週刊エコノミスト Onlineキリンを作った男・前田仁

部下を救うため人事部と闘った部長

「部下を斬るなら、俺を斬ってからにしろ」。前田は断固として部下を守った(2009年ビバレッジ在籍時)
「部下を斬るなら、俺を斬ってからにしろ」。前田は断固として部下を守った(2009年ビバレッジ在籍時)

誰かを処分しなければ示しがつかない

何がどうなったのか、前田は説明を始めた。

30分ほど前、人事部に呼ばれた前田は、上野と直接担当したメンバーの二人の処分を伝えられる。「懲戒処分にします。譴責(けんせき)です」と。

これに対し前田は反発する。

「納得できません! 懲戒と言ったら、不祥事を起こした者が受ける処分です。確かに、“米”を見落としたのはミスだった。しかし、会社の金を私したような輩とはまったく違う。同列に扱うこと自体、おかしい。二人は会社のため、ビールを愛するお客様のため、サッカーを盛り上げるため、何より世の中のために一生懸命働いています。その結果、チェックを怠ったのだが、こんなことで懲戒処分されるようなら、マーケ部にも本社にも異動を希望する社員はいなくなってしまう」

「前田部長、示しがつかないのですよ。誰かを処分して、責任の所在を明確にしなければならないのです」

「何を言っているんだ。それじゃあ、俺の2人の部下は生け贄じゃないか。そんなこと、俺は許さない。人材育成は人事部の仕事のはずなのに、人を殺して平気なのか!」

相手は人事部の偉い人だったが、前田はお構いなしに語気を荒げた。すうると、ここで人事部の別の幹部が発言する。

「就業規則をお読みになりましたか? 就業規則の中に『会社に多大な損害を与えた場合は処分する』とあります。今回のケースでは、これが適用されたわけです。人事としては、懲戒は適切であると判断しています」

ジリジリとした時間が過ぎ、ここで前田は言った。

「上野たちを懲戒処分するなら、その前に俺を懲戒にしろ! 同じ譴責にしたらいい」

「何を言い出すのですか。できるわけが、ないじゃないですか。確かに前田部長には管理責任はあります。が、懲戒に値するほどではありません…」

適正と言った幹部が、狼狽えながら言葉を継いだ。

懲戒処分にするということは、前田の人事データに記録が残ることになる。

前田はスターであり、いわゆる一選抜(初発ともいう)といって同世代で一番早く上級管理職である部長に就いた人材だ。しかも、就任時に40代の部長は社内で前田だけだった。

役員に昇格するのは時間の問題であり、将来はキリンビールかキリンビバレッジの社長に就いてもおかしくはない。

そんな逸材の人事データを汚(けが)すことがあれば、逆に人事部の責任問題につながってしまう。

キリンをはじめ多くの日本企業では、新入社員から執行役員までの人事権を人事部が掌握する。採用に始まり、異動、昇進昇格と、上司が下す人事評価と照らしながら、最終的には人事部が決定していく。多くの社員の中で人事がマークするのは一選抜。

若い部長の前田は経営者育成という面から、人事が守らなければならない“宝”だったのだ。すでに、キリンの看板にもなっていた。

日本企業のラストサムライ

「マーケティング部の責任者は俺だ。俺を懲戒にする。これが、2人の部下を懲戒処分にする条件だ。決して譲れない」

これは上野が後日、人事関係者から又聞きした話だが、前田は頑固で一歩も譲らないばかりか、最後は“ぶち切れていた”そうだ。

「というわけだ。以上」

「ありがとうございます」

上野は自然と頭を下げていた。もうショックを通り越して、感動を覚えていた。

『この人は、本当のサムライだ』と思った。

上野も懲戒を受けた部下も、前田から特別に評価されていたわけではなかった。そうした次元ではなく、自分の部下たちが安易に懲戒処分の対象となった理不尽さを、前田は許さなかったのだ。そして、仲がいいとか、仕事ができるとかを度外視して、「前田さんの仲間を思う気持ちは、本当に強い」と上野はしみじみ感じた。

前田は身体を張って、部下を守ろうとしたのだ。

前田の後ろにいた総務上司は、「人事部は何も分かってません。現場を知ろうとしない。困った人たちですよ」と調子よく前田にお追従(ついちょう)をした。

上野であっても総務上司であっても、仮に前田の立場にいたなら、『今回のことを十分に反省して、二度と間違いのないように』と懲戒を受ける部下に対し、人事部のサイドに立って話していたに違いない。表面的には、きれいな言い回しだが、『もう、あなたの将来はこの会社にはない』ということを伝えている。出世欲の強い上司ならば、素早く、多くを被せて、さらには辛辣な言い回しで部下を遠くに追いやったはず。

そもそも、人事権を有する人事部に喧嘩を売る上級管理職など、そうザラにはいない。自身が左遷された経験をもつためか、正面から人事部に前田は立ち向かえたのかもしれない。

この日の夜、帰宅した上野は夫人に告げた。「会社で懲戒処分を受けることになった」

「アラ大変…、大丈夫なの、この先」

「大丈夫じゃないだろうなぁ。でも、部長も懲戒になったんだ」

「そうなの…。なら、なんとかなりそうね」

○最後まで勤め上げる幸せ

数日後、中央区新川にあったキリン本社8階。

午後のマッタリとした時間。

「おーい、上野」

前田が部長席から上野を呼ぶ。

「お前はもう、始末書は書いたか?」

「いえ、まだ途中です」

「そうか、俺は書いたぞ。見てみい」

と、引き出しから一枚のペーパーを取り出すと、上野に差し出す。前田は、ニヤニヤ笑っていて、いたずらっ子のような眼をしている。

「エエか、上野。始末書いうのはなぁ、作法があるんや。まず、ペンを使い自筆で書く。インクは黒がええな。まぁ、読んでみぃ」

「はい…」

男性的な力強い字体で綴られた内容は、定型的な『始末書』そのものだったが、おおむね読み終えようとしたとき、

「もう、校正ミスはするなよ」と、前田は声をかけた。

「勘弁してくださいよ」

「最後にほら、俺の直筆の署名もあるやろ。ちゃんと確認するんやで、見落としたらアカン」

前田はニヤニヤと終始楽しそうだった。上野は『軽いな、この部長』と感じたが言葉にはしなかった。

おそらく前田は、上野が必要以上に悩まないよう、敢えて軽く振る舞ったのだろう。『そもそも、前田さんほどの人が、悪戯心で部下をイジったりはしないはず。深謀遠慮があって当然だ。それを理解できる部下でなくてはならない』と上野は思った。

『「終わったことはもう気にせずに、前に進め」、と前田さんは言いたいのだ。そういえば、前年秋に健康系発泡酒でサントリーに後れをとったとき、前田さんは関西弁で雷を落とした。いまにして思えば、あれもチームに対する叱咤だったのではないか。「先は越されたが、迷わずに前へ進め」と、伝えたかったに違いない。前田さんは深い人だ』、と上野はしばし想像した。

前田の関西弁は、時に激しく、時に軽やかであり、人を動かす力をもっていた。

前田は芯の強い信念の人である。それは、平社員の頃も、偉くなってからも変わらない。背景には、この男が持つ人に対する優しさが、いつもあったからだろう。

上野はこの後もマーケティング部に勤務し続け、やがてはエリートが集まる人事部に異動する。普通に昇進昇格を重ね、最後は経理や人事業務をサポートする子会社の社長を務め、2021年に退職する。

その後のサラリーマン人生で懲戒処分の影響を受けなかったのは、上司の前田が人事部と闘い、前田自身も懲戒を受けるよう動いたお陰だったろう。

「34年半に及ぶ私のサラリーマン人生で、懲戒と前田さんがとった行動は、一番の思い出です」

 しみじみと上野は語った。

永井 隆(ながい・たかし)1958年生まれ。フリージャーナリスト。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動を行う一方、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。 主な著書に『移民解禁』(毎日新聞出版)、『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』『EVウォーズ』(日本経済新聞出版社)、『究極にうまいクラフトビールをつくる』(新潮社)など。

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