私が「キエフはキーウに」と提唱した理由=中澤英彦
ウクライナ語「禁止」は苦難の歴史
ロシアによる侵攻で始まった戦争は日本をはじめ西側にも大きな影響をもたらしている。歴史的にウクライナがどういう国なのかを理解することで、将来の形がみえてくる。
戦争はウクライナ語話者を増やした
ロシア系住民にも生まれたロシア語嫌悪感=中澤英彦
2017年春、ウクライナの首都キーウの書店でのこと。ウクライナ語で声をかけた店員が妙に緊張しているのに気付いた。ふと思い至り、ウクライナ語をロシア語に切り替えたとたん、件の店員がほっとして笑い白状した。「ウクライナ語では一語一語考えないと話せないんだ」
街に出ると「ロシア語を公用語に」という選挙ポスターを見かけたり、選挙で候補者の得票率とロシア語母語話者の比率がほぼ比例することがさほど珍しくなかった。
しかし、こうした状況が一変しつつある。ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシア語を母語とする中南部出身だ。19年の大統領就任期にウクライナ語の特訓を受けたという。現在、戦争下で繰り返されるスピーチを聞くと、ウクライナ語を見事に駆使しているという印象を受ける。
とかく我々は日本の物差しでものを見がちであるが、ウクライナでは、言語は単に文化の領域にとどまらず、民族のアイデンティティの根幹を占め、政治の領域にどっぷりと入り込んでいる。その背景をざっと探ってみてみよう。
帝政ロシアは10回以上も禁止令
両言語は、ともに印欧語族(インドからヨーロッパにかけた地域に由来する語族)の一つ、スラヴ諸語中の東スラヴ語であり、共通の近い先祖を持っている。しかし、ウクライナは幾多の隣国の支配を受け続け、宗主国とその支配地域が各地の言語状況を決定づけた。おおむね西部はポーランドの影響下、東部、南部はロシアの影響下におかれた。
帝政ロシア時代、ウクライナ語禁止令は10回以上出された。1876年発効の皇帝アレクサンドル二世による禁止令が代表で、その後1917年まで40年以上効力を持った。翻訳、オリジナルを問わずウクライナ語の書物の出版・輸入禁止、ウクライナ語による舞台上演、音楽活動、講演の禁止、ウクライナ語の初等教育禁止、ウクライナ語書籍・ウクライナ人の書物の図書館からの除去という徹底したものだった。
ウクライナをあくまでロシアの一地方にとどめ、ロシアから分離・独立させないためであった。ウクライナ語の使用は社会生活上著しい不利益をこうむったため、自然な普及と発達が阻害された。
ロシア語とは似て非なる 5割しか分からない
その結果1991年の独立後も東部・南部地域ではウクライナ語話者率が低く(住民の10~30%)、ロシア語しか話せない住民もいたのである。独立後10年経過した01年の国勢調査でも母語の比率は7割弱で、依然として低い。
ロシアの定説によれば、ウクライナ語とロシア語は13~14世紀という歴史的にかなり後期に分れたので、一見、よく似ていると感ずる。しかし実は相違も大きい。それは、言語全般におよぶが、語彙面に絞って見よう。ここには興味深い傾向がある。
手、足、水などの基礎語彙では両言語は、ほぼ共通である。特に学ばなくとも基礎的な会話なら成り立つ。しかし、それ以上の語彙になると、両言語のずれは大きい。ウクライナの言語学者ティシチェンコの調査によれば、両言語は語彙の38%が異なり、これはスペイン語とイタリア語のずれよりも大きいという。ウクライナ語のみ、ロシア語のみの母語話者の感想では、平均、約5割しか相手の言葉が分からないという。
憲法で国家語に規定
独立後の状況は、ウクライナ語の復権の動きとそれと対照的なロシア語の地位確保の動きの対立として考えられる。89年の最高会議におけるウクライナ語の国家語宣言や96年、ウクライナ憲法での国家語としての規定等々に対し、ロシア語母語話者の側からロシア語の第二国家語化の運動がおこった。その端的な例は、12年7月最高会議によって可決された法「国家言語政策の原則について」である。これにより地域の住民の10%以上が母語とする言語は地域の公用語に認定された。それからは、一方への揺れと揺り戻しが続くが、14年のクリミア紛争後いくぶん趣が変わった。
クリミアや東部からウクライナ各地に避難民が移り住み、従来のウクライナ語話者=愛国者、ロシア語母語話者=親ロシア派という構図が必ずしも妥当ではないという認識が生まれ、それと同時にロシア語的表現への寛容さが増した。例えば、列車を表すロシア語的なпоїзд(発音、ポーイズド)は忌避される傾向にあったが、普通に使われるようになった。
戦争きっかけにロシア語制限も
しかし、今年2月のロシアによる侵攻はウクライナ住民の意識を一変させたようである。独立後の30年間も言語意識を変えられなかったのに、親ロシア派、親ウクライナ派を分け隔てしないミサイルや砲弾の力は大きい。4カ月ほどで意識を変えたのである。
現在、おおむね35歳以上のウクライナ住民は、ソ連時代に教育を受け、当時の共通語であったロシア語を自由に使える。しかし、筆者の知る在日ウクライナ人も日本への避難民も、ぜひ日本で働きたい、でも私の人生を壊し、友人らを殺したロシアの言葉だけは決して使いたくない、とロシア語に嫌悪感を示す人がほとんどだ。
ウクライナではロシア語使用制限も今年相次いだ。ロシアの情報戦に対する戦時立法的なものだ。ロシア、ウクライナ被占領地、ベラルーシで印刷されたロシア語の出版物や書籍の輸入が制限され、音楽も含まれる厳しい措置だ。
対象となるのは、独立の91年以降のもので、19世紀のロシアの文豪トルストイなど独立前の物は除外された。ちなみに、ウクライナ生まれの著名作家でロシア語で執筆するアンドレー・クルコフ氏などは、侵略者ロシアの言語であるロシア語使用制限に理解を示す。SNSや報道によれば、ウクライナ東部、南部のロシア人と親ロシア派ロシア系住民の中にも、これからはウクライナ語を使う、勉強するという人が出始めている。
一方でロシア語話者のロシア語使用は禁じられていない。キーウ国際社会学研究所の5月の調査では、ロシア語話者の約9割が抑圧・弾圧されていないと回答している。
日本語表記をキーウへ
ウクライナは古い歴史を持つ「新しい」国だ。私は一研究者として独立国家の首都名が外国語ロシア語でキエフと呼ばれ続けることに違和感を覚えた。東京が中国語風にトンジンと呼ばれるようなものだからだ。そこで同国独立の91年前後から「キーウ」を提唱し、それが今年、戦争をきっかけに公的に認められた。キーウはウクライナ語の音を完璧に写している訳ではないが、現地音に最も近く発音も容易だ。今では敵国となったロシア名を続けるのは様々な点から道理が通らないであろう。
今回の戦争がどのような結末を迎えるかは予断を許さない。しかし、ウクライナにおけるウクライナ語話者率の増加、出自とは関係なくウクライナ住民のウクライナ人意識、一体感が生まれつつあることは間違いないであろう。
(中澤英彦・東京外国語大学名誉教授)