“ゲリラ戦”であった。

 後で詳しく説明するが、アメリカは外交政策だけでなく、軍事政策においても深刻な問題を抱えているのである。

アフガン進攻を始めたブッシュ政権の“誤算”

崩れ落ちた世界貿易センタービル Bloomberg
崩れ落ちた世界貿易センタービル Bloomberg

 すべては2001年9月11日の連続テロ事件から始まった。崩れ落ちるワールド・トレード・センターの様子は、多くのアメリカ人にヨハネの黙示録に書かれた“アルマゲドン(終末戦争)”を想起させ、心に深いトラウマを残した。

 2002年、筆者はセントルイスの大学で教鞭を取っていた。連続テロ事件の一周年に犠牲者を追悼する集会がキャンパスで開催された。追悼集会に出席した人たちの様子を見て、連続テロ事件がいかにアメリカ人の心に大きな傷を与えたか、改めて思い知らされた。

同時多発テロからおよそ1カ月後、グラウンド・ゼロに集まった人々 Bloomberg
同時多発テロからおよそ1カ月後、グラウンド・ゼロに集まった人々 Bloomberg

 事件後、アメリカ社会は大きく変貌する。テロを恐れるあまり、監視社会へと変わって行き、アメリカ民主主義の根幹が崩れ始める。外交政策も伝統的な現実主義に基づく路線から逸脱していく。

 アメリカ政府は、連続テロ事件の首謀者をアルカイダの指導者オサマ・ビン・ラディンと断定した。さらにアフガニスタンはテロ集団アルカイダを支援し、軍事訓練を行っていると非難した。そしてアフガニスタンのタリバン政権に対して、ビン・ラディンなどアルカイダの指導者の引き渡しを要求した。これに対してタリバン政権は、「アメリカの主張には証拠がない」と要求を拒否した。

 その結果、2001年10月7日にブッシュ大統領は、アフガンニスタンへの軍事攻撃を命じる。このとき、同時に軍事介入の正当性を主張する演説を行っている。

 「私の命令によってアメリカ軍はアルカイダのテロリストの軍事訓練キャンプとタリバン政権の軍事基地に対して攻撃を始めた」。その理由について、「2週間以上にわたって私はタリバンの指導者に対して、テロリストの軍事訓練キャンプの閉鎖、アルカイダの指導者の引き渡し、不当に勾留されているアメリカ人を含むすべての外国人の解放を求める明確かつ具体的な要求を行ってきた。しかし、要求は受け入れられることはなかった。タリバン政権は、その代償を支払うことになる」と主張した。

 ブッシュ大統領は「この軍事行動はテロに対する作戦の一部である」と国民に訴え、軍事作戦を「永久的自由作戦(Operation Enduring Freedom)」と名付けた。この時点で、ブッシュ政権は最初の間違いを犯している。それは、アフガン侵攻を「世界的なテロとの戦い(Global War on Terror)」の一環であると位置づけたことだ。

 さらに、ブッシュ大統領は「ブッシュ・ドクトリン」を発表する。それは、アメリカにとって脅威であると認定したら、敵に対して「先制攻撃」を加える、という乱暴な政策である。「テロとの戦い」と「ブッシュ・ドクトリン」が、ブッシュ政権の外交軍事政策の基本となった。

 アフガン戦争は「宣戦布告」なく始まった戦争である。戦争宣言を行う権限は議会にあるが、議会はアフガニスタンに対して宣戦布告を決議してはない。ブッシュ大統領はアフガン侵攻を戦争ではなく、「長期にわたる軍事作戦(lengthy campaign)」であると詭弁を弄し、軍事攻撃を継続した。それが20年に及ぶ軍事作戦になるとは、予想もしていなかった。

連続テロ事件を政治的に利用したブッシュ大統領

 ブッシュ大統領が「テロとの戦い」を政策に掲げたのには理由がある。連続テロ事件はブッシュ大統領にとって“神風”だったのだ。

 2000年の大統領選挙で、ブッシュ候補は、最高裁がフロリダ州の投票結果の再集計を認めなかったことにより、民主党のゴア候補を破って当選を果たした。このため「最高裁が決めた大統領」と国民にとらえられ、支持率は低かった。だが連続テロ事件後、テロリストに対して強硬な姿勢を取ることで、支持率は急上昇した。国民は「テロとの戦い」を支持したのである。連続テロ事件直後に行われた世論調査(Gallup, “Support for War on Terrorism Rivals Support for WWII”、2001年10月3日)では、アメリカ人の89%がテロリストに対して“軍事的報復”を行うべきだと答えている。

アフガン侵攻の理由にネオコンの「国家建設論」が加わった

 アメリカ軍の攻撃に遭ったアルカイダは、トラ・ボラと呼ばれるパキスタン国境にある険しい山岳地域やパキスタンに逃亡した。アルカイダを放逐したアメリカは「ボン協定」に調印し、ハミッド・カルザイを暫定大統領とする新政権を発足させる。アルカイダを放逐し、文民政権を樹立したことで、アフガン戦争の所期の目的は果たされた。このときこそ、アメリカが軍事行動を中止する最初のチャンスであった。だがブッシュ政権は、「テロとの戦い」に加え、アフガニスタンを民主国家にするという「国家建設(nation-building)」構想を打ち出したのである。

チャールストン空軍基地を訪問し、軍関係者と談笑するブッシュ元大統領 Bloomberg
チャールストン空軍基地を訪問し、軍関係者と談笑するブッシュ元大統領 Bloomberg

 「国家建設」構想は、アフガニスタンを民主化することがテロを防ぐ手段であるという理論に基づいている。その結果、アメリカはアフガニスタンに長期的にコミットすることになる。政策の背後には、「ネオコン」と呼ばれるグループが存在した。彼らは「理想主義」と「介入主義」に基づく外交軍事政策を主張した。独裁国家に「体制転換(regimen change)」を求め、民主主義への転換を進めることを求めた。独裁国家の体制転換を実現し、世界をアメリカ的民主主義に変えることが、アメリカの最大の安全保障政策だと考えていた。その政策の最初の対象がアフガニスタンであり、イラクであった。

 2002年4月、ブッシュ大統領はネオコンの主張を受け、「アフガニスタン再建計画」を発表。議会もアフガン再建のため10年間で390億ドルの予算措置を承認した。圧倒的な軍事力でタリバン政権を放逐した後、2003年10月にラムズフェルト国防長官は「大規模な軍事活動の終了(major combat activity)」を宣言する。この時点での派遣米兵の数は8000人に過ぎなかった。だが、「軍事活動終了宣言」が出されたにも関わらず、アメリカ軍の撤退は行われなかった。

アフガニスタンのハミド・カルザイ元大統領 Bloomberg
アフガニスタンのハミド・カルザイ元大統領 Bloomberg

 アメリカの支配のもとで2004年に大統領選挙が行われ、カルザイ大統領が誕生。翌年には議会選挙が行われ、アフガニスタンの民主化が進むと思われた。だが、議会には部族の指導者など旧態依然とした非民主的勢力が温存された。選挙という形ばかりの民主主義が導入されたが、国家を統一し、民主主義制度を根付かせる態勢は根付いていなかった。

 2004年10月29日、事態は急変する。姿を消していたビン・ラディンが、ビデオを通して自分が連続テロ事件の主犯であると明らかにしたのだ。2005年になると、パキスタンに逃亡していたタリバンがアフガニスタンに戻り、米軍やアフガン軍にテロ攻撃を加え始める。内戦の始まりである。タリバンはアメリカ軍侵攻時点と比べ、はるかに脅威的な存在に変化していた。そして2006年、タリバンはついにアフガニスタンの南部地域を占領したのである。

軍事専門家は最新技術駆使で“安上がりの戦争”を主張

 膨大な軍事力を投入しながら、アメリカ軍が勝利を収めることはできなかったのはなぜなのか。それには幾つかの理由が考えられる。

 まず、アメリカ軍はゲリラ戦争を十分に理解していなかった。ベトナム戦争の教訓はまったく生かされなかったのである。多くの軍事専門家は、最新鋭のドローンや無人機を使って攻撃すれば、地上軍を投入することなく、“安く”戦争を行うことができると主張していたが、山岳地帯に逃げ込んだタリバンを攻撃することはできなかった。

 住民に紛れ込んだタリバン兵を攻撃する際、ドローンや無人機の誤爆が頻発した。ブラウン大学ワトソン研究所の推計では、20年間に死亡した民間人は4万7245人に達している(Brown University, ”Costs of War”, 2021年4月15日)。ちなみにアフガン軍や警察官の死亡数は、6万6000人から6万9000人と推定される。アメリカ軍兵士は2442人、戦死している。民間人を殺傷し、腐敗したアフガン政府と軍は、国民の信頼を得ることができなかった。アメリカのアフガニスタンの「民主化」を進める政策も、地元の人々にとっては「アメリカによる占領」以外の何物でもなかった。

 タリバンの攻勢が強まるとともに、アフガン派遣のアメリカ軍の数は増加した。ブッシュ大統領の任期最後の年の2009年には、その数は3万人に達した。明確な戦略を欠いたアメリカは、「国家建設」という幻想を抱いたまま、20年に及ぶアフガン戦争の泥沼に足を踏み込んでいくことになる。

失敗はテロと“犯罪”ではなく“戦争”と誤解したことから始まった

 ジャーナリストのポール・ローゼンバーグ氏は、ブッシュ大統領が連続テロ事件を単なる“犯罪”ではなく、“戦争”として扱ったことが、ビン・ラディンをイスラム世界で英雄にし、「イスラムとキリスト教西欧社会の対決」という枠組みを作り出したと分析している。「これによって、すべての問題の種が蒔かれた」と、ブッシュ大統領の犯した過ちを指摘する(”Sorry, George W. Bush, but this whole mess is still your fault”, Salon,2014年7月16日)。

同時多発テロの5周年追悼集会で「テロリストを打ち負かすために一緒に立ち上がろう」と呼びかけるブッシュ元大統領 Bloomberg
同時多発テロの5周年追悼集会で「テロリストを打ち負かすために一緒に立ち上がろう」と呼びかけるブッシュ元大統領 Bloomberg

 「私たちはすべての文明国家に脅威を与える敵と世界戦争を展開している。テロリストを打ち負かすために一緒に立ち上がろう。テロリストの脅威は残っている」。2006年9月5日にワシントン・ヒルトン・ホテルで行われた連続テロ事件の5周年追悼集会で、ブッシュ大統領はこう強調している。そして、国民に対してアフガン戦争とイラク戦争に対する支持を求めた。

 ブッシュ大統領は連続テロ事件を政治的に利用し、ネオコンは湾岸戦争でのフセイン失脚の失敗を取り戻そうとしたのである。アメリカには常に敵が必要であった。そして。アメリカは常に自らを正義と考えた。冷戦終結で共産主義は敵でなくなり、国際テロがそれに代わる新しい敵となった。

 アフガン戦争とイラク戦争の状況が泥沼化するなかで、ブッシュ大統領の支持率は急落していく。2009年、共和党のブッシュ大統領から民主党のオバマ大統領へと政権が交代する。オバマ大統領は選挙運動中にブッシュ大統領のアフガン政策とイラク政策の批判を展開した。戦争が長引く中で、多くの国民も政策の転換を期待し始めていた。政権交代とイラク戦争での失敗で、ネオコンは外交政策の表舞台から消えていった。

 では、オバマ大統領のアフガン政策はどう変わったのか。続編でお届けする。

後編はこちら>>

中岡 望(なかおか のぞむ)

1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。ハーバード大学ケネディ政治大学院客員研究員、ワシントン大学(セントルイス)客員教授、東洋英和女学院大教授、同副学長などを歴任。著書は『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など

インタビュー

週刊エコノミスト最新号のご案内

週刊エコノミスト最新号

11月26日号

データセンター、半導体、脱炭素 電力インフラ大投資18 ルポ “データセンター銀座”千葉・印西 「発熱し続ける巨大な箱」林立■中西拓司21 インタビュー 江崎浩 東京大学大学院情報理工学系研究科教授、日本データセンター協会副理事長 データセンターの電源確保「北海道、九州への分散のため地産地消の再エネ [目次を見る]

デジタル紙面ビューアーで読む

おすすめ情報

編集部からのおすすめ

最新の注目記事