多様な東南アジアが一体性を保てる歴史的理由=評者・近藤伸二
『海の東南アジア史 港市・女性・外来者』 評者・近藤伸二
著者 弘末雅士(立教大学名誉教授)
ちくま新書 968円
異文化間の仲立ちで培った独自の感覚や知恵の歴史
海の十字路の要衝に位置する東南アジアは、近世から東西貿易の中継港となり、各地で香辛料をはじめとする産品を積み出す港市(こうし)が形成された。港市の支配者は、欧州商人にも門戸を開いた。この地域は、欧州に植民地統治された時期も長い。
そんな歴史が積み重なり、東南アジアは民族や言語、宗教が複雑に入り交じるが、次第に社会統合を成し遂げていく。その過程で、外来者と世帯を持った現地人女性、現地人女性と欧州人男性の間に生まれた「ユーラシアン」、現地生まれの華人らが果たした役割に焦点を当てたのが本書である。
外国人商人には現地人女性との「結婚」があっせんされ、現地妻となった彼女らは「夫」に現地の言葉や習慣を教え、二つの世界の橋渡し役となった。こうした女性は「ニャイ(ねえさん)」の尊称で呼ばれた。
ニャイは単なる外国人商人の補佐役ではなく、交易活動を主導した。「優れた仲介商人となり、外来者がもってきた商品を彼女らが構えた店で売り、また内陸部の町に持って行き、内陸部の町からは外来者が欲しい商品を持ってきた」のである。
こうした家庭に生まれた子供を父親が認知するケースも多く、主要都市には欧州人コミュニティーができた。現地の風習になじみ、現地語が話せるユーラシアンは欧州と地元をつなぐ役回りを演じた。
東南アジアは17世紀末に「交易の時代」を終え、18~19世紀には農園や鉱山の労働力として多数の華人が移り住むようになった。
バタヴィア(現ジャカルタ)では、有力華人はオランダ政庁からアヘン販売や賭博場運営を請け負い、その他の地では農園や鉱山を経営した。彼らは「経済面で現地人や華人労働者と植民地支配者との仲介役となった」のである。そんな華人の多くもニャイと暮らした。
19世紀後半以降、東南アジアに欧州から多くの本国人がやってきて植民地支配を強化すると、ユーラシアンの職業は下級事務員などに限られた。現地妻の慣習に厳しい目を向ける道徳観も広がった。こうしてユーラシアンやニャイは、欧州と現地の間を取り持つ役目を終えた。
今日、この地域は極めて多様性に富みながら、東南アジア諸国連合(ASEAN)として一体性を保ち、米中対立の中でも一方に偏らないなど国際社会で独特の存在感を発揮している。そんなバランス感覚が根付いているのも、有効な仲立ちによって異なる文化や社会を理解する知恵が引き継がれてきたからだろう。
(近藤伸二・ジャーナリスト)
弘末雅士(ひろすえ・まさし) 1952年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科東洋史学専攻修士課程修了。公益財団法人東洋文庫研究員。東南アジア海域史が専門。著書に『東南アジアの港市世界』『人喰いの社会史』など。