日銀の異次元緩和を行動経済学で分析すると「不毛な号令」? 批判と啓蒙性を兼ね備えた好著=評者・小峰隆夫
『人の心に働きかける経済政策』 評者・小峰隆夫
著者 翁邦雄(大妻女子大学特任教授) 岩波新書 946円
異次元緩和は「不毛な号令」? 行動経済学の応用で考える
人間の心理的側面を重視して研究する行動経済学は、すでに各方面で実装が進んでいる。それは主にミクロの個人の行動を対象としてきたのだが、行動経済学の第一人者であるリチャード・セイラー米シカゴ大学教授は、「行動学的アプローチをいちばん取り入れてほしい経済学の分野を1つ選ぶとしたら、マクロ経済学だろう」と言っていたという。
本書は、行動経済学の成果を生かしながら、金融政策を中心にマクロ経済政策に新たな視点を提供しようとする。まさにセイラー教授の指摘に対応するものだと言える。以下、特に印象に残った指摘を紹介しよう。
行動経済学の知見に「責任者は深みにはまる」という指摘がある。先頭に立って部隊を率いる隊長は、自分が示した道が間違いだったことを認めたくないため、部隊がどんどん深みにはまってしまうというのだ。
さて、日銀の異次元金融緩和には、実体としての金融政策の側面と、人々の「期待」に働きかけるメッセージとしての側面がある。実体としては、マネタリーベース(中央銀行が直接供給する資金の量)を拡大することで金利の低下などを促そうとする。ところが、マネタリーベースは増えても、金融機関は日銀預け金に支払われる利子でもうけているだけだから、デフレ脱却の効果はない。
メッセージとしての側面では、エコノミストや債券市場、一般家計のインフレ期待(将来のインフレ率の予想)は動かなかった。それどころか、「マイナス金利政策」は、その「フレーミング」(表現の仕方や選択肢の見せ方)が逆に国民心理を凍り付かせてしまった。
日銀の2%のインフレ目標にも疑問が呈される。0%を超えてどの程度の「のりしろ」を持つかは国によって異なっており、2%がグローバルスタンダードだというのは、願望的な思い入れに過ぎないというのだ。
そして、物価安定とは「人々が物価の変化を考慮しないで済む状態だ」というアラン・グリーンスパン元米連邦準備制度理事会(FRB)議長の定義が示され、異次元緩和導入当時の物価情勢はこのグリーンスパン流の物価安定が実現していたとする。こう考えてくると、2%目標を掲げて異次元緩和を続けることは、間違いを認めない隊長の「腰まで泥まみれになってもなお前進せよ」という不毛な号令にすぎないことになる。
本書は、マクロ経済政策への行動経済学の応用という創造性と、それを通じた異次元緩和への批判という啓蒙(けいもう)性を兼ね備えた好著である。
(小峰隆夫・大正大学教授)
翁邦雄(おきな・くにお) 1951年生まれ。東京大学経済学部卒業後、日本銀行入行。筑波大学社会工学系助教授、日本銀行金融研究所長などを経て現職。著書に『経済の大転換と日本銀行』『移民とAIは日本を変えるか』など。