マーケット・金融異次元緩和を問う

実験的政策は柔軟な転換が重要=早川英男/5

 異次元金融緩和が実験的政策であることを早い段階で指摘していたのが、元日銀理事の早川英男氏だ。短期決戦の勧めとは裏腹に9年以上が経過した。根拠はないものの効果があるかもしれない政策に踏み出すべきなのか。実験の爪痕とは。(異次元緩和を問う)

 日銀で調査統計局長を長く務め、論客として知られた早川氏は、理事退任後の2016年7月に『金融政策の「誤解」』を刊行、第57回エコノミスト賞を受賞した。「異次元緩和は実験的政策で、成功するとすれば短期決戦」と指摘するこの本に印象的なエピソードがある。 1990年代末、「日本は量的緩和の実験を始めるべきか」について各国のエコノミストは対照的な意見を述べた。大陸欧州諸国の人々は「効果を説明できない政策を行うのは無責任だ」と批判する一方、米英などアングロサクソン系は「コストが大きくなく、うまくいく可能性が少しでもあるのなら試さないのは無責任だ」と積極的だったという。

 異次元緩和は完全に失敗するとは限らず、うまくいく可能性があると僕は思っていた。従来の日銀の金融政策ではデフレからなかなか脱却できないのだから、一回実験をしてみても悪くはない。理屈では説明がつかないのだが、量的緩和は資産価格には利く。

 米連邦準備制度理事会(FRB)のバーナンキ元議長は退任直前に「量的緩和の問題点は、実際には効果があるのに、理論的にはうまくいかないということなんだ」と発言している。冗談だと扱われているが、彼の本音だったのだろう。根拠のない量的緩和策の効果を出すために、「効果はある」という芝居をやり通したのだ。

 マクロの経済政策には、どうしても実験的な要素が入ってしまう。経済学ですべて解明されているわけではないにもかかわらず、現実に政策を動かさなければならない。その場合、柔軟に方針を変更できることは非常に重要だ。今回のように10年間も逃げ場のない状況に追い込まれないようにしなければならない。

 逆に言えば、やってみて「間違いだった」と謝って方向転換できる文化であれば、「実験的な政策をやるべき」となり、それが許されない文化の国とは判断が異なるのかもしれない。現に、FRBは昨年まで「インフレは一時的」だとしていたが、利上げに切り替えた。

 日本は、間違いを認めて引くことがなかなかできにくい国ではある。金融緩和を経済政策の柱とした安倍政権が長期政権となったため、ずるずると続ける羽目になってしまった。政権が続いているなかで、日銀が手を引くことはできなかった。

 異次元緩和という実験に踏み切ったこと自体は肯定する早川氏だが、『金融政策の「誤解」』では「デフレこそ諸悪の根源」とマネーの量を増やすよう求めていた「リフレ派」のロジックを一刀両断する筆致が際立つ。

勝負の分かれ目は14年春闘

 メディアは当初、「世の中に出回るお金が増えると物価が上がる」と説明していたが、日銀でそれを信じていた人はあまりいない。メカニズムはよく分からないが、サプライズで為替が円安に動けば、企業収益が上がって株高となり、円安により物価も上がる。

 そこから持続的な物価上昇が起きるステップとして、黒田東彦総裁の念頭にあったのは期待インフレ率の上昇だろう。確かに経済学の教科書にはそう書いてあるが、僕はそれに対しても懐疑的だった。過去の実証研究で、期待インフレよりも過去のインフレ実績の方がはるかに物価の決定要因として利いていることが分かっていたからだ。

 何が物価を動かすかといえば、賃金だと僕は考える。異次元緩和を始めた13年は景気が改善し、物価も思ったよりも上がった。そこで賃金が上がれば、そのまま好循環に向かう可能性もゼロではなかった。完全に成功するかどうかの勝負は14年の春闘だと思い、安倍晋三首相(当時)が賃上げ要請する官製春闘にも賛成していた。

 ところが、春闘で賃金はまったく上がらなかった。企業は円安で利益が増えているのに賃金を上げなかった。14年4月には消費税率も上がっていたから、「賃金が上がらないのに物価だけが上がる」と、国民の不満が増しかねなかった。その時、幸い原油価格が下がり、交易条件が改善したにもかかわらず、日銀は14年10月の追加緩和で円安にして潰してしまった。

 日銀は14年春の時点で「勝ち逃げ」すればよかったが、「もしかするとうまくいくかもしれない」という思いもあったのだろう。ようやく16年9月に総括的検証を行い、イールドカーブ・コントロール(長短金利操作)を導入して長期国債の購入量を減らすなど“ステルス正常化”を始めたが遅かった。

形骸化した「80兆円」

 新発国債が年30兆円台なのに対して、年間で80兆円増えるように買い続ければ、早晩破綻するから、どこかで国債購入額を抑えなければならなかった。ところが、審議委員として政権から大量のリフレ派を送り込まれ、表向きは緩和強化を打ち出さざるをえなかった。

 心配だったのは、金融政策決定会合の発表文に「年間80兆円増」という長期国債の買い入れめどの数字を残し続けていたことだ。実際には80兆円増えるほど買っておらず、コロナを機に数字を外した(図)。日銀の事務方は決定会合の方針に従って金融調整を行うのが建前だから、担当理事と局長は処分されてもおかしくなかった。国会で問題視されたら、困った事態に陥っていただろう。

 98年に施行された改正日銀法のもとで、本来であれば金融政策の透明性を高めるはずだったのに、非常に不透明で分かりにくい状態が続いている。日銀が「緩和強化」と言っても、金融市場の参加者はステルス正常化を進めていると分かっているからマーケットの混乱は起こらずにきた。

 しかし、決めた方針と実際の行動が正反対の状態が続き、市場がそれを受け入れてきたことは正常な関係ではない。

 ここにきて長期金利を抑え込んだしわ寄せが、為替に向かっている。金利操作を弾力化した方がいいと僕は考えるが、金融政策の先行きの方針について金融市場に織り込ませるフォワードガイダンスはできない。市場で弾力化の思惑が生まれたら、政策決定会合の日まで売り浴びせられる。海外勢のカラ売りも含めて、日銀は国債を買い続けなければならない。ステルス正常化で国債購入量を減らしてきたが、元に戻ってしまいかねない。

 異次元緩和の反省点は、マーケットとのコミュニケーションを完全に壊してしまったことだ。対話の再建には相当の時間がかかる。

(早川英男・元日銀理事)

(構成=黒崎亜弓・ジャーナリスト)


 ■人物略歴

はやかわ・ひでお

 東京財団政策研究所主席研究員。1954年生まれ。日本銀行調査統計局長、理事を歴任し2013年4月に富士通総研経済研究所へ。


 ※次回の掲載予定は7月5日号

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