日記に約60軒も! 食いしん坊・魯迅の姿を活写
食いしん坊の魯迅=辻康吾
著作集などで見かける魯迅の写真からは謹厳実直な人柄がうかがわれる。とはいえ魯迅も「食をもって天となす」中国人の一人であり、食べることには熱心であったようだ。
薛林栄(せつりんえい)著『魯迅的飯局』(2021年、広西師範大学出版社)は、魯迅が教育官僚、大学教員として過ごし、作家活動に入った20世紀初めの北京を中心に友人知人と重ねた会食(=飯局(ファンチュイ))を日記や書簡から洗い出す。教育部の同僚との打ち合わせなど日常的な会食に始まり、同時代の文筆家だった林語堂らとの会食のエピソードも語られる。上海にあった「内山書店」の面々など、日本とかかわりのある会食も登場して興味深い。
北平と呼ばれたこの時代の北京では、山東料理など北方系の料理店に加え、江蘇、浙江といった「南方」の料理店が相次ぎ店を開き食通を楽しませたのだという。紹興酒で名高い浙江省紹興出身の魯迅は、揚州、蘇州といった当時売り出しの南方系の料理屋がひいきだったようだが、魯迅の日記に登場する北京の料理店は、北京ダックの「便宜坊」など今日なお繁盛する北方系の名店を含めて約60軒にものぼるともいう。どうしてなかなかの食通ぶりではないか。
魯迅が、教育総長(大臣)に就任した蔡元培(さいげんばい)の招きで北平に着任したのは1912年の初夏だった。実は、この頃北平の位置する華北と、山海関をはさんで接する東三省(中国東北部)では、死者約6万人にのぼるペストの大流行がようやく抑え込まれたばかりだった。さらに、コロナ禍で引き合いに出される「スペイン風邪」の世界的な流行が始まったのは、魯迅が初期の代表作となる「狂人日記」を雑誌『新青年』に発表したのと同じ1918年である。本書が食を通じて描いた魯迅の日常は、今日に似た感染症のパンデミックと重なり合う時代のことだったのだ。
基礎医学を仙台で学んだ魯迅は、自身がさほど丈夫でなかったこともあり、感染症にはむしろ敏感だったことが日記などからうかがえる。一度は医師を志した魯迅自身が、どの程度会食による感染のリスクを認識していたのかは知る由もない。だが、厳戒一辺倒の今日の中国からは想像できないほど、魯迅がおおらかに「飯局」を楽しんだことだけは本書からありありと伝わってくる。
(辻康吾・元獨協大学教授)
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